第二章 流されてきた女 ~第一節~




 思いもかけず数日ぶりにまともな寝台で眠ることができたおかげか、はくのけさの目覚めはすこぶる爽快だった。何よりよかったのは、寝ている獅伯の様子を窺ったり近づいてきたりする人間がいなかったことである。

「……まあ、それがふつうなんだが」

 獅伯は庭に面した扉を開け放ち、しっとりとした朝風を大きく吸い込んだ。

 ゆうべ獅伯が助けた書生――さいは、確かに金持ちだった。この見事な屋敷を見れば、志載がろくに仕事もせずに科挙の勉強に打ち込んでいられるのもうなずける。ただ、厳密にいえば志載自身は素封家ではなく、素封家の息子でもない。実際に財産を持っているのは志載の妻の父親、つまり舅だということであった。

 けさはほんのわずかに雨がぱらついていたが、空は明るく、それもじきにやむだろう。獅伯が窓際に椅子を置いて腰を下ろし、雨音を聞きながら剣を磨いていると、背後に小間使いの娘たちをしたがえ、志載が回廊を渡ってやってきた。

「――おはようございます、獅伯どの」

「よう、おはようさん」

 見たところ、志載はもう足を引きずっていない。足をくじいた、骨が折れたと難癖つけられることはなさそうで、獅伯はまずひとつほっとした。

 小間使いたちが卓の上に料理の皿を並べていく間、志載はなぜかうきうきした様子で広い客間の中を歩き回っていた。

「昨夜はどうでした? よく眠れましたか?」

「ああ、まあね」

「それは何よりです。――さあ、まずは食事をすませましょう」

「……用意してもらっといてあれなんだけど、朝からこんなに豪勢にしてくれなくてもよかったんだけどな」

「お気に召しませんか?」

「いや、ありがたいよ。……一番ありがたいのは酒なんだけどさ」

「そうおっしゃると思いまして、うちにある中で一番いい酒をお持ちしましたよ。お約束しましたからね」

 ゆうべの道々で獅伯が繰り返し念を押していたからか、志載は子供の頭よりも大きな酒甕を運び込ませていた。封をはずされた甕の口から、ほのかに酒の香りがただよってくる。

「……まあ、そういうことなら」

 剣を鞘に納め、獅伯は志載に押されるようにして食卓に着いた。酒家でもなかなかお目にかからないような料理が並んでいたが、獅伯にとっては腹を満たすためのものというより、どれもいい酒の肴だった。

「さあどうぞ」

 志載はみずから獅伯の碗に酒をそそいだ。

「――お、いうだけあるじゃん」

 蒸し暑い江南の夏を忘れさせてくれる冷たい酒をあおり、獅伯はあらためて部屋の中を見回した。

「それにしても……ここ、奥さんの実家?」

「は?」

「いや、あんた入り婿なんじゃないの? ってことは、この屋敷の主人は奥さんの親父さんの屋敷なんだろうし、だったらおれ、あいさつしないとまずくない? 酒飲んでからいうことじゃないけどさ」

「ああ、そういうことですか。いえ、いいのですよ、ここは私の屋敷……と堂々と胸を張りにくいのは事実なのですが、妻との婚礼に際して、義父が建ててくれたものですので……」

「結婚祝いに? この屋敷を?」

「ええ」

 志載は少し気恥ずかしげにうなずいた。

 なるほど、屋敷の広さということでいうなら、それこそせきじょうで世話になったりゅう家のほうが広いかもしれない。ただ、これが娘の結婚祝いとして造営されたものだと思うと、獅伯はしばし開いた口がふさがらなかった。

「ただ箱を用意すればいいってもんじゃないのになあ……」

 室内に飾られている書画や骨董、庭をいろどる木々や花々、そこではたらく小間使いたち――屋敷を建てた上でそうしたものまですぐに用意できるのだから、志載の舅というのはかなりの富豪なのだろう。

 羊の腸詰めに芥子を塗って齧りつつ、すっきりと冷えた酒をくいくい飲んでいた獅伯は、ふと思い出して志載に尋ねた。

「……そのくらいの金持ちってことは、あんたの舅はこの街の実力者なんだろ?」

「ええ、はい。義父はこの街で手広く商売をしておりますので、あちこちに顔が利くと思います」

「そんな頼りになりそうな舅さんがいるなら、妙なことに巻き込まれる前に相談すればよかったんじゃないのか?」

「は?」

「だから、ゆうべのごろつきたちのことだよ。やばいと思った時点でその舅さんに泣きついておけば、たいていのことはすぐに解決できたはずだろ? それをまた、どうしてひとりでのこのこ――」

「あ……いえ、それはちょっと――」

 ゆうべの話を持ち出した途端、志載は急に態度がおかしくなった。おどおどと声が小さくなり、給仕役として部屋にいる小間使いたちのほうをちらちら見ている。もしかすると、彼女たちの耳には入れたくない話題なのかもしれない。

「あんた、さては――」

「え? え?」

「……いや、まあ余計なお世話か」

 婿の立場で舅にも小間使いにも知られたくない話となると、もしかすると女絡みかもしれない。どこかに妻にないしょで妾を囲っていて、それをあのごろつきたちに嗅ぎつけられたか、もしくは女に手を出そうとしたら美人局だったか――いずれにしても、婿の立場では妻にも舅にも切り出せない話には違いない。

 裕福な人間が正妻のほかに妾を置くのはふつうのことだが、それを妻にいえないのならただの浮気ということになる。とはいえ、わざわざそんなことを指摘して他人の家庭の事情に波風を立てるつもりはない。差し当たって、獅伯はただうまい酒が飲めればそれでよかった。

「――そういやあんた、異国の文字とか読める?」

「は?」

「異国の文字」

「いや、それはちょっと……」

「さすがに科挙にもそんな問題出ないか……なら、そういうのが判りそうな知り合いとかいない?」

「異国の言葉となると、学者か通詞つうじということになりますが……そうですね、それこそ義父の知り合いにいなくはないかと思います。義父は泉州せんしゅうあたりの商人とも取引をしていたはずですし」

「そうか……」

 確か泉州は、異国から多くの商人たちがやってくる大きな街だとぶん先生から聞いた覚えがある。そういう街なら、異国の言葉が判る人間を捜すのもたやすいかもしれない。獅伯がそんなことを考えていると、今度は翡翠色の衣をまとった美しい娘が回廊を渡ってやってきた。

「――ああ、獅伯さん、ご紹介しますよ。私の妻です」

「つ、妻……?」

「あいさつが遅れてごめんなさい。とうこうくんといいます。昨夜は夫の命を救っていただいたとか……本当にありがとうございました」

 志載に肩を抱かれてはにかむように笑ったその娘は、いかにも生まれのよさそうな、ふんわりとした所作で獅伯に一礼した。

 ゆうべ聞いた話では、志載は今年で二八、妻のほうはひと回りほど若い一九だという。獅伯が驚いたのは、その香君が思っていた以上に幼かったからである。といっても、それは顔立ちや身体つきといった見た目の話ではない。

「……大事に大事に育てられた世間知らず苦労知らずって感じだな」

 獅伯の脳裏によぎったのは、同じく豪商の娘として育てられた石城の劉らんしんだった。さまざまな苦労をかさねてきたせいか、一七歳の蘭芯は、その実年齢よりも大人びていたように思えるが、逆に香君は――立ち居ふるまいや口調、まとった雰囲気が――一九という年齢に対してずいぶん幼く思える。

「――まあ、あんたの旦那を助けたといってもなりゆきだよ、なりゆき」

 獅伯は形ばかり礼を返してぼそぼそと呟いたが、まるでそれを上から塗り潰すかのように志載が香君にいった。

「そうそう! そういえば獅伯どのは、おまえの父上に何か用事があるらしい。――そうですよね、獅伯どの?」

「え? おれ、そんなこといったか?」

「さっき私に聞いたじゃないですか、異国の言葉がどうの、通詞がどうのって」

「ああ、確かにいったけど……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る