第一章 建業、金陵、そして建康 ~第七節~
運河端で男たちに拉致されかけていたところを月瑛に救われた美女――
「……それにしても、いったい何があったんですかねぇ?」
当の秋琴は、今は手当のために別の部屋に引っ込んでしまった。ただ、彼女をここへ送り届けた際の女将の動揺ぶりからすると、秋琴はこの店の稼ぎ頭かそれに準ずる女なのかもしれない。
「人気のある妓女なら、お得意さまの屋敷に招かれてこちらから出向くこともありますし、ある程度は外出も許されますよ。これがあまり人気のない妓女だったり、借金の形に売られてきて間もない娘であれば、店の外には出してもらえないこともあるでしょうけど」
「じゃあ、お得意先に呼ばれていく途中にごろつきに襲われたってことですか?」
「そこは何とも……」
そこで白蓉は意見を求めるつもりで月瑛の顔を見やった。
「……わたしが気になってるのは、あの男たちが最初から秋琴さんをさらうつもりでいたみたいだってことさ」
「最初から? なぜそう思うんです?」
「いや、何となくそう思っただけなんだけど、ひとりがお供のじいさんをブン殴ってる間に、ほかのふたりが猿轡を噛ませて縛り上げようとしてたろ? 悪党どもがたまたま見かけた美女をさらって手籠めにしようとしたってわりにはね、やたら段取りがよすぎる気がしてね」
「そういうことに手慣れてる悪党ってことじゃないんですかあ?」
「かもしれない……けどねえ」
「……そこはご本人に聞いてみないと何ともいえませんが、たとえ売れっ妓だったとしても、妓女にはいろいろありますからね」
静かに茶を飲み干し、文先生は嘆息した。
「たとえば、秋琴さんに惚れているけど袖にされたどこかの金持ち男が、あの連中に金を渡して彼女をさらわせようとした――とか、なくはないと思います」
「なるほどねえ……」
したり顔でうなずいた月瑛が、ふと眉をひくつかせた。それとほとんど同時に白蓉も、どこからかただよってきたいい匂いに気づいて腰を浮かせてしまった。
「お待たせいたしました」
やがて、秋琴が女将や店の小間使いたちといっしょに部屋に入ってきた。大きな卓の上においしそうな料理の皿が次々に並べられ、白蓉の胃袋をちくちくと刺激する。
「まあまあまあまあ、たいへんお待たせして申し訳ございませんねえ」
探花楼の女将は、若い頃の美貌をまだかろうじてうかがわせる顔立ちの、しかし今はころころと太った愛嬌のある四〇すぎの女だった。
「――このたびはうちの秋琴を救っていただき、まことにありがとうございました。この子に何かあったらうちは大損、本当にもう何とお礼を申し上げていいやら……」
「女将さん、それより――これ以上お待たせするのは」
隣にいた秋琴が、どこか気恥ずかしそうに女将をせっついた。
「あらあらあらあら、そうだったわね、はい。さあ、遠慮なさらずどうぞお召し上がりください。いくら飲んでも食べてもただ! お代はすべて秋琴につけておきますので、ええ」
この店が繁盛しているのは、秋琴のような美女たちがいるのに加えて、陽気で口数が多いこの女将の手腕もあるのだろう。小間使いの娘たちが女将の冗談にくすくす笑っているのを見ても、何となくそうしたことが窺える。
「それじゃ秋琴や、あとは任せたよ?」
「はい」
「それではみなさま、どうぞごゆっくり」
ていねいに一礼して、女将は離れを去っていった。
「あのくらいのはたらきでこんなもてなしを受けるなんて、日頃から徳は積んどくもんだねえ」
「まったくです」
月瑛の言葉に苦笑しつつ、白蓉はさっそく料理に箸を伸ばした。
「――ところであのじいさんは大丈夫だったかい?」
「ええ、殴られた拍子に少し強く腰を打ったとかで、しばらくは安静にしていなければならないそうですけど、骨が折れたとかいうことはありませんし、大事にはなっておりませんわ」
そう答えた秋琴からは、料理の匂いを邪魔しない、ほんのかすかな芳香を感じる。店にかつぎ込んだ時とは身に着けているものも簪もまるで違うし、白蓉たちがここでお茶を飲んでいる間に、身を清めてきたのかもしれない。
「そいつはよかった。秋琴さんのほうはどうだい?」
「おかげさまで、わたしもご覧の通り、どこも怪我はしておりません。ただ、少しばかり痣ができてしまっていて……」
「どこにです?」
不躾なことを尋ねる文先生の脛を、白蓉は顔色も変えず卓の下でごつっと蹴飛ばした。
「っ……!」
箸をぐっと握り締め、文先生は無言で痛みに耐えている。白蓉はそしらぬ顔で煮鮑を口に運んだ。小さく笑って手酌で酒を飲んでいた月瑛は、今頃になって思い出したのか、
「……そういえば、いまさらだけどちゃんと名乗ってなかったね。わたしは
「
「文
月瑛に続いて白蓉と文先生がそれぞれあいさつすると、秋琴は優雅なしぐさで一礼し、三人の盃に手ずから酒をそそいだ。
「あの時みなさまがたが通りかかってくださらなければ、今頃わたしはどうなっていたことか……」
「いや、たまたまだよ。たまたまあのへんをぶらついてたら、じいさんの呻き声みたいなのが聞こえてきたもんだからさ。銭の臭いを嗅ぎつけた気がしてね」
「銭の臭い……ですか?」
「お恥ずかしい話ですけど、うちの姉弟子はお酒に目がなくて、すぐに路銀を飲み尽くしてしまうんです」
蛤の酒蒸しをぱくつきながら、白蓉は日頃の不満も乗せていってやった。
「――それで、お金に困ると盛り場で酔っ払いたちが喧嘩していないかと捜して回るんですよう」
「け、喧嘩……?」
「そうなんですよぅ。他人の喧嘩にわざわざ首を突っ込んでって、助っ人をやって小銭を稼ぐんですから。無駄遣いしなければそんなみっともない真似なんかしなくたっていいのに……」
「いや、白蓉さんはそういいますが、今回は月瑛さんのその悪癖……というか、酒好きのおかげで、こうして秋琴さんの窮地を救えたわけですからね」
「文先生だって路銀で飲んじゃうところはいっしょなんですよう? おかげでわたしばっかり苦労させられて――」
「そういうことでしたら、ここにいる間はお酒でもお料理でも、好きなだけお召し上がりください。女将はああ申しておりましたけど、ちゃんとお店のほうで持たせていただきますので」
「え? いいのかい?」
「特に先を急ぐ旅でないのであれば、このまま何日逗留していただいてもかまいませんし……」
「それはありがたい! ぜひとも!」
「先生――」
もう一度脛を蹴飛ばしてやろうと思った白蓉に、文先生はこそこそと耳打ちした。
「――決して酒が飲みたくていってるわけじゃないんですよ? こういう人の出入りの多いところを拠点にできれば、獅伯さんを捜すのもずいぶん楽になるんです」
「えー……?」
「獅伯さんを捜すため、獅伯さんのためですよ」
「……ほんとですかぁ?」
今ひとつ信用しきれなかったが、獅伯を捜すためといわれると強く突っぱねられない。それに、ほかの宿を捜して泊まろうにも手元不如意なのは事実である。
これ以上の不満が出ないよう、白蓉は冷たい竜眼の皮を剝いて自分の口に突っ込んだ。
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