第一章 建業、金陵、そして建康 ~第六節~

「ぐぇ――」

「うおっ!?」

 書生と大男を廟から追い出した獅伯は、すかさず剣と荷物を掴んでふたりに続き廟を飛び出した。

「おいちょうたつ!? 大丈夫かよ!?」

「ほっとけ、ほう! それよりこっちの小僧だ!」

 ほかのふたりが剣を抜き放ち、獅伯に襲いかかってくる。

「街がでかいと、たちの悪い連中もそれだけ多いってことなんだろうな――」

 砂利を蹴散らして踏み込んできた男の剣を、鞘の表面ですべらせるようにして逸らした獅伯は、そのまま相手の胸板に肘を打ち込んだ。

「ぐっ……!」

 胸を痛打されて吹っ飛んだ男の手から剣が浮く。獅伯はそれを掴んですぐさまもうひとりの男に向けて投げつけた。

「あっ!?」

 空を走った剣が男の剣をはじき飛ばした。

「――次は剣じゃなくてあんたの指か手首が飛ぶぞ?」

 手を押さえてたたらを踏んだ男の鼻先に、獅伯は自分の剣を抜いて突きつけた。

「……というか、あんたたちの場合、たぶん才能とかないから、剣なんか振り回さずに真面目にはたらいたほうがいいと思うよ?」

「う……!」

 最初に書生を投げつけられた大男と胸に一撃食らった男、それに剣を飛ばされた男と、三人とも深手を負ったわけではない。しかし、ほんのわずかな今の攻防だけで、自分たちではとても獅伯にはかなわないと思い知っただろう。

 男たちが微動だにしないのを彼らの返事と受け止めた獅伯は、剣を鞘に納め、砂利の上に転がったままの書生を引きずり起して歩き出した。

「ご協力ありがとさん。怪我してない?」

「だ、大丈夫です、はい。お気遣いなく……」

 衣服の乱れを直し、書生はぎこちなく笑った。

「――それより、今夜のところはこのまま我が家へお越しください。お約束した一〇〇両もお渡しいたしますので……」

「それさっきもいったけどさ、そんなにぽんと一〇〇両出せるようなら、出し渋らないでちゃんとあのおっさんたちに金を払っとけばよかったんじゃないの?」

「で、ですが彼らは……その、悪人でしたし」

「そりゃまあ善人じゃないだろうね。けど、あんたはその悪人たちと知り合いだったんじゃないの?」

「いや、それはまあ……知り合ってから悪人だと発覚したと申しますか――」

 気が抜けたように笑う書生を見つめ、獅伯は口を引き結んだ。

 横暴な三人組のやりように腹を立て、その場のいきおいとうまい酒欲しさに助けてしまったが、獅伯にはこの書生がどうにも軽薄そうに見えてならない。悪人ではないのかもしれないが、その言葉に今ひとつ重みが感じられないのである。

「……あんた、仕事は?」

「は?」

「身なりからすると金は持ってるようだけどさ、あんた、仕事は何をしてんの?」

「し、仕事は……今は何も」

「仕事をしてない? なら実家が金持ちってこと?」

「ま、まあ、そのようなものです。科挙を目指して勉強中と申しますか――」

「ああ……」

 ひょろっとして頼りなさげなところが文先生に似ているような気がしていたが、そういわれれば納得がいく。ふだんから力仕事のようなことはせず、家の奥で本ばかり読んでいれば、こういう青白くてなよっとした印象の男が育つのだろう。ついでに世の中のこともよく知らないから、荒っぽい男たちを相手に不必要な騒動を引き起こしたのかもしれない。

 書生はいまさらのように拱手して獅伯に一礼した。

「あらためまして、私はさいと申します。先ほどは危ないところを助けていただき、ありがとうございました」

「おれは林獅伯。……そうかしこまらなくていいよ」

 まだ少し足を引きずる志載に肩を貸し、獅伯は歩き出した。


          ☆


 建康の街の中央を南北に走る御街ぎょがい――目抜き通りと、街の中を東西に横切る秦淮河が交差するところに、鎮淮橋という大きな橋がある。

 この橋の周辺は、秦淮河に接続された大小無数の運河の起点であり、古くから物流の中心地として栄えてきた。今もこの街で一番の、すなわち盛り場として昼夜を問わず人々であふれかえっている。

 その一角に壮麗な五重の楼閣をそびえさせているのが、街でも指折りの妓楼、探花楼であった。

「こんなところにただで泊まれるなんて、夢のような話ですねえ……」

 部屋の中に飾られている書画や骨董のたぐいを物珍しげに眺めながら、文先生は満足げに呟いた。

「ただで泊まれるったって、酒はともかく女は出てこないよ?」

 月瑛が順繰りに窓を開けて外側を確認しているのは、いざという時に備えてのことだった。高級な妓楼だろうが場末の安宿だろうが、そのへんの用心深さは変わらない。

 薄手の白磁に茶をそそぎ、白蓉はじろりと文先生の背中を睨んだ。

「……先生、くれぐれも妙な気は起こさないでくださいね?」

「判ってますよ。ここで綺麗どころをはべらせてひと晩遊んだら、それだけで何十両かかるか知れたもんじゃない。……しかしまあ、解語花かいごのはなも見るだけなら本当にただですからね」

「まったく……」

 白蓉とて年頃の娘である。月瑛とともに各地を渡り歩いてそれなりに修羅場もくぐり抜け、世間の厳しさも判っているつもりである。当然、ここがどういう場所であるかも――ここが何をする場所であるかも承知している。どうにも落ち着けないのはそのせいもあった。

 月瑛が開け放った窓からは、夏の蒸し暑さを束の間忘れさせてくれる夜風といっしょに、笛や琴の音、それに男女の嬌声が流れ込んでくる。聞けばこの楼には、一〇〇人近い美妓たちがいるらしい。きょうも客の入りは上々のようだった。

 白蓉が用意した茶をすすり、月瑛は先生に尋ねた。

「……なあ先生、実際のところ、あのしゅうきんさん、どう思う?」

「どうとは?」

「先生はそういうのに詳しいかと思ってね。――見たところ、あの人はわたしより年上じゃないかい? 美人なのは確かだけど、この商売、そういう年でやっていけるもんかねえ?」

「妓女に求められるものはたくさんあります。まず第一に器量がいいこと。次に――まあ、当然ですがあっちのほうがうまいこと。あとは歌がうまくて何か楽器が弾けて、教養があって気配りがある。人気の高い妓女というのは、こういうものを兼ね備えた上に、さらにその人なりの何かしらの魅力を持っているんじゃないでしょうか」

「年は関係ないってわけかい?」

「まあ、やや身勝手な男の立場からすると、身請けして子供を産んでもらいたいというのでもないかぎり、妓女の年齢なんて気にしませんよ。こういうところに客としてやってくる男が真っ先に見るのは、目の前の女の顔なんですから」

 部屋の中をひと通り見て回っていた文先生は、月瑛の向かいに腰を下ろし、湯気の立つ碗に手を伸ばした。

「秋琴さんには、年に似合わない初々しさがあるといいますか……ふつう、妓女というのは、客に金を出させるための手練手管に長けた、したたかな女性が多いという印象だったんですが、秋琴さんは少し違うような気がします」

「先生ったらお詳しいんですね、そういうことに」

「問われたことに答えただけなんですから勘弁してくださいよ、白蓉さん」

「別に許すも許さないもないです。先生は博識ですねってだけの話ですから」

「まあ、先生の過去の行状はともかくとして……こういうところに好き好んで身を置く女はそうはいないだろうけど、確かにあの人は明らかに場違いって気がするよ」

 その月瑛の言葉には白蓉も同感だった。

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