第一章 建業、金陵、そして建康 ~第五節~


          ☆


 結局、二頭の馬はうまい酒と羊の干し肉、饅頭に変わった。おかげできのうときょうは飢えることも渇くこともなく、雨にも降られずのんびりと旅ができている。

 そんな獅伯が、宿ではなく街はずれのさびれた無人の廟で夜を明かそうと考えたのは、妙な連中が自分を追いかけている気配を感じていたからだった。わざわざ金を払って泊まった宿で、ほかの泊まり客から寝込みを襲われたりしてもつまらない。この建康は、獅伯が知る中でもっとも大きくにぎやかな街だが、それゆえに、田舎者の懐を窺う小悪党も多いだろう。日暮れ間近にここへたどり着いた獅伯は、無用の騒動を避ける意味もあって、今夜は人目につかないところで朝を待つことにしたのである。

「――人間、堅実が一番だよ」

 きしむ板壁に背を預け、干し肉をかじりながら酒をすする。このくらいのことで満たされてしまうあたり、我ながら安上がりだなと獅伯は小さく笑った。

「…………」

 鞘に刻まれている自分の名を指でなぞり、獅伯が特に意味もなく饅頭をちぎっていると、砂利を踏む足音が少しずつ近づいてくることに気づいた。とっぷりと日が暮れた刻限ということを無視しても、荒れ果てて打ち捨てられた廟に参拝する物好きがいるとは思えない。獅伯は食べかけの饅頭を酒で流し込み、物音を立てることなく扉のそばに移動した。

「まともな人間がこんな時間にこんなところに来るはずないんだよなー。おれも人のこといえないけどさー……」

 ところどころ桟の折れた扉から外の様子を窺うと、小さな提灯の明かりひとつをたずさえて、数人の男がこちらへやってくる。しかし、日没とともに一杯ひっかけ、いい気分で家路に就いた友人同士、という雰囲気でもない。暗いせいではっきりとは判らないが、どうも三人いるずぶ濡れの男たちが、ひょろっとした青白い書生風の男を小突きながら引きずってきているようだった。

「……はいはい、おれは何も見てない。何も知らない」

 廟の奥のほうへ戻った獅伯は、ささやかな荷物を枕代わりに頭の下に敷いて横になった。どう好意的に見ても彼らがこれから穏便な話し合いを始めるようには思えないが、そこにみずから首を突っ込んでも何の得もない。知らぬ存ぜぬを決め込むのがいいに決まっている。

 静かに目を閉じると、途切れ途切れに男たちの会話が聞こえてきた。

「……おい、何かずいぶんと話が違うんだが?」

「そ、そんなことをいわれても……」

「ついでにおいしい思いもできるっていってたよなぁ? なのにいったい何なんだよ、あれは!?」

「でっ、ですから、そのようなことをいわれましても、私には何が何やら……あれはって何なんです?」

「何が何やらって、てめえいまさら知らぬ存ぜぬか!?」

「……意外と図太いな、おまえ」

「いちいち屁理屈こねてんなよ!」

「うぐ、ふ――」

 鈍い音と呻き声、そして砂利の鳴る音――気弱な書生が殴り倒されたのだろう。難癖をつけられている書生には同情もするが、ごろつきにしか見えない三人組に道理を説いてもかえって怒らせるだけだと判らないのは、よほどの世間知らずなのかもしれない。こういう時、文先生ならもう少しうまく切り抜けるのかもしれないと、獅伯は小さくあくびをしてぼんやりと考えた。

「――とにかくこっちは話が違うっていってんだよ!」

「いいから素直に出すもの出せって。な?」

「そ、それはあまりに、りっ、理不尽というもの――」

「あ!? いつまでもオレらが下手に出てるからっていい気になってんじゃねえぞ?」

「い、いえ、ですからそれは――」

「うるせえよ! まだ痛い目に遭いてえか!?」

「ぎゃっ!」

 さらに派手な悲鳴がほとばしった直後、廟の扉を破って書生が転がり込んできた。

「――――」

「あ、ああ、あ……!」

 鼻血を垂らしながら立ち上がろうとしていた書生と、廟の隅に寝転がっていた獅伯の視線が交錯した。

「そっ、そこ、あ、そこのお人! どっ、どうか、どうか……!」

「……勘弁しろよ、本当に。おれはただ朝まで静かに寝ていたいだけなんだけどな」

 前にも似たようなことがあった。思えばあのあたりから、獅伯の旅に意図せぬ同行者が増え始めた気がする。この手の面倒ごとに巻き込まれるのは本当によくない。よくないことの起こる前触れに決まっている。

 舌打ちして身を起こした獅伯に、書生はよたよたと這うようにして近づいてきた。

「どっ、どうかお助けを――」

「嫌だよ、おれを巻き込むな。おれは関係ないだろ」

「そっ、そこをどうか――」

「なら一〇〇両出しなよ。今すぐ、ここで」

「……へ?」

 鼻血を垂らしたまま、書生は呆然としている。そんなふうに切り返されたのが信じられないといったような表情だった。

「ここであんたを助けるってことは、要は、おれがあんたの代わりにあいつらをどうにかしなきゃならない、おれが危ない橋を渡らなきゃならないってことだよな? 場合によったら刃傷沙汰だぞ? そんな危険で面倒な役割をおれに押しつけようとしてんのに、あんたは一〇〇両も払えないってわけ? いっとくけど、腕利きの用心棒ならそのくらいは取るんだよ?」

 実際のところ、たとえば月瑛が用心棒代にどれだけの金を要求するのか獅伯は知らない。ただ、そう吹っかければこの書生もあきらめるだろうと思ったのである。

「ひゃ、一〇〇両でよろしいのであれば、はっ、払います! てっ、手もとにはございませんが、屋敷に戻ったら、そ、その場でお支払いいたしますので――」

「は? あんたそんな金持ってんの? だったらあっちのおっさんたちに金払って勘弁してもらえばいいじゃん。事情はよく判んないけどさ、そこをけちるから鼻血出すはめになってんじゃないの?」

「で、ですが……」

「……よく見たら、あんたけっこういい身なりしてるみたいだし」

 書生が腰から下げていた青白い璧に目を止めるた獅伯は、それを取り上げ、廟の中に押し入ろうとしている男たちにいった。

「なああんたら、悪いけど、ここは今夜にかぎっておれの寝床なんだ。こいつをやるからさっさと帰ってくんない? 充分酒代になるだろ? こっちの書生さんに痛い目見せてあんたらも溜飲下げただろうしさ」

「…………」

 獅伯が放り投げた璧を受け止めた男たちは、顔を見合わせて何ごとか話し合ったあと、すぐにいった。

「足らねえな」

「……は?」

「これじゃ足りねえ。ひとり頭……そうだな、あと一〇〇両ずつもらおうか」

「……はあ? 本気でいってる?」

 さすがにそれは強欲すぎるだろう。この書生と男たちの間に何があったのかは知らないし、わざわざそこに首を突っ込みたくはないが、こういう腕っ節にものをいわせて横車を押し通す図々しい輩にも腹が立つ。

「……おら、立て。おまえの屋敷まで案内してもらうぞ」

「そうだそうだ、今すぐ行こう。案内してくれや、なあ?」

「ひっ――」

 書生は首をすくめて獅伯の足にしがみつき、強引に引きずっていこうとする男たちにあらがった。

「ごっ、後生です! どうかお助けを……!」

「……一〇〇両と酒だ」

「は?」

「一〇〇両と、それにいい酒だ。気分よく酔える酒を好きなだけ飲ませてもらう」

「はっ、はい! かならず! ご、ご用意いたしますので!」

「だったら決まりだ。……本当は面倒なことしたくないんだけどな」

 うんざり顔で溜息をつき、獅伯は書生の腕をあっさりと振りほどいた。素人がどんなに必死になってしがみついていても、獅伯にとってそれを引き剝がすなど造作もない。書生がぽかんと驚きの表情を浮かべた次の瞬間、獅伯は書生の後ろ襟を掴んで大男目がけて投げつけた。

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