第一章 建業、金陵、そして建康 ~第四節~
「半分は雪峰先生に、残りの半分は、お引き受けくださるかたがたへのお礼としてお納めください」
「ずいぶんと気前のいい話だが、いったい何人斬らせるおつもりか?」
「相手はひとりでございます」
「ひとつ一〇〇〇両の首、か……」
「加えて、首尾よくことが運べば、さらに五〇〇両お届けいたします」
「たったひとり斬るのに一五〇〇両も用立てるとは、酔狂というか豪気というか、変わった御仁もいるものだ」
どこの誰が、それほどの金を積んで誰を殺したいと望むのか。標的がかなりの大物であることは間違いない。
「どなたからのご依頼か、とはお聞きくださいますな。ただ、この国のためになることは確かでございます」
「そのような口上はどうでもよい。問題は誰を斬るか――さすがに今の皇帝を斬れ、丞相を斬れなどという話であれば、このままお引き取り願うしかないが」
「いやいや、ご冗談を……そのような大それた考えを持つなど、滅相もございません」
李老人は苦笑しながら首を振ると、懐からふたつに折られた紙片を取り出し、魁炎の前にすっと押し出した。
「……この男が臨安に戻る前に斬っていただきたいのです。何かしらの事故に見せかけていただければありがたいが、そこまでのぜいたくは申しませぬ。やり方はそちらにお任せいたしましょう」
「…………」
紙片に記された名前を確認し、魁炎は目を細めた。
「……先ほどもいったが、我らは人手を貸すだけだ。その者がうまくことを運ぼうがしくじろうが、雪梅会にも先生にも関係はない」
「それはもちろん、ええ、判っておりますとも。どのような結果になろうと恨み言は申しませぬ」
「そういうことであれば――うけたまわろう」
「おお……ありがたい! 臨安の裏通りを捜せば金で殺しを請け負うとうそぶく者などすぐに見つかるでしょうが、その仕事に絶対の信を置ける相手を捜すのは難しいものです。その点、雪梅会のかたがたであれば心配は無用ですからな」
「そこまで手放しで喜ばれても困る。立場のある人間はそれなりの護衛をそばに置いていることが多い。こちらも返り討ちに遭う恐れがないわけではないからな」
「いや、ほかならぬ“
李老人は早くもことが成就したかのように喜びながら、従者とともに梅花山荘をあとにした。
「年寄りは気が長いものかと思っていたが……存外にせわしいな。喜ぶにはまだ早すぎるだろうに」
冷めた茶をすすり、魁炎は小さく笑った。
ここに集まってきた剣士たちの中には、この手の汚れ仕事にいっさいの禁忌を覚えない者も少なくない。ただ、これはと思う腕利きの剣士の多くは、林獅伯の剣と首を狙ってこの島を離れている。梅花山荘に残っている者の中から誰を選ぶべきか、ことによっては自分が出向くしかないかと魁炎が思案していると、青々とした葉をしげらせた芭蕉の向こうから剣を背負った男女がやってきた。
「失礼、王
むっつり顔の男の隣で慇懃に
「――たった今お帰りになったお客人のご様子からするに、何かうまい話が転がり込んできたのでは?」
「……相変わらず鼻が利くな」
「いえ、鼻が利くというより、わたしの薬指がひくつくのですよ」
目を細め、女は笑った。
無口な男は
「――して、あのお客人が持ち込んだ仕事、我々にお下げ渡しくださいますか? 早い者勝ち、というつもりはございませんが……」
「そうだな……おまえたちに任せるのがもっとも手っ取り早いかもしれん」
「では……?」
「期日は特に切られていないが、相手が臨安に戻ってくる前に片をつけてほしいとのことだ。おまえたちの取り分は五〇〇両。やり方は任せるが、くれぐれも先生のお名前に傷がつくことだけはするな」
そう釘を刺してから、魁炎は、相手の名前が記された紙片と、箱の中から掴み出した銀を五〇〇両ぶん、ふたりの前に置いた。元章が真っ先に紙片に手を出し、泉玉が迷わず銀に手を伸ばしたあたりに、両者の性格の違いが出ているようにも思える。
「わたしどもがどこで何をしようと、雪峰先生はいっさいお気になさりませんでしょう」
銀塊を掴んで袖にしまい込み、泉玉は冷ややかにいった。美しいには美しいが、その顔立ちにはどこか険があるように思える。
「――あのおかたは、ただご自身の剣のことしか考えておられません。剣名を高めようだの武芸者たちから尊崇を受けたいだの、そうした俗っぽいことにはまるで興味をお持ちではない。そういう意味では、師兄とよく似ていらっしゃる」
「そう見えるか」
「まあ、わたしなどは、先生のそういう澄まし顔が大嫌いなのですがね」
にっと目を細めた笑顔はそのままに、泉玉はつけ足した。
理由は判らないが、泉玉は雪峰をはっきりと敵視している。そういう人間をなぜ雪梅会に迎えたのか――とは、魁炎も雪峰に問うたことはない。魁炎自身、剣士として雪峰を超える、すなわち彼女を斬ることを目指しているからである。そんな魁炎に泉玉をとがめる権利はない。
「――王師兄、いつまでもぐずぐずしていると、わたしのほうが先に先生を斬ってしまいますよ?」
「そこまでの自信がついた時にはまず私にいえ。私がおまえをためしてやる。私を斬れないようでは、先生にあっさり斬られて死ぬだけだからな」
「はい。その時はよろしくお願いします」
「……師兄」
その時、それまでじっと無言で紙片を見つめていた元章が、魁炎と泉玉の話の流れを完全に無視して口を開いた。
「何人か人手を借りていってもよろしいか?」
「人手?」
「元章、何をいい出すのです?」
魁炎と泉玉の怪訝そうな声がかさなった。
「わたしとおまえがいれば充分――」
「絶対にしくじるわけにはいかない」
元章が泉玉の言葉をさえぎる。泉玉も女としては上背があるほうだが、元章はそれよりさらに頭ひとつ大きい。言葉数は少なくとも、その身から放たれた静かな迫力は、気の強い泉玉さえ鼻白ませていた。
「……師兄、よろしいか?」
「分け前でもめて殺し合いになるようなことさえなければ、そのへんはおまえたちの好きにするがいい。……もしおまえたちがしくじったとしても、その時は私が出向くまでのこと」
「王師兄のご出馬は無用」
紙片を懐にねじ込み、元章は軽く一礼して去っていく。それを呆然と見送る泉玉に、魁炎はいった。
「……これほど口数が多い元章は初めて見た。何かあったのか?」
「わたしにもさっぱり――いえ、ですが元章の申す通り、師兄のお手をわずらわせるまでもございません。それでは失礼いたします」
こちらはことさら慇懃に頭を下げ、泉玉はすぐさま元章を追っていった。挑発的で饒舌な泉玉と、つねに泰然と構えていて寡黙な元章――妙な取り合わせではあるが、今ここに残っている門弟たちの中では、もっとも腕が立つふたりともいえる。
「それにしても、ここまでの大金を払って朝廷の高官を斬ってほしいとは、依頼主は蒙古の手先か、あるいは――」
漆塗りの箱の中に残った銀の鈍い輝きを見つめ、魁炎は口を引き結んだ。
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