第一章 建業、金陵、そして建康 ~第三節~

 船の上にいるのは薄汚れたなりの男がふたりと、色あざやかな衣装を身にまとった美女――取り合わせとしてはあまりにちぐはぐだったが、この際それはどうでもいい。月瑛の勘気に触れたのは、男たちが暴れる女をふたりがかりで押さえつけ、猿轡を噛ませようとしていることだった。

「ちっ……」

「おい、早く来い!」

「おう!」

 船上の男が声をかけると、老人を殴り倒した大男が船に飛び移り、竿を掴んで岸を突いた。

「白蓉!」

「はいっ!」

 あとから追いかけてきた白蓉が、月瑛の意図を察して剣を投げる。それを後ろ手に掴み、月瑛は石畳を蹴って船に向かって飛んだ。

「うおっ!? こいつ――?」

 驚きの声をあげた大男は、咄嗟に竿を振りかざした。

「女と遊びたいならわたしが相手をしてやろうじゃないか――」

 唸りをあげて飛んできた竿をかわし、月瑛はそのまま大男の目の前に下り立った。

「わ、お、おい……!」

 船が大きく揺れ、男たちは慌てて船縁を掴んで身体をささえようとした。ただひとり大男だけは、腰を落として揺れる船上でも動じることなく、竿を捨てて腰の剣を抜こうとしている。

「でしゃばるなよ、女――」

「悪かったねえ、でしゃばりで」

 剣を抜こうとする大男の動きより一瞬早く、月瑛は大男の胸板に肩口をぶつけた。

「ぐ、ふ……っ!」

 剣を抜きかけたまま、大男は仰向けに運河に落ちた。

「さて――」

 背負った剣を抜き、月瑛は残った男たちに向き直った。

「こ、ちょ、おまっ……」

「ちっ、近づくな……!」

 男たちはそれぞれに腰から剣を抜こうとしていたが、足元が定まらないせいか、抜くに抜けずにいる。腕前でいえば、このふたりはさっきの大男より、一枚か二枚ほど落ちるようだった。察するに、兄貴分とその腰巾着たちといったところか。

「わたしに近づかれたくなけりゃあんたらが下がりなよ」

 わざと船を揺らしながら、月瑛は平然と男たちのほうへ近づいていった。

「お、おっ……このっ、女がどうなっても――」

「……何がしたいんだい、あんたらは? さらっていこうとしてたんじゃないのかい、その美人さんをさ?」

 男のひとりがどうにか剣を抜き、目の前でうずくまっている女に向かって振り上げた瞬間、月瑛はひと息に間合いを詰めた。

「ぐぎゃっ!」

「ぶふ、ぉ――」

 ひとり目を踏み込みながらの掌底で吹き飛ばし、そこから無造作な張り手で残るひとりを跳ね飛ばす。小さな弧を描いて飛んだ男たちは、無様な悲鳴を道連れにして暗い水面に没した。

「……美女をさらうなんて大胆な真似をするわりには、何かとお粗末な連中だねえ」

 波立つ水面に浮かんでいた竿を掴み取り、川底を突いて船を岸辺に戻した月瑛は、女の背後に回って猿轡をはずしてやった。

「大丈夫かい、あんた?」

「は、はい……」

 ようやく呼吸が楽になったのか、女は大きく息を吸い込み、胸を押さえて肩を上下させている。あらためてこうしてそばで見ると、面差しにやや気疲れしたような影はまとわりついているものの、やはり美しい女だった。この瀟洒な衣装や髪を飾るきらきらしい簪の数々からすると、どこかの妓楼に身を置く女なのかもしれない。

 月瑛は女の背中を撫でさすり、白蓉たちにつき添われている岸辺の老人を見やった。

「あのじいさんはあんたの連れかい?」

「は、はい……店からいっしょについてきてくれたのですけど」

「店?」

「……ちんわいきょうのそばにある、“たんろう”という店です」


          ☆


 湖上の小島に引き籠もり、ひたすら剣の修行にのみ打ち込む日々を送っていると、次第に世情にうとくなっていくものだが、それでも、今のこの国が蒙古の脅威にさらされていることくらいはおうかいえんも知っている。

 剣のほかには何もない魁炎には、国を動かす王侯貴顕、士大夫のごとき人々の気苦労など判らない。しかし、この国難の時にあって、彼らがさまざまな意味で追いつめられているのだということは察せられた。なぜなら――ごく稀にではあるが――朝廷内でそれなりの地位にある人間や、あるいはその使者と称する者が、お忍びで“こうせつこうしゅ”ことせつほう先生を訪ねてくることがあるからである。

 きょう雪梅会せつばいかいの門を叩いたのは、りんあんから来た小太りの商人だった。やはりさる高官の名代としてやってきたという。

 そうした客人たちに、雪峰がじかに会うことはない。そういったことの判断は、すべて魁炎にゆだねられている。もし魁炎にそのつもりがあれば、雪梅会を意のままに動かすこともできるだろうが、雪峰と同じく俗な権力に興味のない魁炎は、雪梅会に集まってきた者たちを私利ではたらかせようとは思わない。魁炎はただ雪梅会のため、雪峰のために、よいようにはからうだけだった。

「――人手を借りたいとおっしゃるか」

 広大な梅花ばいか山荘さんそうの一角、睡蓮の花が咲く池のほとりに置かれた四阿あずまやで客人と相対した魁炎は、その用向きを聞いて静かに嘆息した。

 外からやってくる人間が、雪梅会の人手を借りたいという時は、ほぼ間違いなく、殺しのための人手が欲しいという意味である。大金と引き換えに、そういうことに慣れた剣士を貸してくれるというまことしやかな噂が、江南一帯に流布していることは魁炎も把握していた。というより、それは噂ではなく事実なのである。

 目の前の老商人――李なにがしに茶を勧め、魁炎は続けた。

「李どのは、臨安で米や麦をあきなっておられるとか……そのようなまっとうな暮らしを送っておられるあなたが、何のために我が会の剣士を借り受けたいとおっしゃるのか? 用心棒ということなら――」

「王どの」

 適当にあしらおうとしている気配を察したのか、李老人はうやうやしく頭を下げつつ、それでいて真正面から魁炎の言葉を断ち切った。

「私がこちらにお邪魔した本当の用向き、すでにお察しのことでしょう。すべてをつまびらかにはできませぬが、できうるかぎりのことはお話しいたします。面倒な探り合いは時間の無駄と申すもの」

「ふむ」

 さすがに臨安のような大きな街で商売をしてきただけあり、李老人はやり手のようだった。交渉ごとは得意らしい。

「……ならばあらためて単刀直入にお尋ねするが、何のために人手を借りたいとおっしゃる?」

「人を斬っていただきたいのです。この国のために」

「雪梅会は――というより雪峰先生は、国のためには動かぬ。無論、金のためにも人のためにも動きはせぬ。ご自身のやりたいことをやりたいようになさるだけ……そういう気まぐれなおかただとご承知の上でいらしたのでは?」

「それはもちろん。――ですが、門人のかたがたのなさりようにはいちいち干渉なさらぬともお聞きしております」

「……それはそうだが」

「まずは」

 具体的な話に踏み込む前に、李老人は連れてきた小男に命じて卓の上に四角い包みを置かせた。小男の力みと置いた時に響いた音からして、かなり重いのだろう。

「……こちらをお納めください」

「これは?」

「銀です。一〇〇〇両ございます」

 包みの中の漆塗りの箱を開けると、みっしりと銀塊が並んでいた。ひとつ二五両として四〇個。腕利きの職人が懸命にはたらいて、月に稼げる金がおよそ五両ほどという話がある。彼らがそれで食っていけているということは、たとえるなら一〇〇〇両とは、二〇〇人もの大人がひと月食っていくのに必要な大金と見ることもできる。

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