第一章 建業、金陵、そして建康 ~第二節~

 考えてみれば月瑛は、この見目はいいがどうにも頼りない書生が何のために旅をしていたのか、きちんと聞いたことがない。たまたませきじょうりゅう大人の屋敷で食客同士として出会い、獅伯を介してともに旅をしてきただけで、それがなければ、本来はこうして深くかかわるはずのなかった相手ともいえる。

「私は見聞を広めるためのあてのない旅でしたので、獅伯さんがいなければ、また自由気ままに各地を渡り歩くことになると思いますが……そういう月瑛さんは? そもそも月瑛さんにだって、何かしらの目的があって旅をしていらっしゃるのでは?」

「わたしはあちこちでやらかしてきたから、ひとつところに腰を落ち着けにくいってのもあるんだけどね。でもまあ、ずっと捜してるものがあるといえばあるのよ」

「何です?」

「それが判らないのさ。ただ、親父の遺言でね。――“蒼海そうかい”を捜せって」

「蒼海? それは何なんです? 地名ですか? すいません、私にはこれといった心当たりがないのですが……」

「だろうね」

 これまであちこちを旅し、土地の古老や学者と呼ばれる知識人たちに尋ねてきたが、納得のいく答えには出会えていない。そもそも、蒼海というのがものの名前なのか地名なのかすらも判然としていないのである。

 ただ、それがいったい何なのか、そこも含めて一生をかけてじっくり捜せばいい。月瑛は本気でそう考えている。

「――ま、こっちの話はどうでもいいのさ」

 甕の酒を飲み干し、月瑛は立ち上がった。

「それより、今夜の宿を捜したほうがいいんじゃないかい?」

「そうはいっても、そもそも路銀が――」

「そこについてはわたしは悪くありませんよう? 師姐と文先生が何かあるごとにたくさんお酒を飲むのが悪いんだと思いますけど」

「いやそれは……あ、あれですよ、酒の好きな獅伯さんなら当然こういった店に立ち寄るでしょう? ですから私も酒家をつぶさに回って――」

「先生、さすがにそれは苦しくないかい? というか、そのいいわけならわたしがもうきのう使っちまったよ」

 碗の中になけなしの銭を放り込み、月瑛はふたりをうながして酒家を出た。

 江南の大きな街の多くと同様に、建康もまた豊かな水郷の地である。街の中央から見てやや南寄りを、長江の支流のひとつである秦淮しんわいが東西に流れており、そこを起点として整備された運河網こそが、この街の繁栄をささえている――とは文先生の受け売りだが、事実、月瑛はこの建康以上に栄えている街を訪れたことがない。やはりここには多くの人を惹きつけてやまない華やかさ、富、魅力がある。

「――ちょっと、呑気に鼻歌なんて口ずさんでる場合じゃないですよう」

 ほろ酔い加減に心地いい涼しい風に目を細めていると、白蓉が月瑛の袖をぐいっと引っ張った。

「ぶっちゃけ、師姐の持ち合わせはあとどのくらいなんです?」

「銭かい? さっきのでおしまいだけど?」

「はい? さっきのって……え? さっきの酒代でおしまい?」

「自慢じゃないけどねえ」

 月瑛は懐から取り出した錦の袋を白蓉に投げ渡した。もともと池州でかくほうから餞別としてもらった粒銀が入っていた袋だが、やがてその中身は銅銭に変わり、ついさっきそれも尽きた。今の月英は文字通りの一文なしなのである。

「せっ、先生は? 先生はまだ路銀残ってますよねえ!?」

「もちろんです! ……と胸を張りたいところですが、実をいえば月瑛さんと五十歩百歩といったところでして」

「はぁ!?」

 白蓉は目を丸くしたり細めたり、目まぐるしく表情を変えて年上の同行者たちを交互に見くらべている。大人なのにだらしないと思われているのだろう。月瑛は文先生と顔を見合わせ、いたたまれなさに苦笑した。

「笑ってる場合じゃないんです! 先生! 少しでも残ってるなら先生の路銀、さっさとこっちに渡してください!」

「え? わたしの?」

「これからはみんなの路銀はわたしが預かります! おふたりに任せておいたら、すぐにお酒を飲んじゃうじゃありませんか!」

「そ、それはちょっと――」

「おい、先生。あんまりこの子を怒らせるなって」

「え!? ひ、ひどいな……そりゃ月瑛さんはもう失うものがないからいいでしょうけど、私はまだ安い店なら」

「せ・ん・せ・い?」

「……はい」

 結局、白蓉の静かな怒りに抗しきれず、文先生もまた、懐から取り出した錦の袋を白蓉に預けることとなった。

「残ってるっていってもこれだけ……? これでこの先どうにか三人で旅を続けていくとか、気が遠くなりますよう……」

 文先生の路銀の残りを確認し、白蓉が大仰に溜息をもらす。日が暮れ、人出が増えてくるにつれて、三人は押し出されるように大きな通りから細く暗い通りへと移動していった。月瑛たちに残されている路銀では、大通りに面しているような豪奢な宿には泊まれないのだから、それも仕方のないことだろう。

 星のまたたき始めた群青色の空を見上げ、月瑛はいった。

「――今夜は雨も降りそうにないし、こうなったら、そのへんの橋の下で夜を明かせばいいんじゃないかねえ?」

「どうしてこんな大きな街に来てまで野宿なんですかぁ!?」

「そりゃあ金がないから……」

「誰のせいだと思ってるんです!? いざって時は腕一本で稼げるんだからって、すぐにお酒を飲んじゃう師姐が悪いんですから、ほら今すぐ稼いできてください! それでたまにはわたしにぜいたくさせてくださいよ!」

「まいったねえ……」

 いったん落ち着いたように見えた白蓉の怒りが、月瑛の不用意なひと言でまた炎を上げて燃え始めてしまった。確かに月瑛は剣の腕だけでこれまで稼いできたが、それはそういう伝手つてがあればこそで、初めて訪れた街ですぐに用心棒稼業にありつけるかといわれれば、それはいささか難しい。荷運びのような力仕事ならいくらでもあるだろうが、それもこの刻限から捜すのはまず無理だろう。

「こうなりゃ博奕で稼ぐか――」

「ちょ、月瑛さん、そんなことをいったら白蓉さんが余計に怒りますよ?」

 本気で賭場を捜そうかと考え始めた月瑛を、文先生がどうにか引き留めようとしていると、向こうの通りまで続く抜け道のような暗く細い路地の先から、荒々しい物音と男の呻き声が聞こえてきた。

「……何でしょう、喧嘩ですかね?」

「だったらわたしの出番じゃないかい?」

 月瑛は手にしていた剣を白蓉に預けて走り出した。用心棒というほど仰々しくなくとも、ちょっとした喧嘩の助っ人というのは存外に需要があるもので、月瑛もたびたび小銭を稼がせてもらってきた。

「喧嘩に勝ちたい奴はわたしの腕を買いなよ。今ならお安く――」

 路地を一気に駆け抜けた月瑛は、そこで目にした光景が自分の想像とあまりに違うことに困惑し、言葉を途切らせた。てっきり酔っ払い同士が殴り合っているのだろうと思っていたのに、実際にそこで殴り倒されていたのは白髪頭の老人、それに相対しているのは腰に剣を帯びたかなりの大男だったのである。

「……待ちなよ。どういう状況だい?」

 尻餅をついた老人をかかえ起こし、すばやく視線をめぐらせる。運河沿いの裏通りにはほとんど明かりもなく、周囲にほかの人影もなかったが、大男の背後の運河に一艘の船が浮かんでいた。

「……どういう状況だって聞いてるだろ、おい?」

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