第一章 建業、金陵、そして建康 ~第一節~




 三国の一角、孫呉の都として繁栄を見た建業けんぎょうは――その名をけんこうとあらためてはいるが――北から攻め寄せるもう軍に対する防波堤の役割を帯び、今なお大宋の重要拠点のひとつとしてあり続けている。

 とはいえ、蒙古は今、皇帝モンケの急死によって内紛状態にあり、しばらくはこの国に兵を差し向ける余裕はないという。それが本当かどうか、げつえいには判らない。判らないが、ぶん先生のいうことならまあ信じてもいいだろうとは思っている。

 実際、この街のにぎわしさの中にひたっていると、戦という悲惨な現実をつい忘れてしまいそうになる。それほどまでに建康は豊かで、そこに住む人々も明るい活気にみちあふれていた。

「ここの住人で、四川の実情を知ってる人間がどれだけいるのかねえ……知らないってのはしあわせだよ」

 風通しのいい窓際の卓で酒を飲みながら、月瑛はまた一杯、碗を干した。軒先を飾る灯籠に火が入ったばかりのこの夕暮れ、運河の上を渡ってきた涼しい夕風に吹かれながら飲む酒の味は格別に思える。塩といっしょに炒った銀杏を器用に箸でつまんで口に運び、月瑛は空になったばかりの碗に酒をそそいだ。

「そこのあんた」

「は?」

不躾ぶしつけで申し訳ないが、いささか尋ねたいことがある」

 月瑛の至福のひとときに割り込んできたのは、ひと目で同業と判る三人の男たちだった。言葉遣いこそおだやかだったが、どこかささくれ立ったような雰囲気までは消し切れていない。明らかに三人とも人を斬ったことのある人間だった。それも、腕前としてはそう悪くもない。少なくとも月瑛に声をかけてきた男は、月瑛の実力が自分より上だということを察している。でなければ女が相手と見て、もっとあなどるような態度で接してきていただろう。

 男たちは月瑛に包拳ほうけんの礼を取り、あらためて尋ねた。

「どうやら旅の武芸者とお見受けしたが、ここまでの道中、りんはくと名乗る剣士の消息を聞いたことはないか?」

「林獅伯?」

「そうだ。おそらくあんたより若い。ただ、とにかく腕は立つという話だ」

「さてねえ……確かにわたしもこいつで食っちゃいるが、だからといって剣士に知り合いが多いわけでもないんだ。悪いがよそを当たってくれるかい?」

「そうか――邪魔をしてすまなかった」

 軽く頭を下げ、男たちは足早に店から出ていった。

「…………」

 手摺から身を乗り出して見下ろせば、あの男たちが下の通りを遠ざかっていくところだった。自分たちが気づいているかどうかは判らないが、ああして人混みの中に交じると、剣呑な空気をまとった彼らは明らかに周囲から浮いている。

「この稼業、どこで誰の恨みを買うか判ったもんじゃないけど、それにしたってあんないかにもな連中にまでつけ回されるって、いったい何をしでかしたのかねぇ、あのにいさんは?」

 彼らが捜している林獅伯というのは、月瑛にも馴染みのあるあの若者と見て間違いないだろう。あれこれ考えながら、月瑛はあらためて碗に口をつけた。

!」

 きんと甲高い声が耳に刺さり、月瑛は思わず首をすくめた。

「――いつまでたっても待ち合わせの場所に来ないと思ったら、またひとりだけお酒なんか飲んで……!」

はくよう……それに文先生まで、いっしょにご登場とは、何かあったのかい?」

「何かあったかじゃないですよ、本当にずるいな、月瑛さんは」

 白蓉とともに月瑛の卓までやってきた文先生は、月瑛の手から碗をひったくると、よく冷えた酒を一気に飲み干した。

「姿を消した獅伯さんを捜してるっていうのに、ちゃっかりひとりで休んでるとかありえませんよ。しかもこんな上等なお酒……」

「いや、だってさ、あまりに手掛かりがなくてねえ」

「だからって勝手に――」

「まあ落ち着きなよ」

 しゅうを離れ、長江の流れに沿って東進してきた一行から、獅伯が何もいわず姿を消したのは三日ほど前のことだった。初めのうちは、すぐに戻ってくるだろうと気楽に構えていた月瑛たちだったが、やがて、獅伯が自分たちを置いていったのだと気づいた。

 もともと獅伯はひとり旅をしていて、特に道連れを必要としていたわけではなかった。そこに月瑛たちが、渋る獅伯を押し切る形で同行していただけのことである。

 月瑛の隣の席に座り、文先生から碗を奪ってちびちび酒をすすり始めた白蓉は、ひどく落ち込んだように呟いた。

「……やっぱりわたしたちが強引についていってたの、嫌だったんでしょうか? 獅伯さまは――」

「んー、そういうのとも違うような気がするけどねえ」

 月瑛は白蓉の頭を撫で、なぐさめるわけでもなく淡々と自分の考えを述べた。

「――たぶんあのにいさんは、わたしたちを厄介ごとに巻き込まないために、ひとりで旅を続けることにしたんじゃないかな?」

「巻き込まないためって……どういうことです?」

「実はさ、にいさんを捜してこういう人の多いところをうろついてると、たびたびご同業に出くわすんだよ」

「ご同業というと、用心棒とか、それっぽい人たちってことですよね?」

「ああ。あんたたちがここへ来る直前にも、三人組の男に声をかけられてねえ。――林獅伯って若い剣士を知らないか、ってさ」

「……え?」

 白蓉は眉間に深いしわを刻み、不安げに聞き返した。

「それ、わたしたち以外に獅伯さまを捜してる人間がいるってことですかぁ?」

「そうなるねえ。それも、揃いも揃って剣呑な連中ばかりっていうか――少なくともあれは、獅伯にいさんの古い友人って感じじゃなかったよ」

「……蘭芯さんの屋敷にもぐり込んでいたしゅんさんは、確か誰かに頼まれて獅伯さんの剣を狙っていたんでしたよね?」

 箸も使わず銀杏を食べていた文先生は、指先をなめてから思案顔で腕を組んだ。

「もしかすると、あの剣絡みで獅伯さんを狙っている人間がほかにもいるのかもしれませんね。もっというと、獅伯さんを殺してでも剣を奪おうとする人間が……」

「そ、そんな……それが判ってるのにひとりで行動してるんですか、獅伯さまは!?」

「それが判ってるから、だよ。わたしはともかく、あんたや文先生は、いっしょにいたって何の役にも立たないだろ? いや、役に立たないだけならまだしも、人質になんかされたりしたら目も当てられやしない」

「い、いざとなったらわたしは逃げられますよぅ! これでも逃げ足の速さには自信があるんですから! そんな、文先生じゃあるまいし――」

「私を槍玉に挙げないでくださいよ。私は私で、獅伯さんの過去を知るためのお手伝いをしていて、それなりに役立ってるという自負もありますし」

「わたしだって役に立ってますー!」

「おいおい、本人がいないところで張り合っても意味ないだろ?」

 急に睨み合いを始めた妹分と若い書生をなだめ、月瑛は甕に直接口をつけて酒をあおった。

「――まあ、あいつは冷淡なふりして非情になりきれないなかなかの甘ちゃんだから、自分の旅に道連れはいらないってわたしたちを切り捨てたって体裁を取りつつ、実際にはわたしらを面倒ごとに巻き込みたくないから、何も告げずに姿をくらましたってのが本当のところだろうとわたしは思うよ」

「でしょうね……自分のせいで誰かが犠牲になったりしたら、迷惑だとか何とかぶつぶついいながら、その罪悪感を長く引きずってしまうような人でしょうし」

「だとしたって、あまりに薄情だと思いますけど」

「そいつはまあ、次に会った時に平手の一発でもかまして憂さを晴らせばいいんじゃないかい?」

「会えますかね?」

「会えなきゃどうする? もともとあんたは何のために旅をしていたんだい?」

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