龍に拝せよ 第三部 金陵烈女伝
嬉野秋彦
序章 夏風
青々とした稲穂を揺らして駆け抜けていく風が、夏の暑さをしばし忘れさせてくれる。のんびりと荷台で昼寝していた
「……こういう時にかぎって酒が切れてるんだよなあ」
愛用の瓢箪を振っても何の手応えもなければ水音もしない。獅伯は揺れる荷車の上で立ち上がり、老いた
「なあじいさん」
「んぁ? 何だね?」
「一応さ、一応聞いてみるけど、酒持ってたりしないよね?」
「酒? あんたが持ってたらわしのほうこそ飲ませてもらいたいもんだよ」
肩越しに獅伯を振り返った老人は、大袈裟な溜息とともに首を振った。
「……自分じゃよく判らんのだが、わしはどうにも酒癖が悪いらしくてな。おかげで家じゃ酒を飲ませてもらえんのだ。例外は年に二度、正月と重用の節句の時だけ、それもこん~なちっこい器に三杯までとか、うちのばあさんは獄卒よりも無慈悲で――」
「あー、判った判った、聞いたおれが悪かったよ」
くどくどしい老人の愚痴に閉口し、獅伯のほうが溜息をつきたくなった。
「で、じいさんの住んでる村まではどのくらいなんだ?」
「このぶんだと――まあ、日が暮れる前には着くだろうな」
「そうか……」
陽射しを避けるために額に手をかざし、獅伯は四方をざっと眺め渡した。
「…………」
水田に張られた水の表面に陽光が反射し、きらきらとした輝きが目を刺す。稲穂の海のそこかしこに、腰をかがめてはららく人々の姿があったが、さすがに彼らひとりひとりに酒を持っていないかと尋ねて回る気にはなれない。
「――あ」
ふと後方を見やった獅伯は、懐から潰れかけた饅頭を取り出すと、なけなしの荷物と剣を背負って老人にいった。
「ありがとな、じいさん。これやるよ」
「は?」
老人に饅頭を投げ渡し、獅伯は荷馬車から飛び下りた。
「さっき話しただろ? わしの村はまだずっと先だぞ?」
「いや、ちょっと用事ができた。ここまででいいよ。助かった」
「そうかい? まあ、おまえさんがいいならわしは構わんが――」
どこか釈然としない表情を浮かべて、老人はもらった饅頭をかじった。
「……おまえさんが酒の話なんかするから、酒が飲みたくて仕方なくなっちまったよ」
「じゃあ帰ったらばあさんを拝み倒すんだな。日頃のおこないがよければ大目に見てくれるかもしれないだろ?」
「日頃のおこないがよくないから飲ませてもらえないんだよ」
ぶつぶつとぼやきながら、老人は手綱を鳴らして去っていった。
「あれはふだんから余計なことをいってばあさんを怒らせてる口だな……」
口数の多い男はそのぶん他人の機嫌をそこねることも多い。愚痴の多い老人のささやかなしあわせを祈りつつ、獅伯は路傍にそびえる
もっとも、獅伯が老人の荷馬車を途中で下りたのは、この木の下で野宿しようと考えたからではない。
涼やかな木陰で膝をかかえてうずくまっていると、ほどなく二騎の人馬がやってきた。馬にまたがっているのはどちらも三〇すぎほどと見える男で、獅伯と同じく剣を背負っており、どこか粗暴な雰囲気をただよわせている。
男たちは槐の前を通りすぎ、荷馬車の老人と同じ方角へといったん走り去ったあと、すぐに馬首を転じて引き返してきた。
「――おい」
戻ってきた男たちは、獅伯を見て何ごとかささやき合ったあと、馬から下りることなく横柄に声をかけてきた。
「おまえに尋ねたいことがある」
「……いきなり
「酒などどうでもいい。それよりおまえ、林獅伯という男を知らんか?」
「知らないな」
獅伯は即答した。だが、男たちは立ち去ることなく、じっと獅伯を見下ろしている。
「……それは本当か?」
「年の頃は……そうだな、おそらくおまえと同じくらいだ」
「おれと同い年の男がこの国にどれだけいると思ってるんだ?」
「そいつは腕の立つ剣士だという話だ。妙な剣を背負っていると聞いている。――おまえも剣士のようだな?」
「この物騒なご時世、旅をするのに剣の一本くらい持ち歩くだろ? ほら、あんたらだって背負ってるわけだし」
「……本当に知らないんだな?」
「くどいって」
「そうか。――ところでおまえの名前は?」
「あいにくと教えられない。自分でも覚えてないんだ。……本当だぞ?」
「……ごまかすならもう少しうまくごまかせ」
「人違いだったとしても別にかまわん。斬っちまえ」
そんなことをいいながら、男たちは背中の剣を引き抜いた。
「不躾どころの話じゃなくなってきたな。……あのじいさんを先に行かせたのは正解だったか」
獅伯は小さく舌打ちし、いきおいよく立ち上がった。その拍子に背中の鞘から飛び出した剣を掴み、横殴りに振り抜く。
「!」
馬上から斬りかかろうとした男たちは、あとから剣を抜いた獅伯の迅雷の剣先に脛をえぐられ、短い苦痛の呻きとともに転げ落ちた。
「うぐ……っ!」
「く、き、貴様――」
切断こそされていないが、男たちの足の傷はそこまで浅いわけではない。すぐに手当をすれば命を落とすことはないだろう。
地面に転がって脛を押さえている男たちを一瞥し、獅伯は彼らの馬の轡を取った。
「その何とかっていう剣士がどれだけ強いのかは知らないけど、あんたら、その程度の腕じゃどのみち返り討ちにされてたんじゃない? そのくらいの怪我ですんで運がいいと思うよ」
「ま、待て! やはり貴様が林獅伯か――」
「いやいや、他人の詮索するよりまずは手当したら? 深手じゃないといったって、さっさと血を止めないと死んじゃうよ? ――じゃ、これはおれに迷惑をかけたお詫びってことでもらってくから」
負傷した男たちを放置し、獅伯は彼らの馬をちょうだいしてその場を離れた。一頭はこのまま乗っていって、もう一頭はどこかで売って路銀の足しにすればいい。一方的に喧嘩を吹っかけられたのだから、このくらいしても罰は当たらないだろう。
「――それにしても、名指しで狙われるほど人の恨みを買った覚えはないんだが、いったい何なんだ、あれは?」
馬上で背後を振り返っていた獅伯は、手にしていた剣を鞘に戻そうとして、ふとその紋様に目を止めた。
「……例の、この剣を狙ってるとかいうアレか?」
今から引き返してさっきの男たちを締め上げ、そのへんのことを吐かせるという手もあったが、それはそれで面倒臭い。それよりも獅伯は先を急ぐほうを選んだ。
「まずは酒か。うん、酒だよなあ」
自分をそう納得させ、獅伯は手綱を鳴らした。
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