第52話 真犯人Ⅲ

 不意に、フィオールのすぐ近くから声がした。


「……俺の家族を殺したのは、何で?」


 ルイルは、凪いだ水面のごとき声色で尋ねた。俯き、体を一切動かさないまま簡潔に聞いた。すると、ジャスティーはあっけらかんと答える。


「何か隠してるだろ、ってお前の父親が言ったからだよ。勘だけは鋭かったからな。用心するに越したことはない。本当はルイルも殺すつもりだったんだが、まさかソファーの下にいるとは思わないだろう?」


 見つからなくて諦めたんだ、とジャスティーは締めくくった。わずかな後悔もにじませていない、平坦な口調だ。ヴィンストン一家を殺害したのは、目的を達成するための過程でしかなかったのだろう。レナリアを「助ける」うえでルイルの父親は障害となった、たったそれだけの話だったのだろう。ルイルを引き取ったのも、善良な心根からの行為ではなかったはずだ。監視するため、最悪殺すための行為だったのだろう。


 フィオールの心の奥底で、激情が輪郭を持ち始めた。最悪だ。最低だ。どこが正義の体現者だ。ジャスティーは人でなしだ。許してはならない。見過ごしてはならない。あの夜のように、見て見ぬ振りをしてはならない。ここで止めなくては、フィオールが守りたいものは全て壊されてしまう。身勝手な「善意」にさらされた少女は、今度こそ奈落の底に突き落とされてしまう。動かなくては、踏み出さなくてはならない。フィオールは、逃げ続けてきた現実に立ち向かわなくてはならない。――硬直した体を、どうにか動かさなくては。


 徐に、ジャスティーは右手にナイフを持った。鈍く光るその刃は、テオールの左目に添えられた。


「レナリア、撃て。大丈夫だ、ちゃんと押さえててやる。テオールを苦しませたくないだろう?先に殺して、その後目を抉ってやるんだ」

「レナリア、逃げて……!」


 ぐ、とテオールの喉は危うい音を鳴らした。足先で床を引っかき、窒息の症状を切実に訴える。その様子に触発されてか、レナリアの手は拳銃を掴んだ。ゆっくりと持ち上げ、銃口を目の前に向ける。大袈裟なくらい震えているそれは、カチャカチャとおもちゃ染みた音を立てた。

 ふらり、とルイルも動いた。ジャスティーの鋭い視線を浴びながら、レナリアのもとへ歩み寄る。その隣にしゃがみ込んだ直後、その両手でレナリアのそれを覆った。銃口がさらに上を向き、揺れが少し収まる。


「やめて、嫌だ、放して……」

「撃たなきゃ、撃たなきゃ助からない。撃たなきゃ、あいつを殺さなきゃ」

「嫌……嫌、放して、撃ちたくない!!」


 無理だ。いくら距離が近いとは言え、テオールにほとんど隠れたジャスティーに当たるわけがない。は、は、とフィオールの呼吸はいっそう速まった。視界がすぼまり、眼前の四人だけが鮮明に浮かび上がる。声ははっきりと文字を成し、けれど水の中で響いているかのようだ。

 やめて、嫌、とレナリアの悲鳴が耳をつんざく。死なないよう時たま力が緩められるのか、ごほっ、とテオールの息継ぎが空気を揺らす。

 嫌だ、嫌だ、とフィオールの脳裏で声がする。死んでほしくない、とフィオールの心が叫び声を上げる。生きたい、とフィオールの本能が現実に牙をむく。

 ――辛うじて動いた視界に、包丁の柄が映った。


「撃たないのか?テオール、痛いから我慢しろよ」

「う……あああぁぁぁ……!!」

「嫌ぁぁぁ!!やめて!!嫌ぁぁぁ!!」

「早く、早く撃ってよ!!」


 テオールも、レナリアも、ルイルも叫んだ。助けたくて、助かりたくて絶叫した。この狂った脚本から逃れたくて、心の底から声を吐き出した。――フィオールも、息を吸う。


「――あああぁぁぁ!!」


 ――どんっ、とジャスティーに当たる、フィオールの体。フィオールの両手に伝わる、肉を貫く包丁の感触。


「ん……?」


 テオールは、ジャスティーを突き放した。左側に転がり、ドタンッ、と床に倒れ込む。

 直後、パンッ、と銃弾が発射される音。

 起き上がったテオールが、ナイフでジャスティーの腹部を勢い良く刺した。

 ドサッ、と倒れる、巨大な体。


 ――じわりと溢れ出る赤とは反対に、ジャスティーはそれきり動かなくなった。


「……」


 ゴトン、と拳銃が床に落下する音。


「――……い……!」

「テオ!!」


 一瞬の静寂の後、我に返ったフィオールはテオールに駆け寄った。ルイルとレナリアもそれに倣い、うずくまるテオールに触れる。左目を押さえるテオールの指の隙間から、真っ赤な血が次から次へと漏れ出ていた。


「テオ、どうしよう、どうしよう、どうしよう」

「嘘だよね、ねぇ、返事して」

「死なないで、嫌、死なないで、お願い……!」


 どうしたらいい、とフィオールは呆然とテオールを見詰めた。するべきことを知っているはずなのに、混乱しているせいで頭が働かない。このままではテオールが死んでしまう、フィオールは本気でそう思った。しかし、何をすればいいのか一切思いつけない。ルイルとレナリアの嘆きを聞きながら、フィオールもまた憂うことしかできない。もっと早くに動いていれば良かった。もっと早くに包丁に手を伸ばしていれば良かった。フィオールが間に合っていれば、テオールは目を抉られずに済んだ。そもそも、フィオールが犯人の正体をもっと早くに思い出していれば。


 ――ぎゅっ、とフィオールの袖は強く握られた。


「……逃げて……病院、近くの……」

「……!」


 テオールの言葉に、フィオールはするべきことを思い出した。立ち上がろうとあがくテオールの体を全員で支え、ドタバタと騒音を立てながら玄関へ急ぐ。誰も彼も、テオールを助けることに一心不乱だった。

 命からがら逃げ出した四人は、今度こそ安全な場所を求め、病院までの道をただひたすらに駆けた。

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