第51話 真犯人Ⅱ
左を向いたその双眸は、冷ややかだった。フィオールに向けたことがない、冷たい目。否、本当は一度だけあったのだろう。フィオールがガレージに行ってしまったあの夜、きっとジャスティーはこの目をしていた。温かみを失った茶色の右目と、いっそう冷えた水色の左目。それらを受け、フィオールはルイルの手を引いて数歩後ずさった。キッチンのシンクに背中がぶつかる。
「フィオール。お父さんとの約束は守らないと駄目じゃないか。言わない、って約束しただろう?」
「……テオは……テオは、関係ない……」
「約束を破ったのはフィオールだ」
「やめてよ!!」
「――動くな」
たくましい腕がテオールに伸び、ルイルは叫んだ。しかし、体の動きは静かな一声で封じられてしまった。
ぐい、とテオールの腕がつかまれ、引き上げられる。
「嫌だ、テオール、嫌……!」
レナリアもその手を伸ばした。涙をこぼしながら、ゆらゆらと小さな手を伸ばした。それはテオールの指先に触れるが、呆気なく引き放されてしまう。
テオールの横顔は、レナリアの身を案じるものだった。フィオールとルイルを見て、くしゃりと歪む。フィオールの目には、ごめんね、と言っているように映った。
テオールは優しい。否、優しすぎる。今最も危ないのは己であるというのに、己以外の誰かを心配している。そんなことをしないで、たとえフィオールを犠牲にしても逃げ出すべきだ。フィオールは、ずっとテオールのことを守りたかった。
テオールは、人質として拘束された。首を大人の左腕で緩く絞められ、かかとが少しだけ浮く。
一方、ジャスティーが見詰めているのはレナリアだった。右足を軽く蹴り出したかと思えば、シャーッ、と何かがレナリアのほうへ滑っていく。――拳銃だ。テオールを掴み上げるとき、床に置いたのだろう。
今更ながら、フィオールはその隣に丸い何かが転がっていることに気づいた。やや溶け出した、小さな球体。それがあの夜に見た眼球だと、フィオールは嫌でも悟ってしまった。
「レナリア。――撃て」
それは、誰もが予想していなかった一言だった。
レナリアは両目を大きく見開き、手元に用意された拳銃と、目の前で捕らえられているテオールを代わる代わる見た。あ、と声を漏らすものの、指の一本さえ動かさない。フィオールも、ジャスティーが言っている内容を理解できなかった。この光景をまるでスクリーン越しに見ている気分で、夢であればいいと現実から逃避する。
「これで本当におしまいだ。最後は自分の手で抗うんだ。これまでは俺がやってあげたが、いつまでも甘えたままなのは駄目だ」
ジャスティーは諭すように語りかけた。だが、フィオールたちにはその言葉の真意が分からない。
何言ってるの、とテオールはレナリアの代わりに尋ねた。苦しそうな声で、己の父親に犯行の動機を聞いた。すると、ジャスティーは怪訝そうに眉を寄せた。
「知らないのか?レナリアは虐待されてたんだよ。両親は姉だけを愛して、レナリアのことは虐げてたんだ。俺がやらなきゃ、レナリアは殺されてもおかしくなかった」
「そ……それは、知ってるけど……だからって、殺すことなんかなかったじゃないか……!」
「いや、殺さないと駄目だった。俺が親にされたみたいに、レナリアも殺されかけたに決まってる」
ジャスティーは、空いた右手で自身の左目に触れた。それは健全な色を失い、光を捕らえているかさえ怪しい。
そうか、とフィオールはここに来て初めて知った。そして、父親の過去をこんな形では知りたくなかった。
違う、と小さな声がした。
「違う……違う!!お姉ちゃんは……お姉ちゃんは違う!おばあちゃんも先生もシャンリーも違う!みんな、みんな……わ、私のこと、好きだって……!」
「あぁ、それは……楽しかったから」
「……何……」
「楽しくなったんだよ。あいつらが俺にしたのはこんないい気分になるからだって知ったら、やめられなかった。だって、あいつらだけずるいじゃないか。俺だってその気持ちを味わいたかった!」
「……!」
「だが、いつかはあの人たちもレナリアをいじめただろう。ほら、生まれてきた俺たちが悪いんだよ。俺たちみたいなのは、一生他人から嫌われ続ける。あの教師だってそうだったじゃないか。殺したのはレナリアじゃないのに、レナリアが悪いと決めつけた」
つまり、つまり、とフィオールは頭の中で答えを導き出した。結局はレナリアを「救う」ために殺人を犯した、ジャスティーはそう言いたいのだろうか。妻を持ち、子供を作り、幸せな家庭を得てなお、その笑顔の裏では常に過剰な疑心を抱えていたのだろうか。他者をいたぶるという歪んだ欲求を満たしたいと、己と同じ境遇の被害者を探していたのだろうか。そのうえで、レナリアが犠牲になったのは栄誉なことだと。
「――違う!!俺はレナリアを傷つけないし、お姉さんたちだってそんなことは絶対しなかった!!お父さんだって……お父さんのことだって、俺は……!」
そうだ。フィオールとて、ジャスティーを傷つけたいと考えたことはただの一度もない。怖いと感じたことはあっても、自分の世界から完全に消し去ろうと思ったことは断じてない。感謝していたし、確かな愛情を抱いていた。
テオールは優しい子だな、とジャスティーは呟いた。感動した様子で、慈愛に満ちた眼差しをテオールに向けた。されど、その拘束が緩められるわけではない。いつの間にか、否、ずっと泣いているテオールを見ても、ジャスティーは悪意を退けない。
ふと、フィオールは己の頬から何かが落ちたことに気づいた。瞬きをするほど、落ちる何かの数はどんどんと増えていく。泣いている、そう思い至ったとき、視界はいっぱいの水で波打っていた。
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