第49話 過ち

 玄関を経て、リビングに足を踏み入れた。


「お母さんは?」

「友達とショッピングに行ったよ。夜に帰ってくるから、心配しなくていい」

「そうなんだ……」


 向けられた笑顔に、テオールはぎこちなく頷いた。レナリアの手を引き、自室に向かう。今日のジャスティーはどこか妙だ。明らかに浮かれている。前回の帰省でもそうだったと言われればそういう気もするが、息子たちの帰省を楽しみにしているならミランがいないのはおかしい。


 は、とテオールは呼吸を乱した。何かおかしい、と頭の片隅で煙が燻る。どくどくと鼓動を忙しなく刻む心臓と、背中を這う予感。逃げてきた矢先、致命的な間違いを犯してしまったかのような後悔が芽吹く。

 そういえば、自分たちはフィオールの話を考え直すことをしていない。事実を飲み込むのに必死で、思考を放棄していた。

 ルイルではなくテオールだけが人質にされた点を鑑みるに、フィオールが犯人と邂逅したのはルイルがランロッド家に来る前だろう。とすると、当時のフィオールは大きくて七歳だということになる。テオールが覚えている限り、フィオールが同級生などの家を訪ねたことはない。ルイルと出会う前のフィオールに、よその家のガレージを訪れる機会は無かったはずだ。幼いフィオールがいたのは、一体どこのガレージだと言うのだろうか。


 テオールの自室は、以前帰ったときと何ら変わりなかった。新品同様のベッド、本がみっちりと立っているデスク。

 テオールはドサリとバッグを下ろし、何も無いじゃないか、と安堵の息を吐いた。やはり、考えすぎているのかもしれない。立て続けに非日常的な出来事が起きたから、心も体も疲れているのだろう。


「ベッドに座ってていいよ」

「……」

「……?」


 返事が無いことを不審に思っていると、レナリアは窓とデスクの間にぺたりと座り込んだ。テオールの位置からはちょうど死角になっており、レナリアの後ろ姿が見えるだけだ。

 パチン、と何かの部品を外すような音の後、ガサゴソと何かを漁るそれが続く。全ての音がぴたりと止んだのと、テオールがレナリアの背後に立ったのは同時だった。


 ――テオールは、咄嗟にレナリアの口を右手で覆った。


 寒々とした冷気は、床を這い二人の熱を奪っていく。テオールは静かに座り、レナリアを後ろから抱きすくめるようにして息を殺した。


 思えば、フィオールは何かを感じ取っていたのだろう。否、おぼろげに思い出していたと言うべきか。実の親を避けるのも、テオールを連れて逃げ回ったのも、ルイルに絶対の信頼を寄せるのも、全てが最悪の真実に帰結しているからだ。誰にも言えないと拒絶したフィオールは、正しかった。

 テオールだけが、何も知らなかった。無知ゆえに、最悪の選択肢を選び取った。「普通」であることがフィオールとルイルを守る手段だと思い込み、己が間違っていると疑わなかった。だが、それでは駄目だったのだ。テオールがフィオールとルイルを守っていたのではない、異常であるフィオールこそ、確かにテオールとルイルを守っていたのだ。


 レナリアが叫ばないと分かったところで、テオールはゆっくりと右手を離した。ひっく、と漏れた嗚咽に、息ができないほど心が軋む。

 ――小さな手の平が包んでいるのは、冷えきって鮮度を失った眼球。濁っているが、黒い虹彩だと確信を持ててしまう。箱の中にある他の密閉袋にも、きっと色違いの同じものがしまわれているのだろう。


「……知ってたの……?知ってて、ここに連れてきたの……?」


 震える声で、レナリアは尋ねた。答えは分かりきっているだろうに、追及しなくては気を保てないと言わんばかりに強く問うた。


「……知らなかった……。俺だけ、何も知らなかったんだ……」


 テオールの回答は、言い訳ではなかった。己の存在を悔やむ、懺悔と言うにふさわしい心の叫び声だった。


 冷凍庫の中には、レナリアが開けたものも含めて十二袋ある。一人ずつではなく、一つずつ包装してあるのだろう。加えて隣人は右手を、教師は左手を、友人は右足を持っていかれたそうだが、別の場所に保管してあるのだろうか。


 テオールはナイフに手を伸ばした。眼球と一緒に冷やされている、きっと犯行時に使ったであろう凶器。刃渡り二十センチほどのそれをパーカーの前ポケットにしまい、レナリアの耳元で囁く。


「逃げて」

「テオールは……?」

「俺も逃げられたら逃げるよ」


 ――トン、とフローリングを叩く靴の音。


「あぁ、開けてくれたのか。ずっと探してただろう?二人共、こっちに来なさい」


 ジャスティーは笑っていた。レナリアをじっと見詰め、その反応を楽しんでいるようだ。

 レナリアは眼球を放さない。しかし、テオールにその小さな身を寄せた。ぽろぽろと涙をこぼし、ふるふると頭を左右に振る。行きたくない、と言っているのだろう。

 ところがジャスティーは、否、殺人鬼は甘えを許さない。足音を響かせながら歩み寄ると、テオールとレナリアの腕を掴んで引き上げた。ずるずると引きずるようにして、二人をリビングへと連れていく。テオールは、実の父親に生まれて初めて恐怖した。

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