第46話 味方

 フィオールはあっさりと退院した。レナリアによって薄く切られた足首も治り、病院を追い出されるようにして寮に戻った。とは言え、記憶と精神は未だ混濁している。がたがたと揺れていた箱は今や完全に開き、封印されていた中身を惜しげもなくさらけ出した。意識して思考を逸らさなくては、脳裏に真っ赤な映像が投写されてしまう。


 ジー、ジー、というアナログなノイズと共に、モノクロの映像がコマ送りで進む。アルミ製の密閉袋に伸びる、子供特有のふくふくとした両手。目玉を取り出し、背後から首を絞められ、誰のものとも分からない血液を舐め取らされるまでのシーンが、くるくる、くるくるとループしている。


 それを直視してしまったとき、フィオールは必ず吐いた。あの日に食べてしまった血液を全て吐き出すために、胃液をげろげろと口から排出した。まともな食事をしていないから、吐瀉物など出てこない。汚いと反射的に思いながら、トイレの床にずるずるとしゃがみ込む。

 唯一の救いは、ルイルが必ず側にいることだ。フィオ、と泣きそうな声で呼ぶ傍ら、その手でフィオールの背をさすってくれる。テオールも、時折それに加わってくれる。大丈夫、と魔法の言葉を呟き、フィオールの手を優しく握ってくれる。汚染された視覚と聴覚の中、二人の存在はフィオールの最奥を温める。


 レナリアは、今日が退院日だ。二週間の治療を施されても、杖を必要とするほどの歩行障害が残った。指先も満足に動かせない。

 このような結果に何を感じているのか、レナリアは上体を起こしてぼんやりと窓の外を見ている。その小さな手は、ベッドの縁に腰かけているテオールの大きなそれと繋がれていた。ルイルと並んで椅子に座っているフィオールは、その光景をもはや当然のこととして受け止めていた。きっとルイルもそうだと、今なら確信を持って言える。


 コン、コン、という音に続いて、ドアが開いた。正義の体現者は、息子たちの要請に快く応えてここに来た。


「お待たせ。レナリア、退院おめでとう。これ、良かったら」


 軽い挨拶と共に、ジャスティーはかわいらしいチョコレート菓子をレナリアに渡した。ありがとうございます、と覇気の無い声でレナリアは受け取る。箱はテオールの手に渡り、まとめてあった荷物の中にしまわれた。


「それで、話っていうのは?」


 ジャスティーのオッドアイは、フィオールを真っ直ぐに射貫く。穏やかな茶色の右目と、ほの暗い青色の左目。この色違いが先天的なものなのか後天的なものなのか、ランロッド兄弟が聞いたことはない。見ていて分かることには、左の目は光さえほとんど知覚できないようだ。それゆえ、フィオールは己がジャスティーの左側にいることに安堵した。


「……ルイと……ジオスの事件の、犯人のことで……知ってることが、あって」

「何?誰が?」

「俺、が……会ったこと、ある……から」


 フィオールは途切れ途切れに話した。見る見るうちに、ジャスティーの目は驚愕に大きく見開かれていく。腕を組み直し、本気で言ってるのか、とその真価を問う。嘘じゃない、とフィオールが辛うじて答えれば、ジャスティーは深々と溜め息を吐いた。右手の人差し指と親指で眉間を揉み、視線をテオールに向けた。


「テオールは?」

「俺はフィオから聞いただけだよ。お父さん、このことは誰にも言わないでほしいんだ」

「理由は?」

「話したら俺が殺されるって、フィオが……」


 テオールに心配そうな目を寄越されたフィオールは、繋いでいたルイルの手をぎゅっと握り締めた。この告白が正しい選択か、未だに判断できない。果たして、親とは言え第三者に明かしてしまって本当に良かったのだろうか。十年以上レナリアを追い詰め続けてきた犯人だ、フィオールの行動も細部まで把握しているのではないのか。ジャスティーに打ち明けることで、テオールが実際に殺されてしまうのではないのか。

 もちろん、テオールが相談を勧めた動機は理解できる。黙ったままでいれば、犯行は止まらずルイルにも魔の手が及ぶかもしれない。少なくとも、相談しようがしまいがテオールが危険であることに変わりはない。レナリアの側で生きることを決めたテオールは、遅かれ早かれ命を狙われる。なら、先んじて防衛策を張り巡らせたほうが生存の可能性は高い。


 五人も集まっているのに、病室は静寂を保っている。誰も彼もが、突如行く手を阻む過去にたじろぐばかりだ。

 終わったと思っていた悪夢は、虎視眈々と襲撃の時を待っているに違いない。フィオールたちは、何をどう選べば未来にたどり着くことができるだろうか。


 詳しく話してくれ、とジャスティーが指示したので、フィオールは記憶の断片を可能な限り論理的に説明した。テオールに手伝ってもらいながら、何年前かも定かではないあの夜の出来事を注意深く吐露していく。

 ガレージで冷凍庫を見つけ、開けるとアルミ素材の密閉袋がいくつか凍らされていた。そのうちの一袋を手に取り中身を出すと、それは黒い虹彩の眼球だった。直後、背後から犯人によって首を絞められた。誰のなの、と聞くと、女の子の目だよ、と答えられた。何で、と尋ねると、家族に愛されてたから、と教えられた。無骨な指先に付着していた血液を舐め取らされ、他言したら弟を殺すと口止めされた。

 全部、全部、夢だと言うにはあまりに生々しい。話し終えたとき、フィオールの両目からは大粒の涙が溢れていた。


「……一度、帰ってこい」


 ジャスティーが出した結論は、帰省を促すものだった。道理が分からず全員が首をかしげれば、ジャスティーは深刻そうな顔つきで続ける。


「家のほうが安心だ。学校には連絡しておくから、そうだな……来週末、迎えに行くよ」

「レナリアはどうなるの?」


 そう疑問を呈したのは、テオールだ。どこか焦った様子で、レナリアの手を放さないままジャスティーを見上げた。すると、一緒に来るんだ、とジャスティーは返した。テオールは安心したように微笑み、礼を言う。レナリアの表情は変わらないが、テオールの手を握り直したのが分かった。

 改めて、フィオールは思う。テオールとレナリアは引き離せない。フィオールとルイルのように、どちらかが欠ければ生きていけなくなるだろう。テオールにとってレナリアは安定剤であるし、レナリアにとってテオールは最後の一人だ。フィオールには、テオールを死なせてレナリアも見殺しにするつもりは毛頭ない。


 ルイルを窺うと、その透き通った青色の双眸はフィオールを見た。その中に激情は見当たらず、こてん、と不思議そうに頭を傾けるだけだ。テオールのことは、本当に踏ん切りが付いたのだろう。家族も他人も体の自由も奪われたレナリアから、唯一残っているテオールまでを取り上げるのはさすがに酷だと感じているのかもしれない。何にせよ、ルイルが泣かないようになって良かったとフィオールは安堵した。

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