第44話 記憶Ⅰ

 意を決し、ガララ、と控えめな音でドアを開けていった。椅子に座ったテオールと、ベッドの上でぐったりと寝ているレナリアが目に映る。


「ルイ。フィオ。事情聴取は終わったの?」

「……うん。なんかね、フィオが話したいことがあるんだって」

「誰に?」

「……」

「……ルイと、ジオスに」


 フィオールはルイルの横に並んだ。歩調を合わせ、ベッド脇に立つ。

 改めて見ると、レナリアは包帯やガーゼで巻かれて痛々しい見た目をしていた。目元がやけに赤いが、まさか泣いていたのだろうか。意外だ、とルイルは思う。よく知らないが、何と無くレナリアは決して涙を見せないと思っていた。耐えていると言うよりは、流せないのだろうと。しかし、今回ばかりは違ったらしい。

 フィオールから、レナリアはあたかもごみに対するような扱いを受けていたと聞いている。カーゴは何度も何度もレナリアを蹴り、顔は血だらけで服は汚れていたのだと。さすがのルイルも可哀想だと感じるほどの話だ。だが、同時にレナリアで良かったと安心もした。激しい暴行を受けたのがフィオールではなくレナリアで、心の底から安堵した。無論、フィオールが怒るかもしれないので口にはしなかったが。


 テオールが立ち上がり、空いた椅子にフィオールが座った。ルイルに気を遣ったのか、テオールはルイルをフィオールの隣に置いてレナリアから一番遠い場所に立った。――ふらり、とレナリアの手は数センチ持ち上がるが、脱力してシーツの上に戻っていく。

 たったそれだけの一コマで、二人がどうしようもなく惹かれ合っているのだとルイルは察した。ロマンス映画のヒーローとヒロインのように、テオールとレナリアはお似合いだ。打たれ弱く、自分勝手な似た者同士。

 だが、それはルイルも同じだ。なぜルイルではなくレナリアなのだろう、何十回、何百回と繰り返した自問自答は、今この瞬間もルイルの心を苦しめる。


「何があったか、分かってるか?」

「あ、うん。さっき、事情聴取で警察の人から聞いたよ。レナリアもちゃんと分かってる」


 そうだよね、と言わんばかりにテオールが視線を向けると、レナリアは頷いた。


「……ごめん、なさい。巻き込んで、ごめんなさい……」

「いやっ、俺こそ、ジオスのこと、助けられなくて……ジオスは俺を助けてくれたのに、俺は、座ってるだけだったから……ごめん……」


 なぜフィオールが謝るのか、ルイルは理解できない。最初から、悪いのはレナリアではないのか。レナリアが関わったからテオールは死にかけたし、レナリアが憎まれていたからフィオールは生贄にされかけた。レナリアがフィオールを助けるのは当然だ。むしろ今回レナリアが死ねば、テオールはルイルのもとへ戻ってきてくれただろう。その点で言えば、この世界でレナリアを最も恨んでいるのはルイルかもしれない。レナリアはルイルの宝物を全て奪うつもりではないかと、同族だからこそ生まれる苛立ちに精神が汚染されてしまう。

 しかし、レナリアの目にはテオールしか映っていないともルイルは思う。二人を救出した当時、テオールを必死に呼んでいたレナリアの声は、ルイルの鼓膜を確かに揺らした。その声色はルイルが持ちえるそれとあまりに似ていて、フィオールに触れながらも振り向きそうになった。


 出会ったときからそうだ。ルイルは、レナリアと共鳴してしまう。嫌いなのに殺したいと思えないのは、その辺りが影響しているのだろう。ルイルがレナリアに抱いた感情は、第三者が己に抱いたものとして返ってくる。


 いたたまれない沈黙を挟んだ後、フィオールの口は再び動いた。


「……ジオスの……家族の中に、黒い目の人、いたか?」

「……?お母さんとお姉ちゃんは、黒かったですけど……何で、そんなこと聞くんですか……?」

「……見た、んだ」

「何を……?」

「――……目玉。抜かれてた。黒い、虹彩、で」

「……え?」


 生まれるは、現実を弾き出さんとする緊張。

 何言ってるんですか、とレナリアの声が静寂を揺らした。嘘ですよね、と拒絶を表す声がフィオールにぶつかった。――この場の誰にとっても、フィオールの一言は予想外の内容だ。

 その目にレナリアを映していたルイルは、ありえない話にはっとしてフィオールを見た。フィオールとレナリアを心配げに窺っていたテオールも、困惑した様子でフィオールに視線を移した。フィオールが何を言っているのか、誰も彼もが理解を拒んでいることだろう。もしかしたら、フィオールとて己の発言に正気を疑っているかもしれない。時間も思考も止まり、フィオールが発した文字列はルイルの脳裏をぐるぐると回る。


 被害者の眼球が持ち去られたスタンメリー一家殺害事件は、ルイルとレナリアにとっての全ての始まりだ。二人の世界は、ここから狂い始めた。ルイルはかすかな光にすがりつかなくては生きていけなくなり、レナリアは絶望の底へ底へと叩き落とされてきた。

 まさか、そこにフィオールも名を連ねていると言うのだろうか。フィオールの世界も、ルイルが知らないうちに狂っていたのだろうか。否、フィオールはずっと狂っている。ならば、それが偶然に育まれた欠陥ではなく、確固たるきっかけによって形成された問題だと言うのか。


「本当、だと思う……。思い出したんだ。ずっと前に、どこかのガレージで見つけて……」

「何で?何で?何で先輩が知ってるんですか……?何で、何で、何で……!」

「待って。二人共、落ち着いて。フィオ、ちゃんと説明してくれる?」


 ギシ、とベッドが軋む。テオールは、そこに腰かけレナリアの手を握った。ふらふらとフィオールに伸ばされていたそれは、そっと包まれたおかげで静止した。だが、テオールの顔もまた強張っている。生まれて以来一緒に生きてきたテオールも知らない事実を、拒絶したがっているかのように唇を震わせている。レナリアの手を掴んだのは、己を奮い立たせるためでもあるのかもしれない。

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