第42話 二人きり

 初めて一緒に出かけて以来、テオールはレナリアを意識するようになった。チョコレートを与えると渋々といった様子で口に含むのに、甘さにほだされている表情はかわいらしい。こちらが思わず見詰めてしまう度、何、と暗に鬱陶しがる声に心が満たされる。


 テオールが襲われて以来、レナリアはフィオールとルイルに主体的に関わるのをやめた。しかし、テオールには関心を割き続けてくれている。もちろん、テオールが自ら話しかけているからだが。それでも、レナリアの心に己が確かに住み着いている、その現状にテオールは平穏を感じている。その日常を、失いたくない。


 レナリア、とその名を呼び続ける。違う、ごめんなさい、とちぐはぐな訴えをやめない少女を、大丈夫だと励まし続ける。

 ――不意に、レナリアは弱々しく、けれど今のレナリアの力では一際強くテオールを抱き締めた。一瞬だけ、レナリアの意識が現実を見た。その瞬間を逃さず、テオールはレナリアの鼓膜に声を吹き込む。


「レナリア。レナリアは、俺たちを助けてくれたんだよ。殺してなんかない。助けたんだよ」

「違う」

「何も違わない。レナリアは救ってくれたんだよ。お願い、俺の言うことを信じて……。レナリアは、『テオール』を助けたんだ……」

「……」

「レナリア……」


 一拍、二拍、沈黙が生まれた。時が止まったのかと錯覚するほど静かな病室に、二人分の息遣いと衣擦れの音が反響していく。とん、とん、とテオールはレナリアの背を優しくたたいた。泣いている赤子をあやすかのごとく、レナリアの脈拍が穏やかになるよう促す。


 ――あ、とかすれた声。


「……た、すけ、た。私が、助けた」


 言われたことをただ繰り返すようにも、教えられた文字列を刻み直すようにも聞こえる。たどたどしい、覚えたての言葉を親に教える子供のような。

 泣いてしまいそうなほどの歓喜に、テオールはレナリアを強く強く抱き締めた。


「うん……!うん、そうだよ。レナリア、ありがとう。レナリアのおかげで、生きて帰ってきてくれたよ」

「……殺して、ない?」

「殺してなんかない!レナリアは何も悪くない。ねぇ、大丈夫だよ。俺がこれからも一緒にいるよ。一緒にいさせて。レナリア、一緒に生きよう」


 現実は恐ろしいだろう。どこまで駆けても死の気配が付きまとい、誰を選んでも失う予感を忘れられない。レナリアは、いつも亡霊のようにさまよっていた。居場所を無くし、ただ存在しているだけの人だった。その隣にどうか自分を置いてほしい、テオールのその願いは、自分勝手な、けれどレナリアが望んでいる答えのはずだ。テオールには確信があった。レナリアは、誰かと一緒でなくては生きられない。その誰かは、他でもないテオールであってほしい。親から非難されようと関係ない。テオールは、これからもずっとレナリアの側で息をしていたい。


 ――肩が湿った、気がした。


「う、う……あ、あああ……!あああぁぁぁ……!」

「……えっ、あ、え」

「ごめっ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……!」


 突然、レナリアは泣き始めた。大声を上げ、ぼろぼろ、ぼろぼろと大粒の雨を降らせながらテオールにしがみついた。

 初めて、とテオールは気づく。レナリアが泣くのは、これが初めてだ。どれほど濁った目をしているときも、矛盾した思考に押し流されているときも、レナリアは涙の一粒も落とさなかった。いつもいつも、声を漏らすことしかできていなかった。それが、今は。今だけは。今、この瞬間になってやっと。テオールがまだ出会っていない、ずっと昔にかれたであろう涙は、ようやくレナリアの頬を濡らす。


「いなくなっ、いなくなっ、て、みんな、いなくなっちゃった……!」

「……うん」

「一人っ、は嫌っ、嫌なのに、みんなっ、死んじゃっ、た……!」

「うん」

「嫌ぁぁぁ!いな、いなくならないでっ、死んじゃ嫌!!」

「うん、一緒にいるよ。レナリア。一緒にいようね」


 体を離し、額同士を当てた。テオールは両手でレナリアの頬を包み、涙が滑っていくのを感じながらその両目を覗き込む。潤んだ瞳はきらきらと輝き、テオールだけを丸く映している。深く抉られた心に、テオールの存在が染み込んでいる。

 レナリアは、テオールの両手に触れた。重ね、共に涙を拾った。その温もりにテオールは心を満たされ、かき乱される。どくどくと脈打つ心臓はうるさく、鼓動を絶えず忙しなく奏でる。手に入ったと感動するには、あまりに悲しく絶望に染まった瞬間。


 一緒にいる、その重みを見過ごすわけではない。ジャスティーの忠告は受け止めたし、己に作為的な死の危険が迫ってしまうことも覚悟している。そのうえで、テオールはレナリアの側にいたいのだ。浅ましくも自分自身のために、簒奪の蓄積によって膨張した孤独を持つレナリアに、己の孤独を埋めてもらうために。誰かがいなくては生きられない二人きりで、これからの日々を生き抜くために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る