第38話 犯人Ⅱ

 タン、タン、とカーゴが履いているスニーカーの靴底が鳴る。段々と、フィオールのもとへと近づいてくる。大人の歩幅では、たった数歩の距離だった。

 やめろ、とフィオールの視界は赤く染まっていく。背後から、首に両手を添えられる錯覚。顎からせり上がってきたその右手の指先は、フィオールの唇をなぞり、口内に侵入する。生臭い、血の臭い。吐き気が胃を襲う。

 げぼっ、と外気へ全てが逆流した。


「うわっ、吐くなよ……。何だ、怖くなったのか?汚いな。臭い」


 がはっ、と吐瀉物は途切れない。昼食に食べたものが全て出てきた。うっ、うっ、と頼んでもいないのに涙が出てくる。視界が不明瞭になる。カーゴがどこにいるのか分からない。怖い。逃げたい。死にたくない。


 一通り吐き出し、ひゅー、ひゅー、とレナリアとお揃いの呼吸をし始めた直後、フィオールの髪は強くつかまれた。恐らく吐瀉物があるであろう場所を左に迂回し、ずるずると引きずられる。痛い。ブチブチ、と何本か髪の毛が抜ける音がした。

 ガンッ、と後頭部が床に激突する衝撃。これまで経験したことがない激痛にもだえるも、胴体に重みが加わって阻まれる。

 どうにか薄く目を開けると、ぎらぎらと輝く双眸でカーゴがフィオールに馬乗りしているのが分かった。その右手にきらりと光るのは、ナイフだ。短いが、何かを切り裂くためだけに作られた道具。きっと人間に使うことは想定されていないだろうに、フィオールの肌をすべるのを今か今かと待っている。


「や、だ……嫌だ……嫌だ……!」

「まずは目だな。心配するな、ちゃんと練習したんだ。豚でも人間でも同じだろう」

「嫌だ、嫌だ!!嫌だ!!あああ!!」


 フィオールはじたばたと暴れる。だが、腕を後ろ手に拘束された状態では何もできない。

 奥深く、じっと息を潜めていた箱がガタガタと揺れる。開いた底に潜んでいたもやが、徐々に薄くなっていく。ガレージ。携帯式の冷凍庫。アルミ袋に入った何か。あの夜、フィオールはそれを開けた。銀色の袋の中、まるで宝物のように凍らされていたそれを開けた。アイスかな、と思った。軽い、丸い何かが入っていたから、フィオールが大好きなチョコレートアイスだと思った。苺をチョコレートでコーティングした、特別な日にしか食べられないデザート。それにしてはきれいなボール形だったが、そこまで思い至ることはできなかった。ゆえに、開けた。何の躊躇もせず開けた。――中にあったのは、黒い虹彩を持つ眼球だ。


 刃が迫る。左目を切り取ろうと近づいてくる。殺される。死ぬ。


「あああぁぁぁ!!」

「――嫌あああぁぁぁ!!」


 ――カランカランッ、と放り出された、ナイフ。ゴンッ、と落下した、何か。


 ぼろぼろと涙を溢れさせるフィオールの視界に、ふらつきながら立っているレナリアが映った。少し視線をずらせば、こめかみから血を流しているカーゴが倒れていた。目は閉じている、気絶しているのだろう。側には、離れた場所にあったはずのコンクリートブロック。

 レナリアがそれでカーゴを殴った、フィオールがそう推測するには時間が掛かった。その間に、レナリアはおぼつかない手つきでナイフを拾った。フィオールの足首に巻きついているロープの隙間に差し込む。がたがたと乱暴に動かし、フィオールの足も傷つけながらロープを切っていく。


「おね、お姉ちゃん、助けて、て、テオール、助けて、私じゃない、テオール、お姉ちゃん、お姉ちゃん……」


 プツンッ、とロープはようやく弾けた。同時にレナリアはナイフを取り落とし、フィオールの右腕を掴んで立ち上がらせようとした。ところが、肝心のフィオールが動けない。一度恐慌状態に陥った体は、赤子のように機能性を失ってしまっている。


 テオール、お姉ちゃん、とレナリアの声。フィオールはレナリアの目をじっと見詰めた。その虹彩は黒い。あの夜、袋から取り出したものとそっくりな、夜空と同じくらい真っ黒なそれ。

 何で、と子供の高い声が脳裏で木霊する。何で取ったの、と誰かに聞く、幼い己の声だ。本物だと認めたくなくて、人間のものだと言われたくなくて、誰のなの、と愚かにも尋ねた。そうしたら、何と答えられたのだったか。そう、確か、女の子の目だよ、と教えられたのだったか。お姫様みたいな女の子なんだ、と鼻歌をくちずさむかのように明かされたのだったか。何で、と理由を求めれば、家族に愛されてたから、と到底理解できない動機を述べられたのだったか。


 ――ゆらり、とカーゴは起き上がった。


「あ、あ……嫌……嫌だ……」

「あぁ……お前、お前はそうやって、シャンリーも殺したんだな……?路地裏で、切って、目を抉って……」

「テオール、テオール」


 フィオールはカーゴを、カーゴはレナリアを、レナリアはフィオールを見ている。フィオールは過去を、カーゴは妄想を、レナリアは虚像を見ている。今この瞬間、三人共が噛み合わない現実の中にいる。暗い、狭い地下室で、それぞれがそれぞれの幻影に囚われている。


 ドアは、カーゴの向こう側だ。フィオールとレナリアは、カーゴを乗り越えて脱出しなくてはいけない。果たして、そのようなことができるだろうか。動けないフィオールと理解できないレナリアに、この地獄から這い上がることはできるだろうか。

 無理だ、とフィオールの脳裏に文字列が浮かぶ。不可能だ。生きて出られない。死ぬしかない。

 カーゴは、側のテーブルに置いてある拳銃を手に取った。セーフティーを解除し、レナリアに向ける。脳が揺れているのか、手元は安定していない。それでも、混乱している少女を撃ち殺すには十分だ。まず、レナリアが殺される。次に、フィオールが殺される。そして、眼球を抉り出されるだろう。どちらにせよ、二人共、死ぬ。


 フィオールの脳裏に映像が映し出された。すでに忘れていた幼年期の何気無い一日や、毎年繰り返される冬の悪夢が流れては切り替わる。

 フィオ、と抱き締めてくれるのは、必ずテオールとルイルだった。異常なほど親を拒むフィオールにとって、テオールとルイルだけが本当の意味で家族だった。だから、守りたかった。あの日、テオールを守ろうと決意した。ルイルに出会って、ルイルも守ろうと決心した。他人であるルイルを受け入れられたのは、きっと、ルイルがあの事件の被害者だからだ。レナリアを一応受け入れられたのも、嫌えないのも、憎めないのも、全部、全部、フィオールは全てを知っているから。


 ――突如、バンッ、とドアが開いた。

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