第37話 犯人Ⅰ

 ドスッ、ドスッ、と濁った音。何度も何度も、何かを力一杯蹴り込む音。時たま、かはっ、と何かを吐き出す音や、うっ、と呻く声もする。

 フィオールは、徐にまぶたを持ち上げた。ぼやけた視界は瞬きを繰り返すことで鮮明になり、数メートル先の光景を認識する。一人の大人が、地面に横たわる白い何かを強く蹴っている。一回、二回、三回、四回、間隔を変え足を変えて蹴っている。――否、白い何か、ではない。蹴られているのは、白い服を着た紫の髪の少女だ。


 反射的に起き上がろうとした瞬間、フィオールの頭に激痛が走った。無意識に飛び出た声に、大人はぴたりと暴行をやめる。ぐるんっ、とこちらを向いた顔は、化学の教師のそれだ。お人好しで、お節介で、犯罪者とは全く結びつかない人。

 やっと起きたか、と呟いた声は、恨みが籠もっているせいで汚かった。逃げないと、とフィオールは本能的に感じるが、手を突くことができない。手首が背面で拘束され、両足首もロープに巻かれている。


「何で、何で、何で……!」

「何で?いい質問だ。ほら、教えてやれ」


 ぎゅっ、とカーゴが乱雑に掴み上げたのは、レナリアの髪。引き上げられたその顔は、散々痛めつけられたのか血だらけだ。なぜフィオールがここにいるのか、なぜレナリアが暴力を振るわれているのか、なぜカーゴが二人をこのように扱っているのか、慌ただしい脳裏では何も推察できない。フィオールの喉を、吐き気がぎゅうぎゅうに押し上げる。は、は、と呼吸は乱れ、現実をよりいっそう不確かなものへと作り替えていく。


 何で、そう聞くのは初めてでない気がする。いつかの日、フィオールはこうして何者かに理由を尋ねた気がする。真っ赤な、血で汚れた何かを前に、何で、と誰かに答えを求めた気がする。ガーッ、と映写機が回り、シャー、とモノクロの映画を投写する。ガレージ。携帯式の冷凍庫。アルミ袋に入った何か。背後から伸びた大きな手。


「レナリア。言え」

「……テ……オ……?」

「違う、あいつはフィオールだ。やっぱり、テオールのほうが良かったのか?」


 カーゴは、あっけなくレナリアを手放した。ゴンッ、と床に落ちたレナリアは、反射的なものだろう、体を丸め両腕を顔の前に持ってくる。レナリアは拘束されていないらしい。尤も、あそこまで傷ついていれば逃走などできるはずもないが。


 一方、フィオールはほんの少しだけ平静を取り戻した。テオ、というレナリアの声に、最愛の弟を思い出したからだろう。あるいは、レナリアの異常がかえってフィオールの「正常」を促したか。

 開けた視界に、フィオールは現実を再確認した。カーゴの家かは定かでないが、ここは一般的な一軒家にあるベースメントだ。じめじめとした暗闇を、天井の蛍光灯が必死に照らしている。広さは大したものではない。フィオールとレナリアは対角の壁際にいる。唯一のドアはフィオールの右手、レナリア側。コンクリートブロックやロープの他、ナイフと銃がテーブルや床の上に置いてあった。――確実に、人間を殺すための部屋。そう思い至った途端、フィオールの心臓はぎしりと軋む。


「フィオール。なぜお前だと思う?答えの一つは、俺がテオールを刺したことに気づいたからだが……もう一つは、こいつのせいだよ!」


 ドスッ、とカーゴはレナリアを蹴り飛ばした。余程力が入っていたのだろう、小さな体はごろっと回転し、仰向けになる。げほっ、かはっ、とままならない呼吸の音。ひゅー、ひゅー、と人体から鳴ってはならない雑音。フィオールは恐怖した。カーゴの真意が不明だから、余計にこの状況が地獄に思える。


「テオールが殺されそうになったのも、お前がこれから殺されるのも、全部、全部がこいつのせいだ。こいつが全員、殺してるんだ!」


 お前のせいだ、お前のせいだ、とカーゴはレナリアを連続で踏みつけた。その体が逃れようとして丸まっても、背中だろうが腹だろうが構わず攻撃する。ペチャ、と小さく音を立てるのは、レナリアが吐いた唾液だろうか。レナリア自身は一切の声を発さないというのに、荒々しい環境音は地下でよく響いている。


 聞いたことがある話に、フィオールはさほど古くない記憶をかき出した。レナリアの大事な人たちはみんな殺されてるんだ、と教えたのはテオールだ。本人でもないのに、決して泣かないらしい本人の代わりを務めるかのように、テオールは悲痛な面持ちでフィオールとルイルに話した。殺したのは絶対にレナリアじゃない、と兄と親友に訴えた。ルイルは信じようとしなかったが、お願い、とテオールに言われればとりあえず頷いていた。

 フィオールは、信じた。テオールの気持ちを偽りにしたくなかったし、なぜかレナリア以外の何者かの仕業だという確信があった。しかし、そのせいでカーゴの違和感に感づいてしまったのかもしれない。


 ――違う、とか細い声がした。


「違う、違う……!違う、違う、違う、違う!!私じゃない!!私じゃない!!私は殺してない!!お姉ちゃんもおばあちゃんも先生もシャンリーも私は殺してない!!」


 あああ、とレナリアは叫ぶ。一体どこからその慟哭が吐き出されているのかと思えるほど、力強く叫ぶ。もはや、そうすることに意識は作用していないようだった。私じゃない、私じゃない、と機械的に、けれど人間的な激情を乗せて繰り返す。さすがのカーゴも圧倒されたのか、束の間だけ動きが止まった。


 カーゴは狂っている。殺人を企てるなど、正気の沙汰ではない。されど、この場で誰よりも狂乱しているのはレナリアだ。胎児のような姿勢で、思い通りにならず当たり散らす子供のように思いの丈を散らしている。違う、違う、と呂律が回らない口で訴えている。

 フィオールは、これを見たことがあった。テオールが退院した日の夕刻、レナリアのもとへ行くと決めたテオールに付いていき、ルイルと共に物陰から盗み見た。フィオールとルイルがテオールとレナリアの接触を黙認するようになったのは、これがあったからだ。今のレナリアは、そのときの何倍も壊れている。


「……黙れ!!シャンリーはお前が殺したんだ!!お前があの子の優しさにつけ込んで殺したんだ!!この人殺し!!あの子の目も足も返せ!!」

「ぐっ……ちっ、が……!違う……!」

「人殺し!!死ね!!お前が死ね!!」


 ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ。何度も、何度も、何度も、何度も、カーゴはレナリアをなぶる。

 レナリアの体は、だらんっ、と力を失った。ひっく、と上下に跳ねるのが不気味だ。

 はっ、はっ、とフィオールの呼吸はいっそう浅くなっていく。死んでしまったのだろうか。レナリアは、この男性に殺されてしまったのだろうか。武器も持たず、ただ力任せに足をぶつけるだけで、人間はこうも容易く死んでしまうのだろうか。


 はぁっ、はぁっ、とカーゴは肩で息をしている。レナリアの髪を掴み上げ、まだ生きてるな、と確認した。やりすぎた、とこぼす声はぞっとするほど平坦だ。ついさっきまでの衝動が無かったかのように、カーゴは穏やかな顔でレナリアを床にたたき落とす。ガンッ、と嫌な音がした。

 レナリアは動かない。辺りが静かになってしまえば、辛うじてその呼吸音は聞こえた。生きてる、死んでない、とフィオールは必死に思い込もうとした。否、事実レナリアは生きているのだが、死の恐怖を追い返すには意図的に繰り返すしかなかった。

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