第33話 レナリアの悪夢Ⅱ

「レナリア、大丈夫、大丈夫だよ」

「違、違う、私、私じゃない、私じゃない」

「うん、レナリアのせいじゃない。レナリアは何も悪くない」

「違う、違う、違う、違う……!」

「レナリア」


 いつの間にか、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。真っ黒な毛糸がぞわぞわとうごめく視界。否、毛糸ではない、血管だ。姉の死体にあった、眼球が繋がっていたはずの血管。乱雑に破壊されていた。血が出ていた。筋肉がさらけ出されていた。それを思い出した途端、視界が赤く染まっていく。嫌だ。気持ち悪い。引きはがしたい。洗い流したい。姉のように眼球を抉られたい。そうしたら何も見ずに済む。死人に脅かされずに済む。

 レナリアは最低だ。殺したのは己のくせに、被害者が付きまとうことを良しとしない。業を背負う気も償う気もない。逃げたい。終わらせたい。精神の糸をぷつりと断ち切り、何も感じない体になってしまいたい。とにかく、死にたい。


 お前が死ねば良かったのに、そう言ったルイルは正しい。レナリアが死ねば、全てが終わる。了承も無く産み落とされ、いらぬ子だと不快感をぶつけられ、挙げ句の果てには誰も彼もが死んでいく、そんな人生はもうたくさんだ。味方など誰もいらない。一匙の幸せもいらない。神様は最低な存在だと思う。されど、もし情けをもらえるのなら欲しいものがある。たった一度で構わないから、逃れられない死が欲しい。


 ――突然、視界が柔らかに染まった。


「レナリア」


 額から、他人の体温がじんわりと伝わってくる。頬から、他人の感触をそっと感じ取られる。レナリア、と囁く声は優しい。一緒に寝てくれた姉の、抱き締めてくれた隣人の、頭を撫でてくれた恩師の、手を繋いでくれた親友の声がよみがえる。

 死ね、死ね、と繰り返す呪詛は遠のいた。血管も、少しだけ退いた。さわさわと揺らめきながら、視界の中央をいくらか空けた。

 次いで目に映るのは、カラメルを煮詰めたかのような瞳。ありきたりな色に、これまでの人生で出会った人々が重なる。

 レナリアは謝罪を口ずさんだ。お姉ちゃん、おばあちゃん、先生、シャンリー、と順番に呟いた。ごめんなさい、ともうろうとする思考で文字を並べ立てた。


 ちかちかと明滅する脳裏、カチカチと投影される記憶。フィルムの始まりは、レナリアに絵本を読み聞かせる姉の手だ。上を向けば笑顔があり、どうしたの、と尋ねてもらえた。次の幸せな場面は、隣人が作ってくれたバースデーケーキ。素朴なパウンドケーキだったが、有名なパティシエが作ったどのケーキよりもおいしいと確信した。初めて他人が死んだ後に映し出されるのは、クレヨンをぐちゃぐちゃに走らせた画用紙。隣にはいつも先生がおり、不安と孤独に押し潰されそうなレナリアの頭を優しく撫でてくれた。フィルムの終わりは、新聞記事のスクラップ。髪の色も目の色も変えて、二人で逃げちゃおう、と親友は手を繋いでくれた。

 そして、今は新しく続きがある。


「テオール、ごめんなさい」


 言えば、大きく広がった飴玉。光がゆらゆらときらめき、くしゃりと歪んでしまう。テオールのその表情の意味は、レナリアには分からない。

 いいよ、と聞こえた。恨んでないよ、と言われた。レナリアの思考は鎮まっていく。脳を直接揺らしていたざわめきは徐々に消え、ぐつぐつと煮立っていた絶望も冷めていく。元通りの、脳裏をしっとりと浸す状態へと戻っていく。


 だらんっ、とレナリアの両腕は垂れた。同時に背骨から脱力し、テオールによって慌てて抱き抱えられる。その肩口から香るは、爽やかな森の匂い。いつの間にか、目に映るのは現実だけになっていた。背中をさする手の平の動きに、レナリアの呼吸も連動する。


「レナリアが無事で良かった」


 ――次に目を開けたとき、レナリアは寮の私室で寝ていた。カーテンを少しめくった先の空は、澄んだ藍色。覚束ない足取りでシーリングライトを点けると、デスクにお菓子が置いてあることに気づく。一口サイズのチョコレートが二個。下にはメモが一枚敷かれており、また明日、と読みやすい文字で書いてあった。

 チョコレートを一個つまみ上げ、包装をはがして口に放り込む。舌の上で転がすと、ココアとはまた違う甘みが口内に染み込んでいく。


 ぐう、と腹の虫が鳴いた。おなかが空いた。体が食料を欲している。生きるために、心とは真逆に命の糧を必要としている。レナリアはまた一個食べた。ほんのりとした苦みが脳を痺れさせる。


 レナリアはうずくまった。悲しかった。空しかった。己で己に呆れた。隣には誰もいない。温もりが恋しい。独りぼっちは寂しい。それでも、死なずに生きている。死ぬのが難しいから生きている。生きている。否定できない現実の中、たった一人で生きている。

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