第32話 レナリアの悪夢Ⅰ

 レナリアは、姉が死んだときのことをよく覚えている。三歳児にして色濃く焼きついたのは、何度も何度も思い返してきたからだろう。後悔と、恐怖と、絶望が脳裏で飽和している。

 べちょり、と濡れた血の感触と、ぽっかり、とくり抜かれた両目。穴空きの顔は笑ってしまうほど無様で、一瞬誰の死体なのか分からなかった。少女趣味なパジャマとミルクティー色の長髪が、その物体が姉であることを示していた。


 親から髪飾りをもらえる姉が羨ましかった。当然のように、親がプレゼントを与える姉が妬ましかった。今でも思う。レナリアと姉は、生まれる順番が違っただけだ。レナリアが先に生まれていれば、顧みてもらえないのは姉のほうだった。姉は一緒に髪飾りを買いに行こうと言ったが、見当違いにも程がある。レナリアは、親に関心を寄せてほしかっただけだ。髪飾りはいらない。誕生日も祝われなくて構わない。ただ、レナリア、と名前を呼んでほしかった。


 ――重いまぶたを持ち上げる。不意に、夕日が目を焼いた。びっしょりと汗をかいた体を無理矢理起こし、デスクに放置していたミネラルウォーターを掴む。一口飲み、またベッドに倒れ込んだ。警察を通じて申し出たおかげで、レナリアは一人部屋で生活できている。吐こうが我を失おうが、誰にも文句を言われない。

 空いたベッドに寝転んでいるのは、老婦のシルエット。両目と右手が無い。もぞもぞと膨らんだり縮んだりする体で、レナリアをじっと見詰めている。


 コン、コン、とドアがノックされた。応対する気が起きず、レナリアは居留守を決めた。じっと息を潜め、いなくなるのを待つ。ところが、数秒後にまたノックされた。同時に、ジオスさん、と寮監の声。面倒臭いが、鍵を借りたままなので部屋にいることは把握されている、レナリアはドアを開けた。


「学年主任の先生から、話があるそうよ。今すぐクラスルームに行きなさい」

「……はい」


 テオールが刺された日から、十日が経った。その間、レナリアは全てのクラスを休んでいる。時折夕食に顔を出す以外は、自室から一歩も出ていない。さすがに特待生の扱いが危うくなってきたのだろう。

 パジャマから姉の服に着替えつつ、どうしようか漠然と思案する。特待生で居続けるか、退学するか。後者を選んだ場合、現在の保護者からとやかく言われるのは必至だ。住む場所も困る。居候先に戻る展開はできれば回避したい。かと言って、一人暮らしするほどの資金は無い。

 前者しかないのか、と言わずもがなな結論を導きつつ、いっそ死んでしまうのはどうだろうか、と救いを求める。これまで一度として自殺が成功しなかった身だが、今なら死ねる気がする。道具を使うのは駄目だ、決意が鈍る。そういえば、イーストストリートに大きな川があった。そこをまたぐ橋の欄干から飛び降りるのはどうだろうか。幸い、レナリアは泳げない。


 部屋から踏み出し、鍵を寮監に預け、外に出た。きょろきょろと方向を確認し、校舎のほうへ足を向ける。

 ――がしっ、と右腕をつかまれた。


「……!」


 はっと振り返れば、甘そうな髪と瞳。建物の陰から飛び出した姿勢で、テオールがいた。


「は、放して!」

「急にごめん。けど、ちゃんと話したくて……!」

「うるさい!」


 ついテオールの手を平手打ちするが、拘束は緩まないままだ。予期していなかった出来事に、レナリアの思考はぐちゃぐちゃと絡まる。テオールに再会したらどう接するか、考えていなかったわけではない。尤も、無視を決めただけだが。謝るのは偉そうだし、何も無かったかのように関わり続けるのも不相応だ。どうせ強制的に顔を合わせるのは週一回のクラスだけなのだから、あとはこちらが避ければ済むと思っていた。ルイルから報復は受けるかもしれないが、それも受け入れるつもりだ。むしろ、殺してくれることを願いさえしている。

 だが、実際はテオールがこうしてやってきた、飛んで火に入る夏の虫のごとく。一体何を考えているのか。否、話したいと言っているのは聞いた。謝罪を求めているのだろうか。なら、さっさと謝って終わらせてしまおう。


「何?やり返しに来たの?」


 しかし、口から出たのは嫌味だった。


「自分が刺されたから、今度は私を刺しに来たの?いいよ、刺しなよ。殺してよ。殺して。他にも死んじゃう前に止めてよ!」


 力一杯に叫び、はぁ、はぁ、と肩で息をする。テオールのすぐ後ろで、黒い塊がうごめいている。まるでテオールと共にレナリアを糾弾するかのように、死んだはずの四人が揺れている。

 姉の頭部には二つの穴が空いており、橙色に染まる景色が見通せた。目が無いせいだ。ぽっかりと空いた穴で、姉はレナリアをじっと見詰めている。その隣には、家族と隣人の死を悼んでくれた教師。まだ若く、結婚して子供が欲しいと言っていた。その未来を奪ったレナリアを、文字通り敵としてにらんでいる。いつもレナリアを笑顔で迎えてくれた老婦と、塞ぎ込むレナリアを連れて歩いてくれた親友。二人共、レナリアを無言で非難している。


 全員、レナリアのせいで死んだ。レナリアが、四人を殺した。何度も何度も反芻した思考は脳を食い荒らし、きれい事や「善意」を受け付けなくなった。幻聴が聞こえる。死ね、苦しめ、と四人が口を揃えて言う。


 はっ、はっ、と今度は過呼吸に陥りそうになる。家族が死んだ時点で、死んでいれば良かった。そうしたら隣人たちは死なず、そもそも地獄は始まらなかった。生まれた時点で、死んでいれば良かった。そうしたら家族は死なず、肯定されない命に悲嘆に暮れることもなかった。全部、全部、レナリアがいなければ実現しない悪夢だった。

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