第29話 崩壊Ⅱ

「――ルイ……?」


 フィオールが願った直後、小さな声がした。ルイルと同等に、この世で何よりも穏やかな音色。寂しくなったとき、泣いているとき、いつだってフィオールを優しく呼んでくれる音。あの日も、夜中に起こしたフィオールに笑いかけてくれた。大丈夫、フィオが僕を守ってくれるなら、僕がフィオを守るね、と。純朴な、幼い子供の笑顔。何も知らない、幸福な笑み。


「テオ!」


 ルイルが顔を上げたのが分かった。フィオールを抱き返しながらも、ベッドに上がりたいとばかりに体が少し持ち上がっている。ランロッド夫妻も、ルイルとの口論をやめてテオールの様子を確認している。無理に起き上がっちゃだめ、痛くないか、慈愛と哀れみに満ちた声がフィオールの耳にも届いた。

 途端に傷つくフィオールは、薄情だ。弟の意識が戻って嬉しいのに、捨てられたように感じてしまうのはなぜだろうか。行くな、とルイルに望んでしまうのはなぜだろうか。失うことと同じくらい、見捨てられることも怖いせいだろうか。この身を懸けてテオールとルイルを守ると決めていたはずなのに、結局は。


 フィオールの胸中を知ってか知らずか、フィオは、とテオールが聞いた。ここにいるよ、とルイルの答え。ルイルに支えられながら、フィオールはベッドに座った。起き上がっているテオールの顔色は想像していたよりも良かったが、フィオールの顔を見るや否やぎょっとした。


「どうしたの?何かあった?」

「……」


 気怠げに首を振るフィオールの代わりに、ミランが訳を話す。


「ついさっき叫び始めて……。フィオール、何で?テオールは無事よ」

「……」


 無事じゃない、とフィオールは言いそうになった。腹部を刺されておいて、手術を受けておいて、一体どこが無事なものか。運良く命が助かっただけだ。当然、かすり傷さえ作らず寮に帰ってくるのが最善に決まっている。

 ごめんね、とテオールはフィオールの頭を撫でた。いつの間にか大きくなっていた手の平は、フィオールのやや硬い髪をもさもさと乱す。フィオールは、またもや泣き出した。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を止められない。自身が何をしているのか、何をしたいのか分からない。恐怖が不安を膨張させ、不安が恐怖をあおる。親の前で泣くのは久しぶりだが、羞恥を感じる気力もない。


 テオールと反対側の隣に、ルイルが座った。こてん、と肩に乗せられたその頭の重みに、フィオールの気持ちは少しだけ鎮まる。次いで襲うのは、眠気。衝撃的な映像と体の酷使に、思考が明瞭に働かない。駄目だ、と暗示を掛けるも、まぶたが閉じていく。


 ――コンコン、と背後のドアがノックされた。カタン、と開く音に続いて、二人分の足音。


「話は聞けたか?」

「はい、何とか」


 ジャスティーと、知らない男性の声。父の口調から、部下と話しているのだと察せられる。事件だから、警察が介入しているのだろう。そういえば、病室の前にも男性が一人待機していたかもしれない。


 弾かれたように、テオールの手が離れた。


「――ジオスさん……!」


 吐き出された名前に、フィオールとルイルは振り返った。

 ――黒い、これまでとは真逆の服装。だが、髪の色からレナリアだと確信が持てる。あの嫌な笑顔は消え去り、後悔と諦観が混ざった表情をしていた。


 フィオールの脳は、理解を拒む。レナリアがここにいる訳も、レナリアの格好の意味も、レナリアの表情の価値も、何もかもが想定できない。否、頭の隅では想像できている。昨日否定しなかった通り、テオールはレナリアと会っていたのだろう。だが、それでも受け入れたくない。身じろぐテオールの声音も、納得しがたかった。なぜ、安心したような、慌てたような反応を示すのだろうか。なぜ、フィオールを放ってレナリアを呼ぶのだろうか。なぜ、レナリアにその視線を手向けているのだろうか。


「何でここに……」

「テオールが襲われたとき、一緒にいたそうだ。二人で出かけてたらしい」


 ジャスティーが説明した直後、トンッ、とルイルがベッドを下りた。タッ、タッ、と早歩きでレナリアに歩み寄ったかと思えば――パンッ、と破裂音。

 殴った、と理解するのに一拍掛かった。フィオールの眠気は吹き飛び、ジャスティーに遅れて止めに入る。


「ルイ!」

「お前のせいだ!お前のせいでテオが……!何で?何で!」


 床に叩きつけられたレナリアと、その胸ぐらを掴むルイル。テオールの覚醒により落ち着いた室内が、再び混乱に満ちる。ジャスティーとフィオールはルイルを引きはがし、もう一人の警察官はレナリアをかばう。レナリアの口の端は切れているのか、血がにじんでいた。それを見たフィオールはぞわりとする。しかし、ルイルの怒鳴り声で冷静さを取り戻す。

 ぐちゃぐちゃだ、何もかも。テオールは死にかけ、フィオールは記憶を取り戻し、ルイルは発狂した。原因は何だろうか。ルイルを恨むレナリアだろうか。否、もっと前からだったのではないか。ランロッド家にルイルが来るよりも、ヴィンストン一家殺害事件が起きるよりも前だったのではないか。断片的に思い出した、フィオールの記憶の中に、答えは。


 送っていくから帰りなさい、とジャスティーはレナリアに言った。レナリアは、何の反応も返さない。警察官に引きずられるように立ち上がり、のろのろとドアを振り向いた。亡霊のごとく、今にも消え去りそうな気配で離れていく。ルイルは掴みかかるのを諦めたのか、代わりに叫ぶ。


「――お前が死ねば良かったのに!」

「――ルイッ、やめてよ!!」


 暴言の続きは、テオールが遮った。ベッドから下りようとして、ミランに止められた体勢でテオールは言う。泣きそうな表情で、レナリアだけを見詰めている。


「ジオスさん!約束、無かったことにしないで。俺はちゃんと生きてるから、返事、ちょうだい。俺が退院した後でもいいから、いつでもいいから……!」


 それは、レナリアしか知らない約束。テオールの一番であるはずのフィオールもルイルも知らない、テオールとレナリアだけの約束。対して、レナリアは身じろぎもせず病室を出た。


 ドアが閉まった直後、ドサッ、とベッドに何かが倒れ込む音。フィオールが振り返ると、テオールが仰向けに転がっていた。最悪だ、とかすれた声が漏れる。両手に覆われてしまい、その表情は分からない。

 テオ、とルイルは呼んだ。ジャスティーの拘束を振り払い、フィオールの手を引いてベッドに近寄る。何で、嘘だよね、とルイルは震える声で尋ねた。ところが、テオールは何も言わない。色々な感情が混ざり合った目を向け、繋いだその手に弱々しく触れるだけ。

 その末に絞り出された言葉は、ごめん、の一言だった。一番欲しくなかったセリフに、ルイルの目が潤む。涙は膨らみ、水滴として頬を伝う。何で、何で、とあどけなく繰り返される非難と、それを甘んじて受け入れる沈黙。真っ白な部屋の中、全てが壊れる音がした。

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