第28話 崩壊Ⅰ
フィオールはルイルと共に走った。灰色掛かった長い廊下を、看護師とぶつかりながらも駆け抜けた。悪夢を追い払うために手を繋ぎ、命を引き止めるために病室へ急ぐ。
ノックもせずドアを開くと、焼けそうなほど真っ白なベッドでテオールが眠っていた。傍らには、神妙な顔つきをしたランロッド夫妻が揃っている。テオ、というルイルの叫びと、麻酔で寝てるだけだ、というジャスティーの声が反響した。フィオールの視界は、ぐにゃりと曲がっている。
「テオ!起きてよ!起きて!」
「落ち着け!テオールは死なない!」
「テオ!」
ミランに促され、フィオールは無意識ながら椅子に座った。眼前のテオールは、規則正しい寝息を立てて目を閉じている。顔面に傷は無く、病院にいるのが不思議だとさえ感じた。
「おなかを刺されたって……」
ミランの声は、フィオールの鼓膜を静かに揺らした。何度も反芻し、噛み砕き、テオールに命の危機が迫っていたのだとようやく思い至る。否、テオールがいなくなるかもしれないという恐怖は元からあった。しかし、それを理屈も含めて理解したのはこの瞬間になってからだった。
隣で暴れるルイルとなだめるジャスティーのせいで、空気はぐらぐらと震えている。フィオールはそれを肺に吸い込み、鼻から吐き出す。カタカタと何かが鳴き、ぐるぐると闇が踊る。
――くるんっ、とテオールの顔がフィオールのほうに向いた。ロボットのような機械的な動きで、目と口が開く。
守ってくれるんじゃなかったの、とテオールは尋ねた。真っ赤になっちゃった、とテオールは喋った。パサリとシーツがめくれ、テオールの手がフィオールの口を指す。真っ赤、真っ赤、とかわいらしい声が繰り返す。
フィオールは、自身の唇に触れた。とろり、と濃厚な何かに指先が汚れた。見ると、真っ赤だ。鮮やかな赤色が、フィオールの指を濡らしている。ポタ、と膝に水滴が落ちた。口から漏れ、顎を伝い、ズボンを断続的に埋めていく赤。味は分からない。分かりたくもない。寒い。コンクリートの地面の上に、箱がある。臭い。手を伸ばし、開ける。冷たい。チャック付きのアルミ袋がいくつか入っている。怖い。内容物によって凹凸をかたどったそれら。開けた。開けた。開けた。背後から伸びた手が、フィオールの首を絞める。
「――あああぁぁぁ!!あああぁぁぁ……!」
「……フィオ?フィオ!」
分からない。分からない。分からない。この記憶がいつ、誰のものなのか分からない。否、己の脳裏にあるのだから己のものだろう。それでも、分かりたくない。自分のものだと認めたくない。知らない記憶だ。そう、どこかの誰かの記憶だ。きっと、話を聞いて錯覚してしまっているだけだ。このようなおぞましい記憶、自分の経験であるはずがない。
「違う、違う、違う、違う!!何も見てない!何も見てない!」
「フィオール、落ち着け!」
「フィオに触らないで!」
「テオは関係ない、テオに何もしないで、テオだけは殺さないで!!ちゃ、ちゃんと言わない、誰にも言わない、黙ってるから、テオは助けて……!」
「フィオール!」
頭の中がうるさい。思考が散らばる。脳が痛い。切り刻まれて殴られて、ありとあらゆる暴力を脳裏に直接受けている。誰でもいいから助けてほしい。この気持ち悪くて息苦しい地獄から連れ出してほしい。否、フィオールではなくテオールを助けてほしい。フィオールはこのままでいいから、テオールを逃がしてほしい。世界中でたった一人の弟。あの日から、たった一人の味方になってくれた。
――あれ、と思う。あの日、とはいつのことだろうか。どちらが先だっただろうか。狂ったのは何のせいだったか。何もかもが分からない。見つからない。頭の中の箱は、いつの間にか開いている。ところが、何か分からないものがまだある。取り出すこともできず、霧のようにふわりと消えてしまう。いつ、なぜ、誰に、何を。
――青い星。きらきらと輝いている。銀糸で織られたカーテンの奥で、ちかちかと瞬いている。青い。赤くない。赤ではない。真っ青な星。
突然、体中の力が抜けた。
「フィオ!」
がくんっ、とフィオールの膝は曲がった。触れていた反動でバランスを崩したルイルに重なるようにして、床にへたり込む。親友の肩に頭を預け、呼吸をするので精一杯だった。目の前に何があるのかさえ認識できない。ぼんやりとした視界に、涙か、と遅れて気づく。全速力で走った直後のように体が重い。
――死にたい。特別な動機は無いのに、漠然と死を望む。眠りたい。そして、目覚めたくない。生きるという行為そのものが苦しく、恐ろしい。されど、まぶたを閉じると先程の状況がありありと思い浮かんでしまうから、目を開け続けるしかない。
う、と嗚咽が漏れた。ルイルをかき抱き、体の震えを抑えようと試みる。はっ、はっ、と酸素を取り込めているか怪しい息遣い。胸がずきずきと痛む。涙が止まらない。
フィオールを心配する両親の声と、両親からフィオールを守るルイルの声。フィオール、触らないで、いい加減にして、どっか行って。うるさい。うるさい。うるさい。どちらの言葉も受け入れるべきなのに、耳鳴りが煩わしいせいで全てを拒絶したくなる。立ち上がろうとしても、足腰に力が入らない。俺のせいで、とフィオールの思考は悪循環をし始めた。自分が正常ではないせいで、ルイルと両親は喧嘩している。吐き気を覚えた。頭痛がひどい。気を失ってしまいそうだ。いつも間を取りなしてくれる存在は、今。
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