第26話 離別Ⅱ
程無くして、注文したドリンクとワッフルが運ばれた。湯気と熱気を立ち昇らせるそれらは、お世辞無しにおいしそうだ。朝食を済ませていたテオールは、カフェラテが入ったマグカップを持ち上げる。
ふと、レナリアが不安げにこちらを見ていることに気づいた。どうかした、と尋ねるも、ばつが悪そうに俯かれるだけ。二の句は継がずに、三分ほど待つ。すると、レナリアの口が小さく開いた。
「何で今日、来たの?」
初めて外出した日と同じ、どこか苛立った様子で投げられた疑問。
「え……約束してたから」
「破れば良かったじゃん」
「破らないよ。ジオスさんと出かけたかったし、嫌だとしてもちゃんと断るよ」
フィオールからは、あの夕方以来何も言われていない。ルイルの態度が変わっていない辺り、告げ口はしていないのだろう。したがって、今日もここに来るのを咎められることはなかった。
不義を働いているのだろう、とは思う。フィオールがレナリアに対し特別な何かを抱いているのも、ルイルがレナリアを毛嫌いしているのも重々承知だ。レナリアもルイルを敵視しており、ましてやテオールとの交流はルイルへの嫌がらせだということも理解している。だが、優柔不断なテオールはどちらかを捨てることができない。否、我が身かわいさゆえに、どちらかだけを取ることができない。
テオールは、己の価値をフィオールとルイルに見出している。しかし、その二人だけが己の価値であることが怖い。二人の他に、己の価値を定義してくれる存在が欲しい。
そして、それはレナリアに当てはまった。レナリアを現実に引き戻す役目を担うことで、己の価値を定められると感じてしまった。打算的だ。尤も、レナリアとの関わりは最初からそうだったが。最初はフィオールとルイルのためで、今はテオールも含めた三人のためになったというだけ。
テオールの応答に、レナリアはやや瞠目した。すぐに視線を下に落とし、何度か息を吸う。
「今日で、最後にする」
――テオールの脳裏は、一瞬真っ白になった。
「……な、にが?」
「こうやって、会うの。ヴィンストン先輩への意地悪も、やめる。もうランロッド君たちとは関わらない」
「な、何で?ルイとフィオはともかく、俺はいいよ。クラスだって同じだし……」
「――でもっ」
ぱっと上がった、レナリアの顔。初めて見る、辛そうな表情。思えば、レナリアのそれを見たことは一度としてなかった。思考の渦に捕らわれたときも、レナリアは無表情でぶつぶつと呪いを繰り返すのみで、叫んだり泣いたりはしない。すなわち、ある意味でレナリアの素が垣間見えた瞬間だと言える。
陽光が反射した瞳を、きれい、とテオールは場違いに思った。ルイルのそれは世界中に肯定させたいきらめきである一方、レナリアのそれはテオールだけが手の中で慈しみたい美しさ。誰にも見せたくない。誰にも渡したくない。そのぞっとするほど黒い輝きを、一生鑑賞していたい。
ところが、この感情はレナリアの一言で途切れる。
「本当に、本当に死んじゃったら……私、本当に人殺しになっちゃう……」
「……!」
稚拙な願いで、切実な恐怖。あくまで己のための、保身のための言い分。
されど、たどたどしい言葉で表されたそれは、確かにレナリアの変化だろう。相手を引きずり下ろそうとしていた頃とは違う、理性ある人間の倫理。
ある日、実の家族が殺された。その後、周囲の人々も殺されていった。度重なる不幸に押し潰され、他人を逆恨みすることでしか「正常」を保てない少女は、いつの間にか「常識」を育んでいた。自棄を起こすのではなく、正当な自己防衛を身に着けた。他者を守ることが自己を守ることに繋がると、暴力のために関わった少年を通して学んだ。それのどれほど奇跡的で、どれほど残酷なことか。
テオールは、目を伏せた。レナリアの中にも優しさが残っていると、今更になって知ってしまった。悪意だけで生きていられたなら、もっと楽だっただろう。過去に絶望し、当たり散らすだけで良かった。自己中心的に、自身を救うためだけに生きられた。しかし、一匙でも優しさがあるのならそれは不可能だ。頭の片隅では他人への心配が燻り、目を閉じると己の正当性を疑わずにいられない。過去にも現在にも首を絞められ、窒息する。だが、それでも、とテオールは欲張ってしまうのだ。
「仮に……俺が襲われたとして、それは絶対にジオスさんのせいじゃないよ」
「違う。私のせい。私が殺す。みんな、私が殺しちゃった……」
「違うよ、本当に違う。聞いて」
テーブルの上に放置されていた小さな両手を、大きなそれで包み込んだ。すっぽりと覆えてしまうことに、涙がにじみそうになる。レナリアは弱い。悲しい。かわいそうだ。何様だとなじられても、余計なお世話だと怒鳴られても、そう思うことをやめられない。同情などという安っぽい感情ではなく、真剣に、悲しいと、かわいそうだと。もやが掛かり始めた双眸をしかと見詰め、声を発する。
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