第24話 亀裂Ⅲ
ボツボツ、と雨粒が跳ねる音の下、フィオールは立ち止まった。テオールと至近距離で向かい合い、見慣れた双眸を改めて見詰める。猫のような輪郭にかたどられた、温かい橙色。
フィオ、と繰り返し尋ねる声は、どう聞いてもフィオールを一番に心配しているそれだ。だからこそ、フィオールは辛くなる。なぜフィオールとルイルを騙しているのかと、泣きながら非難してしまいそうになる。しかし、そうしてもテオールを必要以上に傷つけるのは目に見えている。フィオールは、テオールを守りたいだけだ。荒ぶる感情をどうにか抑え、口を開く。
「――……お父さんから、テオがジオスの事件について調べてるって聞いた」
「……!」
テオールは目を見開いた。まさか漏洩するとは予想していなかったかのような表情だ。もしかしたら、ジャスティーには口止めをしていたのかもしれない。
「……単純に気になっただけだよ、ジオスさんの言葉があったから」
「……週末は?今週も出かけるって言ってたよな?」
「レポートの準備にね。学校の図書館より、街の図書館のほうが大きいから……」
「――ジオスと会うんじゃないのか?」
「……」
問いに対する返答は無い。だが、代わりの沈黙が何よりも答えだ。テオールなら、もっと上手に誤魔化せたのではないかとも感じる。テオール自身、嘘を重ねることに耐えられなかったのだろうか。
追い打ちを掛けるがごとく、フィオールの口は矢継ぎ早にセリフを紡ぐ。傷つけたくないという願望とは裏腹に、涙で視界がにじみ頭が痛くなってくる。
「さっき、ジオスと話してたよな?何でジオスと仲良くしてるんだ?」
「それは……ちゃんと、理由があって……」
「その理由は?」
「……」
テオールは俯いた。言えないということだろう。兄の視線から逃れるかのように、傘が前方に傾く。その瞬間、フィオールはかっとなったあまりにその下へ割り込んだ。バサッ、とフィオールの傘が地面に落下する。降り注ぐ雨は冷たかった。
そういえば、こうしてテオールとたった一つの傘を共有したのはいつぶりだろうか。ルイルがランロッド家に来るよりも前は、エレメンタリースクールからの帰り道にこうしていただろうか。尤も、スクールバスと軒下の間のわずかな道のりだったが。
ルイルが家族に仲間入りしてからは、フィオールの傘にルイルが入ったり、テオールのそれにルイルが入ったりしていた。フィオールとテオールの肩が触れ合うことは、その頃からなくなってしまっていた。ルイルがいなければ、と思うわけはない。されど、やめずに弟の傘に入っていれば、もっと色々な感情を通じ合わせることができたのだろうか。
テオールにしがみつきながら、フィオールは請う。
「やめてくれ、お願いだから。あいつには関わるな」
いつの間にか、周囲から人影は無くなっていた。段々と激しくなっていく雨音は、二人きりの沈黙を際立たせる。これが兄弟の離別のシーンだとは、どうしても思いたくない。
何で、とテオールは発した。前髪の奥で、果たしてどのような表情をしているのだろうか。
「何で、関わったら駄目なの?」
「それは、ルイが……」
「ルイがそう言ったから?じゃあ、ルイが俺のことをいらないって言ったら、フィオは俺から離れるの?」
「は……?何、言って……。そんなわけないだろ」
「本当に?本当に、俺から離れないでいてくれるの?」
テオールが何を言いたいのか、フィオールは全く察せられない。乱雑な雨音の中、テオールが口にするのはアドリブだ。フィオールとルイルのシナリオには存在しない、テオールの中にしか無い感情。
作品を完成させるには、登場人物が同じ最後を目指さなくてはならない。誰か一人でも違う場所を望んだら、秩序は崩壊してしまう。喜劇は悲劇に、ハッピーエンドはバッドエンドに作り替えられる。
現在進行形で、フィオールとテオールとルイルの物語はその形状を失っていっている。三人で作り上げた脚本は、テオールの裏切りによってびりびりと裂かれ始めている。否、本当にそうだろうか。本当に、裏切りを犯したのはテオールだろうか。最初から、フィオールとルイルがテオールを裏切っていたのではないのか。テオールが求める未来を、フィオールとルイルがエゴで塗り潰したのではないのか。一体、いつから。
フィオールが何も言えないでいると、テオールは徐に顔を上げた。ふわふわと揺れる前髪の奥で、涙に濡れた瞳を痛々しく緩めている。ごめんね、と場を仕切り直すように発された声は、切なげだ。
「ちょっと、疲れてるみたい。俺はフィオとルイが大切で、大好きだよ。それは、本当」
「……そんなの……」
「戻ろうよ、雨が降ってると余計寒いから」
傘を押しつけられたフィオールがつい受け取ってしまうと、テオールは落ちていたもう一本の傘を拾い上げた。中に雨入っちゃってる、と何でもない風に呟き、丁寧に畳んだ。そして、フィオールから傘を取り戻し、行こうか、と笑う。
久々に、たった二人でたどる帰路。思い返すのは、幼い頃の日々だ。どこへ行くときも、テオールはフィオールが側にいるのを許してくれた。ミランに苦言を呈されても、ジャスティーに呆れられても、テオールはいつもフィオールを優先してくれた。幸せそうな顔で、フィオールの名前を呼んでくれた。
だが、もしそれが完璧な真実ではなかったのだと言われたら。フィオールがそう仕向けた虚像でしかなく、テオールにとっては悪夢だったのだと言われたら。テオールが望む安寧を、フィオールはいつから狂わせてしまっていたのだろうか。
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