第22話 亀裂Ⅰ

 一月。雪が降らずとも、吐息は白くたゆたう。寮に戻るや否や、フィオールは体の緊張が解けた心地がした。また、ルイルも平常の態度になった。冬休みが記録されたフィルムを破損したのか、そもそもフィルムを現像すること自体叶わなかったのか、その様子に愁いは無い。

 強いて言えば、夏よりも甘えたがりになっただろうか。フィオ、と呼んでは抱き着き、にこにこと笑って頬をすり寄せる時間が増えた。毎年、毎年、ルイルは一定の周期で狂乱を繰り返す。くるくると回る滑車は止まらず、装填されているフィルムは始点と終点をループする。


 今日の授業は終わり、フィオールとルイルは寮に戻ることにした。テオールはもう一時間あるので、終わる頃に寮の玄関で出迎えるつもりだ。理想としてはテオールを待って一緒に校舎を出たいが、人混みからプライベートスペースに移動したい感情のほうが勝る。いっそ、邪魔が入らないから実家よりも望ましい環境と言えるかもしれない。


 校舎を出る前に、フィオールはトイレを済ませることにした。ポケットに除菌スプレーやハンカチなどが入っていることを確認し、ルイルから一歩離れる。


「トイレ、行ってくる」

「一緒に行く」

「いや、いいよ。先に戻って……」

「待ってる」


 ぶす、とルイルは頬を膨らませたが、無理に付いてくる気は無いらしい、フィオールからリュックを取り上げた。他人の気持ちに疎いとは言え、人並みの気遣いはできる。尤も、それがフィオールとテオール以外に適応されるかと言ったらそういうわけでもないが。フィオールはその仕草に苦笑しつつ、ひらひらと手を振って角を曲がった。


 十数歩進んだところでトイレのドアを開け、消毒を伴って事を終わらせる。手は持ち寄ったハンドソープで洗い、ハンカチで拭いた後消毒液を揉み込む。たかがトイレだろうと一仕事なので、フィオールのポケットはいつもぱんぱんだ。


 廊下に戻り、何気無く窓の向こう側に目をやった。雑草だらけの中庭を挟み、渡り廊下で繋がった別棟の廊下を覗くことができる。そこには、病的な雰囲気をまとう少女がいた。人工的な髪色だけをくっきりと浮かび上がらせ、亡霊のように佇んでいる。

 見かける度、フィオールはその姿が恐ろしくて堪らない。レナリアに何かをされた覚えはないのに、罪悪感混じりの畏怖を抱いている。フィオールがレナリアを敵視しているわけではない。むしろその逆で、フィオールにはレナリアに許されざる罪を犯したかのような錯覚があるという話だ。レナリアがルイルに向ける逆恨みとは異なり、フィオールに対しては正当性に裏づけされた憎しみがあるのではと考えてしまう。


 不意に、レナリアは立ち止まった。誰かに呼び止められたのか、ゆっくりと背後を振り向く。――現れた存在を認め、フィオールは無意識に口を動かした。


「テオ……?」


 テオールは微笑んでいた。フィオールとルイルに見せるのと同じ、慈愛に満ちた眼差しでレナリアを見下ろしていた。その手を伸ばしたかと思えば、毒々しい髪をさらさらと梳き始める。くい、とレナリアの手はその腕を押しのけた。しかしその仕草に嫌悪感は見られず、それどころか人見知りをしている子供のようなそれで、テオールにも気分を害した様子は無い。

 テオールは、肩に掛けたメッセンジャーバッグから小さな何かを取り出した。フィオールの目には映らないが、大方、お菓子の類いだろう。テオールはフィオールのためにあれやこれやを持ち歩いてくれている。お菓子はそのうちの一つで、フィオールの食欲が無いときや、ルイルが荒んでいるときに必ず出してくれるものだ。今、それはレナリアに手向けられている。

 そういえば、とフィオールは肝心なことを思い出した。冬休みにジャスティーは言っていた、テオールがレナリアの身の回りについて調べていると。その動機は、一体どのようなものだろうか。テオールは、とても危険な状況にその身を放り投げているのではないか。


 ――突如、フィオールの隣に人が立った。


「心配か?」

「……!」


 気づかなかった。否、気づけなかった。テオールとレナリアに気を取られ、近づく影が分からなかった。それを知ってか知らずか、カーゴは笑う。己の正義が万人にとって正しいと信じきっている、屈託の無い笑み。気色の悪さを感じたフィオールは、多少不自然だろうと構わず視線を戻した。いつの間にか、テオールとレナリアはいなくなっている。次のクラスルームに移動したのだろう。


「……そういうのじゃありません。ただ、珍しいと思っただけです」


 嘘は言っていない。テオールがルイルのお願いを無視してまで行動を起こしたことなど、これまで一度も無かった。テオールはいつもフィオールとルイルを優先し、自分のことさえも二の次に回していた。もちろん、それがあるべき姿だと言うわけではない。テオールが自分の欲求を満たすのは、当然の権利だ。

 されど、レナリアのことは別だと訴えたい。ルイルは泣きそうな顔でレナリアとの接触を禁じた。ならば、テオールはその約束だけは守らなくてはいけないのではないか。よりによってテオールが望んだのがレナリアなどと、どうして納得することができるだろうか。


 そうか、とカーゴは相槌を打った。聞いた割にあっさりとした反応だ。フィオールが横目で窺ったとき、栗色の双眸は窓の向こう側をじっと見詰めていた。熱も冷たさも持たないそれに、フィオールは居心地の悪さを覚えてしまう。


「……次のクラスがあるので、失礼します」

「あぁ、そうだな。ジオスと仲良くするよう、テオールに伝えておいてくれ」

「……」


 フィオールはぺこりと頭を下げ、軽く駆け出した。ルイルの迎えが来てしまうより前に、一刻でも早くカーゴの視界から逃れられるように、足音が響きすぎない程度に廊下を駆ける。

 あれ、とフィオールは思考の片隅で引っかかりを覚えた。カーゴはテオールを受け持っていないはずだが、その名前を把握していた。つまり、個人的に情報を調べたということだろう。善意もここまで来ると気持ち悪いな、とフィオールは礼儀知らずなことを思った。ルイルへの心配は無用だし、テオールにも関わらないでもらいたい。レナリアより余程危険人物ではなかろうか、悪意が無いから余計に。

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