第20話 ランロッド一家Ⅱ

 ――雨が降り始めた。


「フィオ、大丈夫?」


 車は、風を切りながら走る。運転席にジャスティー、助手席にミラン。後部座席に、ルイルを挟んだフィオールとテオール。

 家から教会までを移動している間、カラフルな家々や寂しい並木が車窓に切り取られていく。停止できない映像は気を抜けばネガフィルムに戻り、カシャ、カシャ、と現実を加工する。


 フィオールは、ミランなら平気なのに、ジャスティーと車に乗るのは苦手だ。顔見知り程度の付き合いしかしていないせいか、逃げないよう閉じ込められた状況を錯覚してしまう。頭の中をぐるぐると回るのは、いつも決まった文字列。逃げたい。死にたくない。殺されたくない。テオールとルイルが同乗しているから安心を得られるのに、テオールとルイルを逃がしたい。知らずのうちに呼吸が浅くなり、ドアロックに手を掛けていないとそれすら危うくなる。

 もしテオールとルイルがいなかったら、フィオールは走行中でも構わず道路に転げ出るかもしれない。そうしたら両親がフィオールを追いかけて、だからフィオールは逃げて、けれどボーイスカウトでのときのように捕まって、人目を気にせずフィオールは泣き叫んで、暴れて、それでも拘束されて。その後は、果たしてどうなってしまうのか。


「ルイ、フィオを呼んで」

「フィオ、フィオ」


 ルイルの実の家族のように、殺されてしまうのだろうか。


「――フィオ……!」

「!」


 はっとした。白みかけていた視界に色が戻り、フィルターに妨げられていた音も明瞭に戻る。キィン、という一時的な耳鳴りに目を瞬いた。

 隣を見れば、泣きそうなルイルと心配げなテオールがいた。改めて窓の外を確認すると、どうやら目的地まであとわずかな地点のようだ。真っ赤に染まっているはずがない車内に、少しだけ緊張がほぐれる。大丈夫、とフィオールは半ば独り言として発した。怖がることは何も無い。今このときに一番辛い思いをしているのは、ルイルであるべきだ。フィオール自身は、問題無い。


 教会には、フィオールたちの他に数人いた。しかし誰一人喋っていないので、雨音だけが反響している。

 フィオールは両親から少し離れたベンチに腰かけ、隣のルイルに体を寄せる。車を降りた際に濡れてしまったせいで、寒い。体温を分け合いながら、正面の十字架をじっと見詰める。祈るでも聖書を読むでもなく、テオールも合わせた三人で座っているだけ。ルイルは、不透明な両目を宙に差し向けている。泣くことも怒ることもせず、ただし繋いだ手は放さず、無情に進む時間を見送っている。

 この間にルイルが何を考えているか、フィオールもテオールも聞いたことはない。もしかしたら早く帰りたいと思っているかもしれないし、死んだ実の家族のことを思い出しているかもしれない。あるいは、本当は頭の中は真っ白で、覗けたところで何も見当たらないかもしれない。もちろん、それがどうであろうとランロッド兄弟の誓いは破られないが。一生、死ぬまで、ルイルの側にいる。


 十五分ほど経った頃だろうか、ルイルは身じろいだ。


「帰るか?」

「うん」


 毎年同じやり取りをして、両親に帰宅を促す。ランロッド家は敬虔な信徒ではないから、祈りの時間にとやかく言う人もいない。世間話をする夫妻の後ろを、フィオールとテオールとルイルは無言で歩く。三人の後ろから、ルイルを壊すクリスマスイブがひたひたと忍び寄っている。ルイルを標的として、悪夢が刻一刻とその手を伸ばしている。


 ヴィンストン一家殺害事件の犯人は、未だ捕まっていない。ルイルの両親と兄を惨殺した人物は、今もこの世界のどこかにいる。

 フィオールもテオールも、捕らえて罪を償わせたいとは言わない。その代わりに死んだ証拠が欲しい、ルイルの幸福を脅かす存在はもういないのだと、ルイルの唯一が奪われることはもうないのだと。恐れを抱いたまま、見て見ぬ振りをしながら生きていくのは、三人で分け合っても疲れてしまう。ルイルは何も悪くない。サンタクロースに会いたいという我儘の代償に、家族の死亡は不相応だ。ありきたりな平和で構わないから、どうかルイルにも恵んでほしい。


 家に着いた後は何事も無く、夕食を囲んでシャワーを済ませた。フィオールは、テオールと代わる代わるルイルの側にいた。ついでに、部屋の掃除などやりたいことがあれば取りかかっておく。十二月が消費されるほど、ルイルはフィオールとテオールが動くのを良しとしない。

 こんなもんか、とフィオールが廊下で一息吐いたとき、リビングから両親の話し声がした。


「明日からまた仕事なんでしょ?」

「うん。ルイルのことも頼むよ」

「分かってる。でも、本当にこのままでいいの?もう十六歳になったのに……。それに、フィオールだって。親にすら触れなくて、大丈夫なの?」

「十六歳って言っても、ルイルはフィオールと変わらないだろう。フィオールが十六歳になってから考えればいいよ」


 七歳から十歳まで、ルイルの時間は止まっていた。家族の死体を目の当たりにしてから、ランロッド兄弟の支えで自我を再構築するまでの時間だ。現在フィオールと同学年にいるのは、留年と飛び級でルイルが上手く調節したがゆえ。つまり、精神面は二つ年下のフィオールと同等だと言える。否、その本質は十四歳よりずっと幼いだろう。退行と言うべきか、一度崩壊したエゴは事件当時のそれとして組み直された。しかも、そこから成長していない。親の顔をすり込まれた雛鳥のように、いつまでもいつまでもランロッド兄弟に付いていく。巣立ちなど、ルイルにとっては押しつけられた理想でしかない。

 そして、それはフィオールも同じだ。


「そろそろ寝るよ。明日、早いんだ。おやすみ」


 ――廊下に出てきたジャスティーと、目が合った。


「……」

「……」


 ジャスティーは、ふっとリビングを振り向いた。フィオールが立ち聞きしていたことに気づいているのだろう、今度は息子を見下ろし、洗面所へと手招く。夫妻の寝室に招かなかったのは、フィオールを慮ってのことだろうか。フィオールは、とりあえず従った。嫌な気持ちは沸き起こるが、逆らう度胸を削がれもしていた。


「まぁ、お母さんの言うことはあんまり気にするな。二人共、学校では上手くやってるんだろう?」

「……俺、お父さんとお母さんが嫌いなわけじゃないんだよ。けど、何て言うか、本当に申し訳無いと思ってるんだけど……」

「分かってる。もう無理矢理キャンプに行かせようとは思ってないよ」


 はは、とジャスティーは茶化した。どうやら、フィオールが必死に逃げ回ったことで懲り懲りしたようだ。以来フィオールが暴れたことはないのもあり、テオールとルイルを側に置いておけば何ら問題無いという考えに至ったのだろう。

 ジャスティーは子供に寛容だ。そもそもミランが過度に気を揉んでいる面も否めないが、フィオールたちの歪な関係性に口を挟まない。テオールは分かりにくいからだとしても、フィオールとルイルに関しても黙認している。尤も、家にほぼいないから実態を理解していないのかもしれないが。

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