第15話 呪縛Ⅲ

 ――一瞬、黒が橙を見た。


「テオだよ。レナリア。テオって呼んで」

「……テ、オ……」

「うん、テオだよ。今日からよろしくね、レナリア」

「……」


 ――呪詛は、ぴたりと止んだ。ゆるゆると、下がっては上がるまぶた。

 テオ、とレナリアはもう一度呼んだ。うん、とテオールは応えた。レナリアはテオールの手を振り払いもせず、静かに呼吸を繰り返す。

 やっと現実に帰ってきたその様子に、テオールは安心のあまり薄く笑った。レナリアの眼球は、右へ、左へと動く。しかし、そこに先程までの不確かさは無い。単純に、自分が今どこにいるのか確かめているようだ。やがて、それもぴたりと止まった。テオールの目を真っ直ぐに見詰め返し、息を吸う。


「……死んじゃえばいいのに。ヴィンストン先輩も、大事なものは壊されちゃえばいいのに」

「……犯人が同じだと思ってる?」


 それは、二つの意味を含んだ問いだった。ヴィンストン一家殺害事件とスタンメリー一家殺害事件の犯人についてと、スタンメリー一家殺害事件とその後に起きた三件の殺害事件の犯人について。それを察したうえでなのか、知らない、とレナリアは吐き捨てる。


「どっちでもいい。死んじゃってから知るより、知ってから死んだほうがましでしょ?バイバイ、ってあらかじめ言っておくの。バイバイ、バイバイ……」

「レナリア。俺の目、ちゃんと見て」

「……見てる」

「逸らさないで」

「……」


 渋々といった様子ではあるものの、レナリアは従った。その大きな瞳に、テオールの顔が歪んで映っている。この国では比較的に珍しい、純粋な黒。

 突如、甘い香りがテオールの胸に満ちた。蠱惑的な闇に、己だけがいる。ルイルのそれを覗き込んだときとは異なる、どこか薄汚れた充足感。そういえば、フィオールはレナリアを見て何かを感じていた。兄も、この虹彩に魅入られたのだろうか。もし本当にそうなら、意外だ。フィオールは、ルイルの青を何よりも特別視していたはずだが。

 ――そう思い、テオールは一瞬だけ目を瞑った。それを考えるのは今ではない。つい先程から、レナリアは何よりも重大な事実を証言している。言わずもがな、レナリアの妄想でなければという前提条件は付くが。


 スタンメリー一家殺害事件から十二年の間に、生存者の関係者が三人も殺害された。あたかもレナリアを追い回すかのごとく、間隔は分からないが事件が積み重なっている、これを偶然と言うのは無理があるだろう。きっと、惨劇の日にレナリアが生き残ったのも。そして、もしかしたらルイルも。

 これらは次の二つに帰結する。一つ、犯人はレナリアに執着している。二つ、ルイルもまだ魔の手から逃れられてはいない。全ては今も犯人の手の平の上であり、これまで信じてきた平穏はある日容易く崩れ去る。


 不意に、レナリアは俯いた。テオールの額はあっけなく離されてしまう。両手も振り払われた。前髪の奥にあるレナリアの目には、ぐちゃぐちゃとした憎悪があった。


「私、これからはランロッド君に付きまとうから。無理矢理でも仲良くなって、殺してやる……」


 しかし、その声は終わりに近づくほど震えた。落ち着いて考えれば、それは八つ当たりでしかない。レナリアがルイルのものを壊そうが、復讐にすらならない。やり場のない悲壮と恐怖、それらを一旦投げつけるだけだ。そして、すぐさま戻ってくるだろう。仮にテオールが殺されたところで、いっそうレナリアを苦しめる結果へと繋がってしまうのは目に見えている。

 尤も、そう分かっていようとやめられはしないのだろうが。感情は衝動的だ。瞬間的に膨らみ、爆発する。凪いだかと思えば、再び徐々に膨らんでいく。終わらない繰り返しだ。


 テオールは、己の両手を握り締めた。根づいた種子は、どこまでも独善的な欲望。――もし、己がレナリアの心に住み着いたなら。


「……ルイとフィオに、何もしないでいてくれるならいいよ」

「何もしない、ってどこまで?話しかけるのも駄目なの?」

「そうじゃなくて、暴力とか、ルイの過去を言い触らすとか。……周りの人が亡くなったっていうのも、言わないでほしい」


 テオールの言葉に、レナリアは少し考え込む様子を見せる。次いで、いいよ、約束してあげる、と不敵に笑った。良かった、とテオールは安堵する。とりあえず、フィオールとルイルに余計な不安は抱かせずに済むはずだ。命の危険があろうとルイルから離れるフィオールではないが、その反面暴力沙汰や殺害事件への耐性が皆無だ、フィオールも知らないままのほうがいいだろう。それで問題が起きそうでも、テオールがフォローに回れば済む。


 不意に、レナリアは元いたテーブルを見た。そこには鮮やかな水溜まりが広がっている。その目は自身の両手にも向き、水溜まりに戻っていった。やっちゃった、と動く小さな口。要するに、数分前の己の状態を覚えていないのだろう。ルイルと同じだ。トランス状態とでも言うべきか、深層心理に体を乗っ取られている間のことを、本人は記憶に残していない。


 あは、とレナリアは笑う。それはとても恐ろしく、とても悲しい笑顔だ。取り残される孤独、排斥される孤独、理解者がいない孤独。どれも、テオールには無いものだ。レナリア、とテオールは呼びかけ、何も伝えずに口をつぐんだ。

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