第14話 呪縛Ⅱ

 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。ジオスさん、と絞り出した声は、幸いにも震えていなかった。錯乱した相手に筋道立った会話を期待しても仕方無い、テオールは一段飛ばしの追及を試みる。


「その三人を直接殺したのは、誰?」

「知らない。私がいるからみんな死んだ」

「犯人は捕まったの?」

「お前が殺したんだろう。どうやったか教えてほしい。知らない人。私じゃない。誰?知らない。私、何も知らない……!」

「ジオスさん……!」


 ブシュ、とオレンジジュースがストローから飛び出した。ぐしゃぐしゃに、べこべこに握り潰されていく紙パック。ボタボタと橙色の液体が垂れ、青白い肌を染めていく。テオールは、ハンカチと一緒に両手で包んだ。グレーに変わったカーキ色で、取り急ぎ用無しのジュースを回収した。

 立って、とレナリアを引き上げるように立ち上がらせ、隣のテーブルへ移動させる。テーブルは後で拭きます、と内心で謝りながら、テオールはレナリアのすぐ右に座った。ホワイトのメッセンジャーバッグからふわふわのタオルを取り出し、レナリアの両手を優しく拭う。フィオールのために持ち歩いていて良かった。


 その間もレナリアは、殺した、死んじゃった、私のせい、とうわごとを繰り返している。目の前のテオールではなく、その前後左右にいる何かを見ている。急激な変化に、テオールは当惑した。レナリアをおとしめたかったわけではない。ただ、ルイルに向ける悪意のゆえんを教えてほしかった。ところが、レナリアはそもそもぎりぎりに立っていたのだろう、装っていた「普通」はあっけなく崩れてしまった。


 こういうとき、どうするべきか。ルイルがこうなったとき、自分はどうしていたか。歯車を組み直し、記憶をたどる。この少女の名前は。


「……レナリア。レナリアじゃないんでしょ?大丈夫、レナリアは誰のことも殺してない」

「死んじゃった。私が殺した。覚えてない。何で?全部知らない」

「レナリアは何もしてないんだから、覚えてるわけがないんだよ」

「お姉ちゃん。おばあちゃん。先生。シャンリー。足りない。あと二人。お父さんとお母さん。いつも忘れる、私が殺したのに」

「レナリアじゃないよ」

「私、私、私が殺した。みんな、六人、五人?七人?次は誰?」


 正気に戻らない。ルイルなら何度か話しかければ反応があるのに、レナリアは未だ混沌の中だ。これまで生きてきて、レナリアを呼び戻す存在はどうしていたのだろうか。まさか、誰一人として存在しなかったのだろうか。それとも、出会った側から失っていってしまったのだろうか。

 自責の念は、歌うように紡ぎ続かれる。音を手に入れた映画のように、機械仕掛けで垂れ流される。テオールの声は、独り言として空気に溶けていく。どうすればいい、口を動かす傍ら、テオールは解決の糸口を夢中で探す。レナリアに壊れてほしくない。とっくの昔からこうなってしまっているとしても、これ以上は転落してほしくない。


 聞いて、とテオールは囁いた。レナリアの額に己のそれを当て、至近距離で瞳を覗き込む。黒々と濁ったそれは、レナリアを覆う闇を想像させた。

 ルイルは、似て非なる闇をランロッド兄弟によって追い払った。人生の多くの瞬間を、幸せなものとして過ごすことができている。では、レナリアはどうだろうか。心を支える存在を奪われ続けた少女は、どれほどの苦痛と共に生きているのだろうか。


 先生、助けて、とレナリアの声は震えている。おばあちゃんが死んじゃった、これからどうすればいいの。シャンリー、一緒にいたら死んじゃう、とレナリアの声は苦しんでいる。おばあちゃんも先生も死んじゃった、何で、お姉ちゃん、ごめんなさい、とレナリアの声は呼んでいる。みんな、みんな、死んじゃった。後悔と懺悔を訴えているのに、濡れてさえいない眼球が不気味だ。涙はとっくにかれ果ててしまったのだろうか。


「レナリア。俺のこと、見えてる……?」

「先生」

「違うよ……」

「お姉ちゃん」

「テオールだよ。テオって呼んで。一週間前、初めて会ったんだよ。レナリア、俺の名前、呼んで」

「な、名前……私、私はシャンリー。レ、レナって呼んでもいい?」

「レナリア……。テオだよ。俺を呼んで、お願いだから……」


 やめてよ、とテオールは心中で切望した。テオールかレナリアか、正しい現実はどちらか分からなくなる。通じないやり取りに気が狂いそうだ。レナリアは妄想の世界にいるままで、テオールは触れられさえしない。それでも、あと少し。あともう少しのはずだ。微妙にずれているとは言え、レナリアの言葉はテオールのそれに対応するようになった。レナリアの精神は現実に近づいている。


 包めてしまえるほどの両手から手を離し、テオールはレナリアの両頬に触れた。ひんやりとした肌は柔らかいが、薄い。まともな食生活を送っていないのかもしれない。よく見てみると、髪も長さがばらばらだ。もしや、自分でいい加減に切ってしまっているのだろうか。レナリアは辛うじて生き延びているだけだ、それを思い知り、テオールは。


「レナリア、大丈夫だから」


 無責任かもしれない。自己満足かもしれない。だが、突き放せない、無視できない。一歩、また一歩、テオールはレナリアの深部へと入り込んでいく。ルイルを捨てたわけではない。ルイルの代わりにするつもりもない。一番はルイルとフィオールだ。ただ、ここでレナリアを放っておけはしないというだけ。そもそもテオールが話しかけたのは、レナリアの思惑を知りルイルを守るためだ。話を打ち切っては、その目的が果たせない。そう、だから、この行為にやましさは無い。

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