第13話 呪縛Ⅰ

 二人の分も頑張って、その言葉はテオールにとって呪縛となった。ミランが度々口にする、普通でいてほしいという切実な期待。


 テオールが物心付いたとき、兄であるフィオールはすでに異常だった。両親の温もりを拒み、テオールだけに甘えと愛情を注ぐ人だった。一方、ルイルは出会う前から異常だった。惨殺現場を目にしたせいで、精神の枠組みが壊れた可哀想な人だった。


 テオ、テオ、と二人から常に求められるうち、テオールがその状況に幸福と満足を覚えてしまうのは自明の理だっただろう。そして、母親であるミランが子供たちの関係性に恐れを抱くことも。

 矯正が利かない長男と養子を諦めると同時に、ミランはテオールに望んだ。兄と親友の代わりに普通であるよう、他の二人に備わっているはずの正常さを肩代わりするようテオールに強いた。もちろん、ミランにその自覚は無いだろう。次男に求めたのが他人への理想だという事実を、ミランは決して認めないだろう。


 しかし、テオールにとってはそれがどうしようもなく辛かった。フィオールのスペア以外に、ルイルの補完以外に、テオールの生きる道が欲しかった。代役は、本来の役者が復帰した途端に捨てられる。そうではなく、正真正銘、テオールだけの役柄が欲しかった。


 進級式から、ちょうど一週間後。テオールがクラスルームに入ると、レナリアは椅子に座ってぼうっとしていた。窓の外を眺めているように感じるが、窓ガラスそのものを見詰めているようにも思えるほど焦点が揺れている。一切の光を無くした黒い双眸で、現実と隔絶された世界を見ている。テオールは逡巡した後、レナリアの右隣に座った。窓ガラスに反射したことで、レナリアが振り向く。ぱちぱちと瞬いたその瞳に、光が宿った。


「……あれ、ランロッド君」

「……ルイのこと、なんだけど。……関わらないでほしい、代わりに、俺が君の希望を聞くから」


 己の臆病を知っているテオールは、一息に言いきった。レナリアの目に吸い込まれそうになりながらも、懸命に意志を保つ。


 フィオールとルイルを守るために、テオールは文字通り何でもする覚悟で生きている。テオールに与えられた役割は、フィオールとルイルの平穏を守ること。二人が幸せでいることは、イコールでテオールの幸せだ。

 先週、つまり初めて話した際のレナリアは、ルイルへの害意を隠していなかった。それをテオールは突き放したとは言え、本当に放っておいてルイルに実害を及ばせるつもりはさらさらない。それゆえ、テオールは自分なら巻き込んでもいいと前提を立てた。たとえ死ねと言われても、それでルイルたちが助かるなら構わない。元より、二人がいなくては無価値な身だ。


 レナリアは、やはり笑った。テオールの覚悟を値踏みするかのごとく、ほの暗い瞳孔を開いた。あは、と肩を震わせ、コン、コン、コン、と中指の爪をテーブルの上で跳ねさせる。フォークの扱い方といい、リズムを刻むのが癖らしい。


「いいよ。空きコマ、いつ?話そうよ」

「昼休みの後」

「じゃあ、カフェテリア集合で。ヴィンストン先輩がいなくなってから話しかけてあげる」

「ランロッドだよ」

「……」


 テオールは咄嗟に訂正したが、レナリアは無言を貫いた。


 昼休みの後、レナリアはその通りにした。フィオールとルイルが次のクラスのためにカフェテリアを出た直後、テオールの肩は二回叩かれた。振り向けば、楽しそうに笑ったレナリアがいる。こちらは座っているにも関わらず、その小さな頭はすぐ側だ。本当に小さいんだ、とテオールはこの場に似つかわしくないことを考えた。ルイルは精神年齢の割に体がそこそこ立派だが、レナリアは体の割に精神が静まり返っている。そして、荒波が立ったときが怖い。


 レナリアは、テオールの真正面にすとんと腰かけた。紙パックのオレンジジュースを飲みながら、そのストローをがじがじと噛んでいる。テオールは目を逸らし、己も残っていたグレープジュースを一口飲んだ。広がった酸味に、胸騒ぎが多少収まる。

 私、とレナリアが口火を切った。


「別に、ヴィンストン先輩をいじめようとか思ってない。知らないことを教えてあげるだけ」


 話し始めたレナリアは、意外と「普通」だ。思えばクラスでも奇行に走ってはいない、ルイルがいなければありきたりな女子生徒でいられるのかもしれない。

 テオールは、慎重に口を開いた。話が進まないので、ルイルを本名で呼んでいる点には触れない。


「それ、本当にルイと関係あるの?」

「関係なくてもいい。どうせ私より幸せなら、精々怖がって生きて」

「……その内容、今俺に教えてもらうことはできる?」


 昼休みが終わっても、一時間程度ならカフェテリアは開いている。どんどんとまばらになる人混みから少し離れたテーブルで、二人の交渉は始まった。どくどくと、テオールの心臓は大音量で鳴っている。その緊張は、この世の者ではない何かと対峙しているかのごとく。どうせ大したことではない、そう思い込めないのはなぜだろうか。レナリアの異常性に、怖じ気づいてしまっているのだろうか。比べるものではないが、一応幸せを享受できているルイルに対し、レナリアは何もかもをうがった価値観で諦観しているようだ。一体、どれだけの惨劇がその華奢な体に降り注いだのか。


「一回目は、隣のおばあちゃんでした。二回目は、エレメンタリースクールの先生でした。三回目は、ミドルスクールで仲良くなった女の子でした」

「……その人たちが、どうしたの?」

「――私が殺した」


 それは、明瞭な答え。あらゆる感情を根こそぎ奪い取られた表情と声で、少女は供述した。時が止まってしまったかのように、少女は指先さえ動かさない。ただその乾燥した唇だけを、私が、殺した、と震わせている。

 テオールは、意味を理解するのに時間を要した。一回目、隣人が死んだ。二回目、教師が死んだ。三回目、友人が死んだ。そして、レナリアが彼らを殺した。これらのことを、文字列としては整理できる。ところが、脳が処理を請け負わない。

 ガキンッ、と歯車が外れた音がした。思考の糸車はカラカラと空回り、糸とも言えぬ短い繊維が脳裏に積もっていく。


 違う、冷静になれ、とテオールは警告した。目の前に座る少女は、どう見ても人を三人も殺せる体つきをしていない。仮に言葉通りの殺人者だとしても、それをテオール、もといルイルに告白する訳が分からない。精々怖がって生きて、とレナリアは言った。レナリアを、という意味であったなら、何も始まっていないうちから自白はしないはず。レナリアが殺したという表現は、言葉の綾だ。

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