第10話 フィオールの悪夢
――昔々、あるところにかわいいかわいい女の子がいました。
ブツブツとノイズをまき散らしながら始まる、サイレント映画。薄暗い、コンクリートでできた舞台。主人公としてか傍観者としてか、フィオールはそこに一人で立っていた。何も見えないのに、ガレージだと思った。どこのガレージかは分からない。ただ漠然と、場所の分類を表す言葉だけが頭に浮かんだ。
やがて、情報量が増えていった。ゴムと油の臭い。宙を舞う土埃の感触。奥にはラックがあり、工具やテニスラケットなどが放置されている。そして、その中には大きな白い箱があった。見るからに頑丈で、温度を変えるボタンが付いている。表面はひんやりと冷たい。その箱は、異質なものとしてフィオールの目に映った。普段使いされているわけではないのか、予備のタイヤや段ボール箱の裏で息を潜めている。
積まれたごみをどかしていないにも関わらず、箱は突如としてテオールの足下に現れた。何の違和感も抱けないまま、気づけば手が伸びていく。
開けるな、と脳裏が言う。中に何が入っているか知らないはずなのに、開けてはいけないと知っている。それでも、手は止まらない。パチン、と爪を外し、パカ、と蓋を少しだけ持ち上げる。臭いがした。生臭い、鉄臭い、吐き気をあおる悪臭。どうやら箱の正体は小型の冷凍庫だったようで、漏れ出た冷気が指先を冷やす。いつの間にか背景は消え去り、ぽっかりとした真っ暗闇に包まれていた。ここはどこだろうか。知らない場所だ。何も見えない。箱だけが、白く淡く浮き出ている。開けた。箱を開けた。冷たい、赤い、箱を開けた。
「――フィオ!フィオ!」
――視界いっぱいに、青い星と銀の糸。
「……!」
ガサッ、とフィオールはごみ箱を掴んだ。ベッドから半身を乗り出した体勢で、ゴボッ、と吐瀉物を吐き出す。喉が抉れる。胃が裏返る。久方ぶりの嘔吐。げろげろと死にかけの蛙のように鳴き、涙諸共ごみの上に降らせる。夕食に食べた林檎の真っ赤な皮が出てきて、余計に駄目になった。皮をきれいにむいてから食べたはずなのに、むき残しがあったらしい。苦しい。臭い。気持ち悪い。う、う、と嗚咽とも呻き声とも付かない声が漏れる。まだ夜中だろうに、最悪な目覚めだ。
全部出していいよ、と背後からルイルの声がした。遅れて、背中を撫でる手の平に気づいた。ルイルの肌に気分が鎮まっていく。骨が浮き出るほど強くごみ箱を掴んだ両手から、力が抜けていく。
一通り吐き出した後、フィオールは共用の洗面所で口をゆすいだ。吐瀉物はルイルが片づけてくれている。何度も、何度も喉を洗う。これ以上はどうしようもないと諦めたとき、鏡の中の己は病人よりもひどい顔色をしていた。一度死んでからよみがえったかのごとく、どんよりと疲れきった顔。
そういえば、タオルを忘れた。袖で拭う気力も湧かず、洗面台に両手を突き水滴を落ちるがままにする。ポタッ、ポタッ、と等間隔で響く音に、思考が少しだけはっきりとした。夜の寒さが肺を冷やす。一体何をしているのかと、何もしていないはずなのに自身の存在意義を問いたくなる。
迎えに来たルイルと部屋に戻り、並んでベッドの上にうずくまった。横になったら、再び何かが出てきそうだ。ルイルの肩に頭を預け、呼吸に集中する。ルイルは何も聞かない。ただ、繋いだ手の親指でフィオールの素肌をさすっている。テオールとも同じ、ルイルの匂いが心地好い。
ルイの目が見たい、とフィオールは思った。空よりも海よりも、この世の何よりも透き通った青。ルイルの青は、かき乱されたフィオールの心に安心を与える。
「夢で、ガレージにいたんだ。箱があったから、開けた」
「うん」
「けど、そこまでしか覚えてない。何が入ってたか、全然思い出せない。俺は知ってるはずなんだ。あの中に何が入ってるか、知ってるはずで……」
一体、中身は何だったのだろうか。そもそも、フィオールはあれをいつ、どこで見たのだろうか。分からない。思い出せない。夢だから既視感を覚えるだけだと言われてしまえば、その通りだと頷けてしまえるほどのあやふやな確信。
それでも、腹の底から笑い飛ばすことはできなかった。妄想だと言うにはあまりにリアルで、今も手を伸ばせば触れられる気がする。フィオールは、確かにあの作品の中にいた。箱のサイズもカラーも次第にかすんでいくのに、箱の中に何かがあった、という事実は段々と重くのしかかってくる。
開けて、開けて、と誰かが囁いている。怖い。寒い。苦しい。ごめんなさい。散り散りになった記憶は疑念へと紡ぎ直され、動機不明な感情たちが脳裏をぎっしりと埋めていく。
フィオールの中には、開かない記憶の箱があるようだ。今日、またはすでに日付が変わっているなら昨日の昼、レナリアと知り合うまでは意識してこなかったが、思い出してはいけない記憶を閉じ込めたそれはガチャガチャと揺れている。あの真っ黒な目を見ると、何かを思い出さなくてはいけない気になる。気色悪い。気持ち悪い。何か、重要なことを忘れている。忘れたことさえ忘れていたいほどの、とても大事なことだ。
「フィオ。思い出したくないなら、思い出さなくていいんだよ。忘れてたほうが幸せなことなんか、世界にたくさんあるよ」
優しい声。フィオールが一等好きな、フィオールを守ってくれるルイルの声。体ごと聞き入るために頬ずりをすると、ルイルはくすくすと笑いながら応えてくれた。
「俺は、忘れたままで幸せだよ。フィオもそうでしょ?俺とテオがいたら、フィオは幸せだよね?」
「うん」
「だったら、この話はお終い!ね、たまには向かい合って寝ようよ」
ごろん、とルイルはフィオールを抱き締めて寝転がった。すぐに、ぱさりとブランケットが掛かる。にじむ世界で、フィオールはルイルの体温を求めてすり寄った。額同士がぶつかってしまうほど近く、ルイルの目が輝いている。ぼんやりとした世界でも、ルイルの青と銀はよく分かる。
フィオールは目を閉じ、ルイルの呼吸だけに耳を傾けた。それと同じリズムで、フィオールの鼓動も刻まれていく。穏やかな、フィオールのために用意された寝場所。まとわりつく悪夢は、ルイルの声が追い払ってくれた。冷えた肺は、ルイルの手が温めてくれた。テオールがいないのは寂しいが、ルイルがいるから怖くない。
意識を手放す間際、フィオールはふと考えた。果たして、本当に忘れたままでいいのだろうか。確かに、ルイルに関してはそれが正解だと思う。家族の惨殺を覚えたままでいるなど、死ぬより辛い拷問だ。では、フィオールの記憶もそうなのだろうか。フィオールの秘めた記憶も、ルイルと同じくらい残酷なものなのだろうか。少なくとも、周囲で誰かが死んだことはない。なら、開かない箱の中身は何なのだろうか。ルイルが言う通り、思い出さないことが最善なのだろうか。分からない。考えたくない。だが、答えを出さないままで許されるのだろうか。
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