第6話 理想と現実Ⅱ
クラスルームに着くと同時に教師も入室し、着席が促される。授業はディスカッション形式で進むため、四つある長方形のテーブルは円形になるよう組み合わされている。クラスルームの前方から最も遠いテーブルにある、右端から二番目の椅子がルイルの定位置だ。その隣、すなわち同じテーブルの右端にフィオールが座る。
カタン、とルイルは椅子をぎりぎりまでフィオールに近づけた。フィオールの教科書を覗き見るためであり、フィオールと離れたくないがゆえでもある。ミドルスクールでもそうだったが、ルイルは教科書を用意しない。窮屈なほどフィオールの隣を陣取り、フィオールの教科書を使って授業を受ける。ノートも取らない、ルイルは記憶力がすこぶるいいので。尤も、それは忘れたくても忘れられない記憶を押し込めるためかもしれないが。
二人と初めて関わるからか、化学を教える新任教師であるカーゴは苦笑した。栗色の髪と目で、人が良さそうな若い男性。
「あー……ルイル・ランロッド?」
「はい」
「随分と近いな。隣の君は?」
「フィオール・ランロッドです。いつものことなので、お気になさらないでください」
「あぁ、君が……。分かったよ」
フィオールが先手を取って話を打ち切ると、カーゴは納得した様子で引き下がった。銀髪のルイルは、やはり目立つらしい。恐らく、教員間で要配慮人物としての指示も出ているのだろう。
見当違いにも程がある、とルイルは思う。慎重な対応をされているのは分かるが、どれもこれもルイルの希望とはいくらかずれたものだ。ルイルを慮るなら、寮でテオールも同じ部屋にしてほしい。クラスも同じがいいし、いつでもどこでも三人一緒にいたい。フィオールだけでは不完全だ。テオールもいなければ、ルイルの欲求は満たされない。
授業は、早速新しい単元から始まった。理科という大枠の中で化学を選んだのは、フィオールのためだ。実のところ、フィオールはルイルのような要領の良さも、テオールのような非常に賢い頭も持っていない。それに加え、血液や臓器などのグロテスクなものがひどく苦手だ。擦り傷から出た少量の血にすら動揺を見せるし、ミドルスクールの頃は生物の教科書を開けもしなかった。なら物理と地学があるではないかと問えば、前者はどの問題でどの公式を使えばいいのかピンと来ず、後者は興味の問題か頭に入っては抜けていくようだ。これらに比べれば、化学はパズルのように組み立てていけるのが楽しいらしい。実験で試薬の色が変わるのもきれいだと言う。ただし、真っ赤に染まっていく場合には目を逸らしているが。
「ルイルはどう考える?」
不意に、カーゴは意見を求めた。授業中のルイルは普段の素行が嘘のように静かだから、話を聞いていないのかと疑われがちだ。しかし実際のルイルはきちんと考えており、当てられればすらすらと答えられる。今回も、ルイルはカーゴに合格をもらって口を閉じた。褒めて、と言わんばかりにフィオールを見れば、テーブルの下で手を握ってもらえた。それが嬉しくて、ルイルはにっこりと笑う。
一人、二人、話が進むに連れどんどんと名指しされていく。答えられない生徒、惜しい考えを述べる生徒。ルイル、と教師が呼ぶ。ルイルは問題無く答える。一人、二人、別の生徒が当てられる。三人目、四人目。またルイルが当たる。ルイルは正答を言う。――カーゴは、やけにルイルの意見を聞きたがる。いくら少人数のクラスとは言え、あまりにも偏った指名。ルイルが正解する度に弧を描く、あたかも慈しみに溢れているかのようなその目は胡散臭い。
チャイムが鳴り響いた瞬間、ルイルはフィオールの手を取った。この部屋から、カーゴから早く離れたい。ウルフカットの女子生徒を見たときとは異なる、ただただ面倒臭いという警鐘が焦りを生んでいた。カーゴの話に付き合ってはろくなことにならない、そう予感できた。フィオールも思い至っているのだろう、荷物のまとめ方が普段よりも粗雑だ。ところが、カーゴが二人の側に来るほうが早かった。
「ルイル、よく勉強しているな」
「……別に。勉強しないと駄目でしょ?」
「それでも、勉強しない奴はごまんといる」
例の女子生徒とは違い、カーゴの目から嫌な感情は伝わってこない。だが、ルイルはこの教師のどこかが気に入らない。フィオールも同じことを考えているのだろう、繋いだ手に力が籠もった。失礼なことだと分かってはいるものの、とにかく話したくない。例えるなら、漂白剤のような。白くて、臭くて、痛くて。
「次のクラスがあるので。さようなら」
「あぁ、じゃあ、あと一つだけ」
カーゴは、ルイルに向かって口を開いた。否、最初から、この教師はルイルしか見ていない。フィオールを不特定多数の一人に数えておいて、ルイルを特別視している。にっこりとしたその顔は何かを企んでいる。ルイルはじりじりと足をずらしつつ、フィオールの手だけは放すまいと意識した。嫌悪感をあおる男性が口にしたのは、果たして。
「レナリア・ジオスという生徒が九年生にいるんだ。――君と似た境遇だから、良くしてやってくれないか?」
ぴく、とルイルは反応してしまった。
「……似た、って?」
「両親を早くに亡くして、親戚の家に引き取られたらしい。見た目は派手だが、根はいい子だ。頼むよ。俺も妹を亡くしてるから、気持ちが分かるんだ」
「……」
一、二、三。静まり返ったクラスルームと、騒がしい廊下。カーゴの次の授業はまだなのか、新しい生徒が入ってくる気配は無い。たった三人の場を支配する、身じろぎ一つ許されない沈黙。プールの中にいるかのように、外の笑い声が反響して脳裏に響く。
フィオールと繋いだ手の平は、じっとりと湿っていた。せっかくテオが進級してきたのに、今年度は運勢が悪いかも、とルイルはらしくないことを考えた。ランロッド家の養子であることは隠していないが、普通はここまで明言するものだろうか。なお、殺害事件に関しては基本的に秘匿している、カーゴには知るべくもないだろう。冷めていく警戒心の代わりに心を覆っていくのは、軽蔑。そう、と短く返し、ルイルは一歩を踏み出す。
「時間だから、行くね。バイバイ、カーゴ先生」
フィオールの手をぎゅっと掴み、ルイルは駆け出した。柔らかな銀髪がさらさらと揺れ、太陽よりも暖かいフィオールの瞳に反射する。ルイルは、フィオールがルイルの見目を気に入っていると知っていた。フィオールにとって、ルイルの容姿は世界で最も美しいものに違いない。
だから、カーゴの視界から抜けたところで、フィオールの両目をぐっと覗き込んだ。突然現れた青に、フィオールは瞠目する。何だよ、と不思議そうに尋ねるが、その声の裏に陶酔が隠れているとルイルには分かる。それだけでいい。それだけでルイルは幸せになる。フィオールとテオールがルイルを愛して側にいる、たったそれだけで、ルイルの人生は幸福だと言える。そこに、第三者の「善意」はいらない。
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