第4話 世界で一番きれいな青

「フィオ、どうする?」

「……」

「フィオ?」

「……」

「ねぇ、フィオってば!」

「あっ、え?」


 ぐいっ、と両手を真下に引かれ、フィオールは我に返った。気づけば、ルイルが手を繋いでじっとこちらを見詰めている。気持ち悪くなっちゃった、と聞いてくる声は心配げだ。フィオールの返事を待たず、ルイルは二人で寮の裏手へと移動した。


 真正面よりほんの少し上、ブルースターに似た、けれどそれよりずっと美しい星が瞬いている。きれいだな、とフィオールは場違いにも思った。ルイルの瞳はいつでも澄み渡っており、春の空よりも夏の海よりもまばゆい。

 いつかに家にあったアクアマリンを見たとき、ルイの目のほうがきれいじゃないか、とフィオールは言った。すると一緒に見ていたミランは苦笑し、フィオールは本当にルイルが好きね、と当たり前なことを口にした。フィオールがルイルを愛しているのは当然のことなのに、あたかも今改めて理解したかのような口振りをされた。その後テオールを呼び、予想通りテオールもルイルの目のほうが好きだと言い、ルイルも含めた全員で比べた。

 ミランは宝石には宝石の価値があると言ったが、やはりルイルの瞳が世界で一番きれいな青だ。石よりも、花よりも、ルイルの瞳には価値がある。


 フィオールの両手をさすりながら、ルイルは口を開いた。


「フィオは部屋で待ってる?俺がテオ、連れてくるよ」

「いや、けど……待ってる、って言ったから」

「顔色、悪いよ。ね、部屋でおかえりってしてよ。俺、迷子にならないでちゃんと連れてこれるよ」

「けど……」


 校門で待ってる、とフィオールはテオールに言った。弟はしっかりしているが人見知りだ、教員に声を掛けることができずに困っているかもしれない。だだっ広いキャンパスに尻込みし、門をくぐったところで立ち往生しているかもしれない。そうでなくとも、重い荷物を運べずに立ち止まっているかもしれない。そう考え始めると思考は止まらず、ろくに動けもしない体とは正反対だ。

 鼓膜を通りすぎた音は脳をぐるぐると回り、頭蓋骨をぐわんぐわんと揺らす。有象無象の声がうるさい。有象無象の息がうるさい。有象無象の気配がうるさい。気持ち悪い。動きたくない。ここにいたくない。テオールに会いたい。

 ちぐはぐなのに重なる欲求が生まれては燻り、視界が水に溺れていく。指折り数えてたどり着いた今日なのに、期待外れな自分が障害となっている。本当にどうしようもない。


 ――大丈夫だよ、とルイルの声がした。暗くなった世界に驚くと、すぐに光が戻りまた陰る。どうやら、ルイルがハンカチでフィオールの目元を拭ってくれているらしい。すん、と鼻をすすると、お揃いの柔軟剤の香りが舞い込んだ。爽やかな、新緑が芽吹く森の匂い。これ好き、とルイルが言って以来、我が家でお決まりになったそれ。

 フィオールはルイルのハンカチを引ったくり、緩んでばかりの目をぽすぽすと叩いた。こすったらテオールに叱られる。


 あっ、とルイルは正門のほうを見た。次第に、ガラガラというスーツケースの音。


「フィオ!泣いてるの?」


 聞こえた声は、頭の中に入って溶けた。


「テオ、ごめっ、行けなかっ、た」

「そんなの、いいよ!人がいっぱいでびっくりしちゃったの?俺こそ、早く来なくてごめんね」


 ぐすぐすと泣きじゃくるフィオールに、テオールは慈愛に溢れた抱擁をした。これではどちらが兄か分からない。お母さんに見られたら恥ずかしい、とフィオールが思った直後、お母さんは帰ったよ、とルイルに話しているのが聞こえた。続いて、じゃあ三人きりだね、と嬉しそうな声。無論、他にも生徒や大人がたくさんいるのだが。しかもフィオールのせいで注目を集めてしまっている、テオールは目立ちたくないと言っていたのに。


 大丈夫だよ、とテオールも言った。フィオのところには俺が行くからいいんだよ、とテオールは言った。絶対に行くから泣かないで、とテオールに言われた。フィオールの涙は全て流れてしまったようで、代わりにぼんやりとした疲れが己の頭を縦に動かした。


「ルイ、寮に案内してくれる?フレッシュマンとソフォモアは同じ寮なんだよね?」

「うんっ。毎日会いに行くね」

「うん、来て」


 フィオールを中心に挟み、テオールとルイルは歩き出した。傍から見れば、連行されているかのごとく。罪状は、兄のくせに弟を迎えに行けなかったことだろう。それと、ルイルのハンカチを涙でぐしゃぐしゃにしたこと。罪悪感はある。だが、二人が許してくれると分かるから、心の片隅にちんまりと積もっている程度だ。幸せな風が吹けば、一掃される。


 鍵は寮監さんから受け取るんだよ、とルイルが張り切って説明している。進級説明会やパンフレットで予習してきただろうに、テオールはさも今初めて知ったかのような反応を返している。テオールはフィオールに甘いが、ルイルにも甘い。ルイルが嫌だと言えばミドルスクールのキャンプは休んだし、ルイルがやめてほしいと願えば同級生と遊びに行かなくなった。テオールも、大概ルイルのことを愛している。ミランのアクアマリンとルイルの瞳を比べたとき、ルイの目は食べちゃいたいくらい好き、と言ったのはテオールだった。


 進級式は、明日。正装である黒のローブは、猫のような顔立ちをしているテオールによく似合う。夏休み中に着て見せてもらったところ、絵本に出てくる魔法使いのようだった。事実、テオールは魔法使いだ。暗闇で迷子になったフィオールを、いとも容易く光の中へと連れ出す。

 三人で手を繋いだ。寮監はその様子とテオールのファミリーネームを確認し、こいつらか、と言いたげな目をした。失礼な人だ、自分たちが異質な自覚はあるが。それでも、フィオールたちは変わらない。環境が変わっても歳が変わっても、フィオールたちは一生変わらない。誰に出会おうと、誰が何と言おうと、自分たちはずっとこのままだと信じている。

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