第3話 ルイルの悪夢

 環境の変化には、警戒するべきだ。理想的な生活の幕開けだとしても、最初は何かしら不都合が起こる。例えば、忘れ物をしたとか。例えば、ベッドの足に小指をぶつけたとか。――例えば、悪い夢にうなされたとか。


「フィオ、痛くない?痛くない?おなか、痛くない?」

「大丈夫。ほら、どこも怪我してない」


 時折、ルイルは真夜中にフィオールとテオールを揺らす。痛くないかとしきりに尋ね、夢と現を行き来する。九年越しに同じ現実が繰り返されていないか、ルイルの青い目は希望を捕まえようと忙しなく動く。その度、フィオールとテオールは電気を点け己の無事を証明し、ルイルが落ち着くまで大丈夫だと囁き続ける。

 六年間、頻度が減っても決して無くならない行為。ルイルの悪夢は、今もなおその心を蝕んでいる。


 寮に戻った初夜、ルイルはまさしくその状況に陥っていた。しかしこの場にはフィオールしかいない、最適な処置は施せない。テオールの無事を直接確かめられるのは、少なくともあと一週間先だ。焦燥感にさいなまれながら、フィオールはルイルの両肩を掴んだ。


「テオは?テオは?」

「ルイ、落ち着け。テオは実家だ」

「何で?」

「ルイ。去年もあっただろ、こういうこと。そのときはどうした?」

「テオは何でいないの?」

「ルイ、電話でテオの無事を確かめよう」


 フィオールはルイルを何度も呼んだ。ルイルがテオールを探すためにいなくなってしまわないか、怖くて仕方が無い。ルイルの美しい瞳は、薄暗い部屋でも怪しげに輝いている。それが儚さを余計にあおり、蝶のようにふっと消えてしまわないか不安が募る。大丈夫、大丈夫という言葉は、フィオール自身のためにも重ねているのかもしれない。


 電話、とルイルは繰り返した。フィオールはルイルを抱き締め、背中を一定のリズムで叩きながら肯定する。消灯時刻後は一切の電気が点かない、持参した大きめのランタンで部屋をほのかに照らしている今、悪夢と現実の境界線は揺らいでいるだろう。ルイル現実に呼び戻すため、フィオールは懸命に呼びかけ続ける。

 テオに電話、とルイルが文字列の意味を理解した頃を見計らい、フィオールは静かに部屋のドアを開けた。ぞっとするほど暗い廊下の先に、各フロアたった一台だけの固定電話がある。暗黙の了解で上級生優先の、けれど使う人はほとんどいないそれ。スマートフォンですぐに連絡できるのがベストだが、寮監に預けているので不可能だ。ふらふらと先へ進むルイルを追いかけ、フィオールはテレフォンカードを差し込んだ。誰かに見つからないか、あるいはルイルが駆け出してしまわないかひやひやとしながら、通話が繋がるのを待つ。

 ――テオ、とルイルが喋った。


「テオ、痛くない?痛くない?……本当?痛くない?……ううん。……うん、フィオも痛くないって。……うん」


 段々と、ルイルの声から震えが取れていく。いつも通りの、舌足らずでどこか甘えている声に戻っていく。それから二言、三言話すと、ルイルはおやすみの挨拶をして受話器を置いた。


「テオ、元気だって。フィオも元気?」

「うん、元気だよ。戻って寝よう」

「うん」


 来たときと同じく、そっと廊下を進み部屋の中へ。ベッドに寝転がったルイルの隣にフィオールも並べば、背後から流れるように腕が巻きつく。ふわぁ、と気が抜けるあくび。就寝から数時間経つが、ルイルは夢のせいであまり寝られていないのだろう。


 ルイルが心を開いてすぐの頃、どのような悪夢だったのか、ランロッド兄弟は何度か聞いた。すると、ルイルは決まって支離滅裂な表現をした。赤くて、狭くて、うるさくて、ぐちゃぐちゃで。時にはナイフを持った知らない人に襲われたり、兄の死体と一緒にクローゼットに閉じ込められたり。ひどいときは、フィオールとテオールを外に連れ出さないと安心しなかった。


 ルイルは不幸だ。フィオールとテオールが一生懸命幸せにしても、夢一つであの惨劇の日に戻ってしまう。人形のように何にも反応せず生きていた頃と、ランロッド兄弟がいなければ呼吸さえ苦しい今、一体どちらのほうがましだろうか。あの日に足が捕らわれたままのルイルは、間違った生き方をしているのだろうか。なら、それに満たされるフィオールとテオールは、ルイルの真の幸福を妨害する悪なのだろうか。そもそも、幸福の定義とは。


 それから一週間、ルイルは健やかな夜を過ごした。アラームが鳴ってから十五分きっちりとフィオールに甘え、実力行使に出られてやっと起きる。今日のルイルの服装は、ライトブルーのシャツ、ネイビーのニットベスト、デニムのワイドパンツ。ランロッド兄弟の影響か、ルイルは意外とカジュアルなアイテムも身に着ける。似合うー、と尋ねる笑顔が愛らしい。似合ってる、とフィオールが屈託の無い感想を伝えれば、えへ、と破顔する。テオには負けるけどかわいいな、とフィオールは失礼なことを考えた。メイクをしていないのが惜しい。


「テオ、何時に来るんだっけ?」

「十一時……」


 ――寮の玄関を出た瞬間、フィオールの声は途切れた。


 狭い商店街のごとく、正門から寮までの道を人が埋めている。在校生、新入生、新入生の保護者、教員。がやがやと反響する声、ひしめくたくさんの人間。フィオールが最も畏怖する、他人という集合体。――認識した直後、見えないロープが首を締める。

 もはや、ルイルの心配をしていられる心理状態ではなかった。この人混みを抜けてテオールを迎えに行くなど、ルイルがいるとしてもフィオールにはできない。テオールに会いたいのに、テオールが待っているかもしれないのに、数ミリすら歩き出せない。足に根が生えたかのように、そのかかとは地面からちっとも浮かない。


 そういえば、とフィオールの脳裏に一年前が映写されていく。初めての入寮日、フィオールはルイルに介抱されていた。混雑を避け早朝から来たのは良かったが、その後の想像以上の人混みに動けなくなったことを今でも鮮明に覚えている。寮の窓からその光景を見てしまったばかりに、手続きもキャンパスの下見もできなくなった。ルイルはフィオールとの寮生活を楽しみにしていたのに、肝心のフィオールのせいで初日を散々な結果で終えた。晴れ晴れしい進級式さえ、フィオールを部屋に連れ帰ったせいでルイルには普通の友達ができなかった。自分たちが孤立しているのはここにも起因すると、フィオールは深刻に捉えている。

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