【第2話 3】

 太田は赤羽の自宅に帰ってすぐ、ダイニングテーブルで推しアイドルのライブ映像を鑑賞していた妻に事情を伝えた。太田は妻が慰めてくれると思った。

 だが、期待は裏切られた。


 妻は悲し気な表情を見せたものの、ひどく冷めた重いため息を吐く。

「あーあ、ドームツアー参戦したいのに。節約しなくちゃな……」


 その一言は夫の自尊心を傷つけた。「……ドームツアーってなんだよ」

「スパビのライブに決まっているじゃない」


 妻の早苗さなえは国家カブトムシアイドルグループ《スーパービートルズ》の大ファンだ。ロックテイストのグループで力強いダンスと歌声が魅力的で、大型コンサートツアーを毎年開催している。


 早苗は毎年ライブに参戦し、SNSでも推しアピールは毎日欠かさない。結婚する前はプロダクション所属のフリーアナウンサーだった。あまり活躍はしていない。



「俺はまだいい。たけしのことは心配しろよ。来年、私立の小学校だぞ」

「しているわよ。学費がバカ高いし、スパビのライブも我慢しないとって」

「だから、なんでアイドルのライブを心配すんだよ。おかしいだろ!」

「大好きだからに決まっているじゃない」

「少しは、俺を気遣えよッ!」


 妻のへらへらした態度に、夫の怒りが爆発した。


「あのな、俺がどれだけ苦労して、チームを引っ張ってきたか分かってんのか?」

「引っ張って、二年連続最下位なんでしょ?」

「はあ?」


 不満を吐露する夫に、妻は淡々と説明する。

「チームが強かった頃は不満なかったんだけど、最近はさ、弱すぎてファンからヘイトDMが届くんだよね。私はチームと関係ないでしょ? あなたに相談しても『弁護士に言え』って、全然守ってくれなかったじゃない」


 夫には思い当たる節があった。しかし、チームから戦力外となった手前、愚痴の一つぐらい吐きたかった。ソファーに座り、妻の自己中心的な態度を責める。


「お前はほんっと、自分のことばっかりだよな」

「そもそも、あなたと結婚した理由なんて、アスリートの妻になって勝ち組になりたかっただけだもん」


 妻の本音だ。夫の目が血走る。


「お前ェ……言っていいことと悪いことがあんだろッ!」

「別に悪くないでしょ? 夫婦なんだから、本音で話すべきでしょ?」

「だったら、俺だって本音で言ってやるよ。俺と武がいて、アイドルなんか趣味にすんな!」


 妻は生きがいをバカにされて腹が立った。


「なによ! 私だってね、主婦業と子育て、SNSのキャラ弁投稿に追われてんのよ! チーム動画でチアの小娘なんかに鼻の下伸ばして、キモいんだよ!」

「キモいってなんだよ! 主婦が威張るんじゃねーよ! こっちは毎試合――」


 妻の無神経な一言が、リビングテーブルのリモコンを掴ませた。

 そして、ダイニングのモニター画面に思い切り投げた。愛しのアイドルの顔にヒビが入る。神を穢された信者に似た怒りか、妻は夫の胸倉を掴み上げた。


「主婦をバカにすんじゃなねーよッ! 今の幼稚園がどんだけ面倒くさいかわかってんの? 何かにつけて先生は母親向けPCPセミナーを勧めて、ママ連中は子供の才能値で一喜一憂する毎日なのよ? ちょっと嫌味に聞こえれば、グループチャットでリンチされて……あー、ガキなんか産まなきゃよかったあっ!」


 バチーン! 夫が妻を平手打つ。

 息子を思って、思わず手が出たのだ。妻は膝から崩れた。

 泣きながら睨む。その眼は黒光っていた。


「イッてぇな……おまえぇッ!」

「武に謝れ、謝れよォッ!」

「うるせぇッ! 女の私を殴りやがって……お前みたいな男はブッ殺スッ!」


 妻が台所の包丁を手にした。夫はひどく動揺し、妻の怒りが暴走していく。


「なんで、そーなるんだよッ!」

「全部、お前のせいだ。お前を殺して、私は自由になんだよッ!」


 妻の表情が闇に覆われたとき、叫びを聞いたカウボーイが家に突入した。




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