エルちゃんのぬいぐるみ3

 わたしたちたちは順番にお風呂に入って、エルちゃんの部屋に戻った。最後にわたしが上がってもどってくると、エルちゃんは可愛らしいあくびをしていた。

 御子柴さんが、低い声で言う。

「そろそろ、電気を消そうか」

 エルちゃんがびくりとふるえた。

「あの、わたし、」

「エルちゃんはふつうにベッドで寝ていいよ。わたしたちは起きて見張ってるから」

 御子柴さんが、床にしきつめて敷かれた布団を手で叩く。

 せまいけど、どうにか三人が眠れるくらいの広さはありそうだ。

「ヤバい。アタシ、ふつうに眠っちゃいそう」

 久遠寺さんが、大きなあくびをした。

 わかる。とはいえ、それじゃあここまでやってきた意味がない。

 エルちゃんを起こさないようにしつつ、わたしたちはしっかり目を覚ましておかないと。

 エルちゃんはしばらく申し訳なさそうにモジモジしていたけれど、やがて眠気に負けたのか、ベッドへ潜り込んだ。

 久遠寺さんが、リモコンで電灯を切る。

 やがて、ベッドから静かな寝息が聞こえてきた。御子柴さんが、そっとささやく。

「エルちゃん、やっぱり寝不足だったんだね」

「うん。よく寝れたらいいけど」

 わたしたちは、そのまま小声で話を続けた。黙ってしまったら、そのまま寝落ちしてしまいそうだ。

 でもしばらくすると、久遠寺さんも、寝息をたてはじめてしまった。

「……くおん、寝ちゃったね」

「うん」

 起こすのもなんなので、そのままにしておく。

 御子柴さんがもぞりと寝返りを打った。

 闇の中で、大きな目が、カーテンの隙間から差し込むわずかな光を反射している。

「──四ノ宮さん。あのね、遅くなったけど、これだけは言わせて」

 小さいけれど、まじめな声で、御子柴さんが言った。

「ありがとう」

「え?」

「七不思議のときと、ドッペルゲンガーのこと。ちゃんと、お礼を言えてなかったから」

「ああ……」

 面と向かってお礼を言われるのは、なんだか照れくさい。

 わたしは掛け布団を口元に押し当てて、赤くなった顔を隠す。

「あれは、わたしじゃなくて、万智が」

「マチ?」

「あ、えっと……」

 どうしよう。万智のことは、だれにも秘密にしてきた。万智との約束だから。

 わたしがもごもごしていると、御子柴さんが真剣な顔になる。

「四ノ宮さん。あたし、本気だからね。冗談とか、口だけじゃなくて、ちゃんと、四ノ宮さんの友だちのつもりだから」

「……それは、でも」

「やっぱり、友だちはいらない?」

 御子柴さんの目が、まっすぐにわたしを見つめた。

 御子柴さんは、真剣にわたしと向き合おうとしている。わたしは──

 わたしは。

「……あのね。御子柴さん。わたし、昔ね」

 そしてわたしは、水凪との間に起きたことを御子柴さんに伝えた。

 今まで、万智以外のだれにも教えたことのない秘密を、すべて。

 御子柴さんは、ときおりうなずきながら、目をそらさずに聞いてくれた。

「わたしは、水凪を見捨てたんだ。だから、そんなわたしと、友だちになんてなったらダメだよ。わたしに、そんな資格なんてないんだよ」

 話しているうちに、涙があふれてきた。

 ひとりでいいなんて、ウソだ。

 ずっとわたしは、わたし自身にウソをついていた。

 本当は、ただ怖かっただけだ。

 自分が、友だちを見捨てて逃げ出すような人間だと、思い知らされることが怖かった。自分の臆病さを、認めることが怖かった。

 どんな幽霊よりも、自分のなかにある汚いものと向かうことが、怖い。

 御子柴さんが、じっとわたしを見つめている。

「だから、わたしはっ……」

「違うよ」

 御子柴さんの腕が、わたしの背中に回った。あたたかな手のひらが、わたしの背中をなでる。

 御子柴さんが、ささやくみたいに言う。

「四ノ宮さんが教えてくれたんだよ。だれだって、良い面と悪い面があるって」

「え……?」

「あたしの絵の具を盗んで、七不思議の壁にいたずら書きした子ね。ストーカーにおそわれてから、毎日、いっしょに帰ろうって言ってくれるんだよ」

「……え?」

「一人だと、また危ない目にあうかもしれないからって。まだちょっと、気まずいんだけどね」

 そう──なんだ。

「だれだって、きっとそうなんだよ。やさしい子が、ずっとやさしいわけじゃないし、元気な子が、いつも元気なわけじゃないんだ」

 ドッペルゲンガーのときは、あたしも凹んでたしね。そう言って、御子柴さんがほほえむ。

「林間学校の夜の四ノ宮さんも、あたしを助けてくれた四ノ宮さんも、どっちも四ノ宮さんだよ。きらいな自分だけを、自分だと思わないで」

 御子柴さんの言葉が、砂場に落ちた水のように心へしみこんでくる。

 どっちも、わたし。水凪を見捨てて逃げたわたしも、御子柴さんを助けようとしたわたしも。

 わたしの後悔が、なかったことになるわけじゃない。過去は、けして変わらない。

 でも。もしかしたら──それで、いいのかもしれない。

 自分の好きなところを認めて、きらいなところと向き合って。

 そうやって少しずつ、自分を好きになっていけたら。

「友だちがいらないなんて、さびしいこと、言わないで」

 御子柴さんの手のひらが、わたしのパジャマをくしゃりとつかんだ。

「資格が必要なら、あたしがあげるから」

 胸の奥に、じわりと熱がともった。

 えへへ、と照れたみたいに御子柴さんが笑う。その笑顔を見て、わたしは──

「それにさ、そんな幽霊見ちゃったら、あたしだって逃げ出しちゃうよ」

 この子と友だちになりたい。

 痛いくらい、そう思った。

「……御子柴さん。あのね。わたし、御子柴さんと──」

 

 そのとき、ぞわりと。

 空気が変わった。


 さあっと、全身の体温が冷えていく。両腕に鳥肌が立つ。

 あの日、神社の石段で感じた、氷の針で肌を刺すような感覚。ぶ厚い、幽霊の気配。

 わたしはクマのぬいぐるみを見つめた。色あせた茶色の身体から、なにか、黒いモヤのようなものがしみ出してくる。

 モヤは、人の形になった。

 女の霊だ、と思った。

 そうか、こいつだ。ぬいぐるみじゃなかった。ぬいぐるみに、隠れていたんだ。

 こいつが、エルちゃんをかなしばりに合わせていた悪霊なんだ。

 真っ黒な口を開けた、両目のない幽霊。うおんうおんと、頭の中をかきまわすような音が耳を切りつける。

 目を閉じたままのエルちゃんが、「うう」とうめいた。

「エルちゃん、大丈夫?」

 御子柴さんが起き上がって、エルちゃんをかばうように、ベッドへ片ひざをのせた。

 おおぉー……ん。

 幽霊の顔が変わった。闇のなかで、白っぽい手足が、地団駄を踏むようにうごめく。

 怒っている? 誰に──御子柴さんに?

 怖い。腕がガクガクとふるえだす。直感があった。この霊は、危険だ。本物の悪霊だ。

「四ノ宮さん、何が起こってるの?」

 御子柴さんが、きょろきょろと左右を見回す。

 そうか、見えないんだ。こいつが見えているのはわたしだけ。

 幽霊は、眼球のない真っ暗な目で御子柴さんをにらみつけている。

 ふと思った。もし、このまま何もしなければ、多分わたしは助かる。

 御子柴さんがどうなるかはわからないけど、彼女はわたしを責めたりしないだろう。エルちゃんも、久遠寺さんも眠っている。

 そうだ。そうすれば──そうすれ、ば。


 そうして、また、あんな思いをするの?

 

 助けられるはずのひとを見捨てて、友だちになりたいと思ったひとの手を振り払って、「ごめんなさい」も言えないまま、またひとりぼっちで生きていくの?

 それは──いやだ。

 そんなのは、いやだよ。

 もうわかった。わたしは臆病で自分勝手だ。逃げ出したいって、自分一人が助かればいいって、今も心のどこかで思っている。それは本当だ。どうしようもないくらい、本当だ。

 でも、それだけじゃない。

 御子柴さんやエルちゃんを助けたいって気持ちだって、ウソじゃない。

 だから、あとは──どっちを選ぶかだ。


 お前はいったい、どんな自分になりたいんだ、四ノ宮しおん!


 わたしは自分のバッグに飛びついて、防犯ベルをつかんだ。それから、バッグの中身を取り出す。

 お腹の底に力をこめて、大声で叫んだ。

「こっちに来い、このっ、臆病もの!」

 びっくりするくらい、大きな声が出た。

 手にしたペットボトルを、剣みたいに両手で構える。

 ボトルの中には、塩水が入っている。

 昨日、叶先輩に相談したのだ。今からでも準備できる除霊グッズはありませんか、って。

 先輩が教えてくれたのが、この塩水入りミネラルウォーターだった。幽霊は、塩ときれいな水が苦手だから。

 なま温いそれを両手でつかんで、ブンブンと振り回す。

「うわあああっ!」

 わたしの攻撃に、女の霊が動きを止めた。ひるんでいる、ように見えなくもない。

 ──効いてる! さすが、寺生まれの叶先輩!

 このまま、追い返せるかも……?

 そう思った途端、女の霊が絶叫した。ビリビリと皮膚がふるえるほど大きく。

 思わず目を閉じて、両耳をふさいた。両手からペットボトルが落ちて、ベッドの下へ転がっていく。

「しまっ」

 た。

 目を開けると、女の霊が目の前にいた。

 真っ黒な口が大きく開いて、わたしを飲み込もうとする。

「っ、まだまだぁっ!」

 わたしは悪霊のわきをすり抜けて、ドアを蹴破るように開けた。階段へ向かって走る。

 悪霊は、すっかりわたしに怒っている。きっと、追いかけてくるはず──きた!

 階段を駆け下りて、真っ暗なリビングへ。

 悪霊が、両手を広げて近づいてくる。

 もう逃げ場はない。

 わたしは、じょじょに壁際へ追い詰められていく。ウェディングドレスを着たウサギたちがいるたなのほうへ。

 もうダメだ、つかまる──という瞬間、わたしは振り返って、たなの上の窓ガラスを開けた。

「──お願い!」

 防犯ベルのピンを歯で外して、外の道路めがけて投げる。

 ジリリリリ! と、大きな音が、真夜中の道路に鳴りひびいた。

 あとはもう、イチかバチかだ。一瞬だけ音にひるんだ悪霊が、また近づいてくる。

 ごくりとツバを飲んだ。

 晩ごはんのとき、リビングで感じた気配。だれかに見られているあの感じ。

 もしかしたら、あれは。ううん、きっとそう。

 ケンカをしてイラっとしたり、分からず屋だって思うことはある。

 でも、それがあの子の全部じゃない。まるでお姉ちゃんみたいに、わたしの親友は過保護なのだ。

 それはきっと、今だって。

 だからお願い、どうか気づいて。

 わたしはここだよ、万智!

 青白く透けた幽霊の手が、わたしの首に伸びた、そのとき。

「てええええぇいっ!」

 壁をすり抜けてあらわれた革靴が、幽霊のあご(多分)をミサイルみたいに蹴り抜いた。

 ふわりと、黒いプリーツスカートが浮かび上がる。

 黒いタイツに包まれたふくらはぎが、月明かりに照らされていた。

「まったく、やっっっと見つけたわ。防犯ベルとはなかなか機転が利くわね、しおん!」

 万智が、指先で長い黒髪を払った。

 夜の闇の中で、ぼうっと光る幽霊の彼女は、なによりも鮮やかだ。

 わたしは安心しすぎて、思わず涙ぐんでしまう。

「……やっぱり、ついてきてくれたんだ」

「途中で見失ったせいで、遅れちゃったけどね。まったく、止めても聞きやしないんだから」

「ごめん。でも、ありがと」

「そんなんじゃ、許してあげないわ」

「うん。大好きだよ、万智。愛してる」

「…………ふん」

 鼻を鳴らしながらも、口元がむにむにと動いている。だいぶ、機嫌は良くなったらしい。

「さて、と」

 万智が、女の霊をにらみつけ、ぴしりと指をさした。

「私の親友に手を出したのは、そこのあなたね」

 おおーぅ。

 女の霊が、うめくように鳴く。けれどもう、ちっとも怖くない。

 片足をちょんと上げた万智が、両腕を前に出して構えた。

「あらかじめ言っておくけど、私はかーなーり強いわよ」

 そういえば万智、このまえ格闘技の本も読んでいたっけ。幽霊同士のケンカで、パンチやキックにどこまで意味があるかは知らないけど──

 わたしは叫んだ。

「やっちゃえ、万智!」

「オーケー、しおん」

 万智が飛んだ。

 くるくると身体を回転させて、刀を斬り下ろすかのように足を振るう。

 そのつま先が、首の辺りに突き立とうとした瞬間──幽霊は、すうっと、音もなく消えた。

 床に片ひざをついて着地した万智が、不満げに呟く。

「……しまった。逃げられた」

「に、逃げられた? やっつけたんじゃなくて?」

「違うわ。手応え──もとい、足応えがなかったもの」

 立ち上がった万智が、プリーツスカートのすそをととのえる。

 もう、幽霊の気配はなかった。万智の言うとおり、どこかへ逃げてしまったのだろう。

「さて、しおん」

「な、なに?」

 万智はわたしの顔をじっと見つめてから、「はあ」と息をはいた。

「ま、いいわ」 

「えっと?」

「だから──無事でよかった、って言ってるのよ」

「……へへ」

「……ふん」

 おたがいの目が合った。

 どちらからともなく、へへへと笑い合う。

 トントントンと、階段を歩く足音がした。

 パチン。御子柴さんがリビングの灯りをつけた。後ろには、久遠寺さんとエルちゃんもいる。二人は、眠たそうに目をこすっていた。

「──四ノ宮さん。いま、だれかと話してなかったの? あと、さっきのペットボトルは、なんだったの……?」

「あ、や、それは……」

 わたしは万智の横顔をのぞく。闇の中で、天使みたいにきれいな顔の輪郭が、うっすらと光っている。

 万智は、だまって人差し指を唇に立てた。黙っていて、のサイン。

「なんといいますか、えーっと」

「なになに?」

「ええとですね」

 ダメだ。いい言い訳がなにも思いつかない。

 わたしは半ばやけになって言った。

「ぶつぶつ言ってたのは、その、ま、魔除けの呪文──的な?」

「ええっ、そうなの⁉︎ すごい! あ、じゃあもしかして、あのペットボトルを振り回してたのも何かの儀式?」

 そっちは本当に魔除けの効果があるんだけど、魔除けというには間抜けが過ぎる。

「……うん。でも、学校のみんなには、内緒にしてね……」

 隣で万智がくつくつ忍び笑いをしていた。こいつ……。

「こほん。さて、しおん。問題は、逃げた幽霊よ」

 万智が、セキばらいをした。

「あの幽霊は、またエルちゃんを狙ってやってくる。正体を暴いてやらないとね。もっとも──」

 万智が、長い髪を指ではらった。

「こうして私がやってきたからには、朝飯前だけど」

「……ふふ」

「なによ、その顔」

 べつに、なんでもない。

 ただ、やっぱり万智には、自信満々な顔が似合うよ。

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