幕間

 朝からずっと、重たい雨が降り続いている。

 日曜日だけど、特に用事はない。

 わたしは引き出しから書きかけの便せんを取り出して、勉強机の上に置く。

 便せんには、書き出しの一行だけが書いてある。


  海堂水凪さまへ


 二行目からは、まっさらなまま。

 わたしは、もうずいぶん長い間、この続きを書けないでいる。

 五年生の夏からずっと。


  ※※※


 五年生の夏のことだ。

 わたしがまだ、幽霊を見るようになって間もないころ。

 わたしたちは、林間学校で、山梨県のホテルに一泊した。

 このころはまだ、わたしが「視える」ことはそこまで有名ではなくて、それなりにみんなと仲良くできていたと思う。

 なかでも特に仲良しだったのが、水凪だ。

 海堂水凪。

 名前のとおり、透き通った水みたいにきれいな女の子。恋愛漫画に登場する病弱ヒロインみたいな見た目をしているくせに、怖い話が大好きだった。

 わたしが見た幽霊の話をすると、いつも喜んでいたっけ。


 林間学校のプログラムには、肝試しが組み込まれていた。

 二人組を作って出発。ちょっとした林を抜けて、神社の石段をのぼり、お賽銭箱のうえに置かれたネームプレートを取って帰ってくる。

 そういうルールだった。

 わたしは、水凪と手をつないで出発した。

 正直、かなり怖かった。

 今思えば、林のなかで出くわしたお化けは、担任の佐藤先生と同じ声をしていたし、最後にお賽銭箱の裏から登場したオニは、教頭先生と同じくらいお腹が出ていた。

 でも、怖かった。

 それは。

 神社の石段から、本物の気配がしたからだ。

 石段をのぼるとき、ずっと、背後から声が聞こえていた。かすれた、低い女のひとの──


 それでも、肝試しは無事に終わった。

 問題が起きたのは、そのあと。

 消灯時間が来て、みんなが寝静まったころ、わたしのふとんに、水凪がもぐり込んできた。

「しおんちゃん、まだ起きてる?」

「……みなぎ?」

 うとうとし始めていたわたしは、目をこすって、水凪の顔をたしかめた。

「どうしたの? まだ、夜だよ……?」

「あのね、しおんちゃん。うちね、落とし物しちゃったみたいなの……」

「え?」

「しおんちゃんとおそろいで買った、キツネさんのストラップ。うち、ちゃんとポケットに入れてたのに」

「え、うそ。落としちゃったの?」

「うん……」

 昼間、わたしたちは、ホテルのお土産コーナーで、おそろいのストラップを買っていた。

 白いキツネがついたストラップと、赤いキツネがついたストラップ。

 わたしが白で、水凪が赤だ。せっかく、ふたりで決めたのに……。

「なんで、落としちゃったの」

「……ごめん」

「どこで落としたか、わかる?」

 水凪は、しぼりだすように答えた。

「多分、神社」


 とりにいくから、ついてきて。

 わたしは水凪を引き止めようとした。したと、思う。

 三〇〇円のストラップに、そこまでする必要なんてない。

 でも、水凪の意思は、岩みたいに硬かった。ぜったい取りに行く、と言って聞かなかった。

 それでも、見回りの先生に見つかってしまえば、あんなことにはならなかったと思う。

 けれど、不幸なことに、わたしたちの部屋は非常口のすぐそばだった。

 パジャマ姿のわたしと水凪は、こっそりとホテルを抜け出すことに成功した。

 してしまった。


 夏の夜を、手をつないで歩く。

 この手を離したら、水凪が、夜の底へ消えてしまうような気がした。

 ざわざわと、真っ黒な木々がざわめく。

「ごめんね、しおんちゃん」 

 水凪はしきりにそう言っていた。

 そのたびにわたしは、もういいよ、と答えた。

 やがてわたしたちは、神社の石段へたどり着いた。

 キッズスマホのライトボタンを押して、電気を点ける。

 その光だけをたよりに、わたしたちは、石の階段をのぼりはじめた。

 

 いちだん、にだん。

 ゆっくりと階段をのぼる。

 足をふみ外さないように。けして、転んでしまわないように。

 パジャマが、汗で肌にはりつく。湿気のせいか、ひどく息苦しい。

 半分くらいまでのぼっただろうか。

 神社の鳥居が見えてきたとき、水凪が「きゃっ」と悲鳴をあげた。

 つないでいた手がはなれる。

 ふりかえると、水凪は、階段にうずくまっていた。足首を押さえている。ネンザだろうか。

「水凪、だいじょう──」

 わたしは、最後まで言えなかった。

 なぜなら。

 転んだ水凪の背後に、「それ」がいたからだ。


 口に赤いナタをくわえ、爪のない手で、這うように石段をのぼってくる、足の無い幽霊が。


「しおんちゃん」

 しゃがみ込んだ水凪が、わたしに向かって手を伸ばした。


「おねがい、たすけ「あ足をください。足をください。あ足をくださいああ足を」


 わたしは。

 わたしは、水凪の手をつかめなかった。

 恐怖に飲み込まれたわたしは、彼女の手をふりはらい、一目散に階段をかけ上った。

 よくないものが、すぐそこまで近づいていることを知っていたのに。

 いや、違う。

 知っていたからこそ、わたしは、自分ひとりだけが助かるために、友だちを見捨てたのだ。

 最後にふりかえったとき、一瞬だけ見えた、水凪の顔は──

「どうして」と、わたしへ問いかけていた。


 階段をのぼりおえたとき。

 背後から、ドサリと重たい物が落ちるような音が、なんども聞こえた。

 そして、あっという間に遠ざかっていく、水凪の悲鳴も。


 そのあとすぐ、わたしたちの不在に気づいた先生がやってきた。

 石段から転がり落ちた水凪は、救急車で運ばれた。

 手術の結果、命に別状はなかった。

 ただ、背骨の神経に傷がついたとかで、水凪の両足は、動かなくなってしまった。

 表向きは、階段をふみ外したことによる転落事故。

 でも、わたしだけは知っている。

 きっと、水凪の足は、が持っていってしまったのだ。

 もしあのとき、わたしが、足をくじいた水凪の手を引いて、いっしょに逃げていたら。

 きっと今でも、水凪は。


 その後、車椅子に乗った水凪は、特別支援学校に編入するため、転校していった。

 事故のあとも、水凪は一度もわたしを責めたりしなかった。

 今でもときどき、彼女から手紙が送られてくる。最近の手紙には、入学祝いで買ってもらったというスマホの電話番号や、SNSのアカウントが書いてあった。

 でもわたしは、まだ一度も返事を出したことがない。


  ※※※


 わたしは書き途中の便せんをグシャグシャににぎりつぶして、くずかごに投げ捨てた。

「水凪……」

 窓の外は、まだ雨が降っている。

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