梅雨どきのドッペルゲンガー3
空は、濃い灰色をしていた。
いまにも雨が降ってきそうなぶ厚い雲にさえぎられて、太陽の光はとどかない。
「しおん、速く!」
「もうっ、いいよね万智は! 飛べるから!」
おまけに、スクールバッグも持ってない。
親水公園への道を、万智に置いていかれないよう必死で走る。やがて──
「見えたわ」
万智が、行く手を指さした。
親水公園前の四つ辻は、背の高い木々が茂っていて、昼間でもうす暗い。
そこに、向き合うように立っている、ふたつの人影があった。
ひとりは、こちらに背を向けている御子柴さん。
もうひとりは──
もうひとりも、御子柴さんだ。
その顔が、はっきり見える。本当に、御子柴さんとそっくり同じ顔だ。
あれが、ドッペルゲンガー。
やっぱり、本当にいたんだ……!
走ったせいでばくばくと鳴っている心臓が、きゅっと冷える。
ドッペルゲンガーに出会ったひとは、死んでしまうという。
喉がカラカラにかわいて、声が出ない。
御子柴さんの顔は見えない。でも、もうひとりの御子柴さんは、眉を吊り上げて、ぎゅっと御子柴さんをにらんでいた。
まるで、ここはぜったいに通さないぞ、とでもいうかのように……。
そして──
そして、薮の合間から、黒い服を着た男があらわれた。
「えっ」
男は。
太い指で、ぶ厚く光るものを握っていた。
──ナイフ!
刃先は、御子柴さんに向いている。
彼女は、突然あらわれた男の姿に、尻もちをついていた。
男がナイフを振りかぶる。
助けなきゃ。声を出すだけでもいいから。そう思っているのに、足がふるえて動かない。
ナイフ男が、御子柴さんに近づいていく。
今すぐ、ここから逃げ出したい。そうだ。逃げればいいんだ。そうすれば、わたしは──
「しおんっ、防犯ベル!」
万智の大声に、ハッとした。
スクールバッグにぶら下がった、卵型のキーホルダーをつかむ。お母さんに待たされた防犯ベル。
でも、手がふるえて、ピンを引けない。
もし、これを鳴らして、ナイフ男がわたしにおそいかかってきたら……?
今から逃げれば、わたしだけは助かるかもしれない……。
「っ、」
最低だ。なにを考えてるんだ、わたしは。
いいからはやく、ベルを鳴らせ!
「しおん、なにやってるの!」
「あっ」
万智が、防犯ベルに手をかざした。パン、といきおいよくピンが飛ぶ。
ジリリリリ!
大きな音がなって、男が足を止めた。冷たい目が、わたしをにらみつける。
両方のひざが、ガクガクとふるえた。怖い。怖くて怖くてたまらない。
ナイフを構えて、男が走ってくる。
ああ、まただ。臆病なわたしは、また、何もできない。
あのときみたいに。
きっとこれは、天罰なんだ。あの夜、水凪を見捨てたわたしへの。だったら──
「だめぇーーーっ!!」
わたしに向かって、ぶ厚いナイフが突き出される直前。
起き上がった御子柴さんが、男に向かって、思い切りスクールバッグを投げつけた。
「ぐあっ」
運動神経抜群の彼女が投げたバッグは、見事にナイフ男の後頭部に命中した。
ナイフ男が、ばたんと地面にたおれこむ。
「なんだ……?」「大丈夫ですかー?」
「おい、あいつ、ナイフを持ってるぞ!」
鳴り続けている防犯ベルを聞きつけたのか、大通りからひとが集まってきた。
「四ノ宮さん、大丈夫⁉︎」
御子柴さんが、男に近づかないように駆け寄ってくる。
すごいなあ。助けにきたわたしは、腰が抜けてるのに。
「……うん、大丈夫……」
「……どうして、四ノ宮さんがここに……」
その理由は、わたしにもわからない。
それを知っているのは、けわしい顔でたおれた男を見張っている、幽霊少女だけだ。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
御子柴さんのドッペルゲンガーは、いつの間に消えていた。
†
わたしたちはそのまま、やってきたパトカーに乗って、交番へ連れていかれた(ナイフ男は、別のパトカーに乗せられていた)。
いくつか質問をされたあと、お母さんがやってきて、わたしは解放された。
めちゃくちゃ心配されたけど、わたしは別に、たいしたことはされていない。
わたしよりずっと、御子柴さんのほうが心配だと思う。
万智は、そのまま家までついてきた。
今は、わたしの部屋の勉強机に腰かけている。
めずらしく、しかられた子犬みたいな顔で。
「……ごめんなさい」
「え?」
「私がうかつだったわ。不審者がいるとわかっていたのに、しおんを向かわせるなんて」
そっか。やっぱり、万智にはわかっていたんだ。
人間のストーカーが、御子柴さんを待ち伏せしていたことが。
「それは、だって、おかげで御子柴さんは無事だったわけだし」
「それとこれとは話が別よ。もっといいやり方があったはずだわ」
万智が、ふかいため息をついた。
「私もまだまだね」
万智が「まだまだ」なら、わたしはマイナス以下だ。自分ひとりでは、防犯ベルを鳴らすことさえできなかった。
中学生になっても、あのころから何ひとつ変わっていない。
弱くて、臆病で、自分勝手なまま。
やっぱり、こんなわたしに、友だちを作る資格なんて……。
わたしは首をふって、暗い気持ちをふりはらった。
「ねえ、万智。どうして、四つ辻に不審者がいるってわかったの? 二瓶くんと御子柴さんが見たドッペルゲンガーの正体は、結局なんだったの?」
「ああ、それは……」
わたしの問いかけに、万智もうつむいていた顔を上げた。
「ねえ、しおん。御子柴さんの名前、もう一度教えてくれる?」
「名前?」
「そう。下の名前」
「えっと、花奈。お花に、奈良県の奈」
「そうね。じゃあ、彼女のお姉さんの名前は?」
なんだったっけ。たしか聞いたはずだ。ええと、たしか──
「茉奈。草冠に、未来の未」
「そうね。バスケ部のエースで有名人だから、わたしも知ってるわ。それからもうひとつ。四つ辻に向かう前、花の画像を検索してもらったわよね」
「うん」
そして、質問されたのだ。
御子柴さんがいつも身に付けている髪飾りの花は、この花で合っているかと。
調べた花の名前は──ジャスミン。
コンビニで売っている、ジャスミンティーのジャスミンだ。
「ジャスミンは、日本語では『茉莉花』と書くの」
万智が、わたしのノートを開いて鉛筆を走らせた。書いたのは、『茉莉花』という三文字。
よくまあ、こんな漢字をサラサラ書けるな……。
でも、おかげで理解できた。『茉』奈と、『花』奈。
「だから御子柴さんのお母さんは、ジャスミンの花の髪飾りを付けてあげてるんだね」
御子柴さんの、名前の由来になった花だから。
きっとお姉さんの茉奈さんも、同じ飾りをつけているはずだ。でも──
「あれ。それだとおかしいよ」
「どうして?」
「お姉さんが茉奈なら、御子柴さんは莉奈じゃない?」
ジャスミン──茉莉花が名前の由来なら、長女が『茉』奈で、次女は『莉』奈だろう。
でも、御子柴さんの名前は『花』奈。一文字、飛んでいる。
「あっ、そうか。御子柴さん、実はもう一人、真ん中のお姉さんがいるんだ」
次女が莉子で、三女が花奈。それなら理屈が合う。
けれど万智は、「惜しい」と言った。
「御子柴さんは、『ひとつ上の姉に先輩風を吹かされている』と言っていたんでしょう? 茉奈さんは二年生よ。女の人が妊娠してから子供が産まれるまで、ふつうは十ヶ月。二年生のお姉さんと、一年生の御子柴さんの間に、もうひとり子供を産むことはできないわ」
「……あ、そっか」
言われてみれば、それはそうだ。
「でも、半分当たり」
「え?」
「つまりね。御子柴さんは──双子の妹なのよ」
「ああ……」
そういうこと──か。
長女が、『茉』奈。双子の姉妹が、『莉』奈と『花』奈。
茉莉花。ジャスミンの完成だ。
あれ? でも、やっぱり変だ。双子の姉妹なんて、ぜったい話題になるはず。ましてや御子柴さんは、人気者なのだし。
「わたし、御子柴さんに双子の姉妹がいるなんて、聞いたことないよ」
「それは当然。だって、亡くなってるんだもの」
「──え?」
「きっと、御子柴さんが物心つくより前に」
莉奈さんは、もう死んでいる。
頭の中で、パズルのピースがカチリとはまった。
ああ、そうか。あのドッペルゲンガーの正体は──
御子柴さんの、双子のお姉さんの幽霊だったんだ。
「ドッペルゲンガーは、おそろいの髪飾りをつけてたって言ってたよね。あれって……」
「私に、お母さんの気持ちはわからないけれど」
万智が、おだやかに言った。
「きっと御子柴さんのお母さんは、莉奈さんの分も作って、お供えしていたんじゃないかしら」
だから莉奈さんの幽霊も、茉莉花の髪飾りをつけていた……。
たぶん。いや、きっとそうなんだろう。
「そう考えたら、いやな予感がしたの。亡くなった姉の幽霊が、急にあらわれた。姉妹なんだから、悪意があるとは思えない。それなら、なにかどうしても伝えたいこと──警告したいことがあるのかもしれない、って」
それで、警察を呼べって言ったのか。
「もちろん、不審者ではなくて、別の可能性もあったけどね。一番悪い事態を想定して、しおんに警察へ電話してもらったってわけ」
「なるほど……」
「二瓶くんも御子柴さんも、ドッペルゲンガーは、『指をさしていた』と言っていたでしょう」
「うん」
「きっと、その方向にあの男が隠れていたのよ。二瓶くんの前にあらわれたのも、警告のつもりだったんでしょうね」
特に霊感がなくても、幽霊が見えてしまうことはある。
それは、幽霊のほうが、おどろかせたり怖がらせようとしているときだ。
きっと莉奈さんの幽霊は、必死だったんだろう。危険なストーカーから、どうにか妹を守ろうとして……。
ついでに言うと、と万智が付け加えた。
「最近、御子柴さんが感じていた視線は、あのナイフ男のものでしょうね。もしかしたら、何度か校内に忍び込んでいたのかも」
怖っ! 幽霊よりよっぽどホラーだよ。
ごろんとベッドに寝転がる。お風呂には、もう入った。あとは寝るだけだ。
それにしたって、まだ早い時間だけど──
「……なんか、疲れちゃった」
「そう。ゆっくり眠りなさい」
「万智は、寝ないの?」
「幽霊はね、眠らないのよ」
そうなんだ。
「だから、安心して眠るといいわ。怖い夢にうなされていたら、私が起こしてあげるから」
「……うん。おやすみ、万智」
「おやすみなさい、しおん」
でも結局、その日、怖い夢は見なかった。その代わりに、わたしが見たのは──
万智と、御子柴さんと、水凪と、私の四人で、夏の海へ遊びに行く夢だった。
翌日は、朝から梅雨らしい大雨だった。
御子柴さんは、普段どおりに登校していた。
三時間目の国語の授業中に、隣の席の清水さんから、ふたつに折りたたまれた紙が回ってきた。おもてに、「四ノ宮さんへ」と書いてある。
開くと、短い文章が書かれていた。
ありがとう。
妹のこと、これからもよろしくね。
そのとき、朝からずっと降り続いていた雨が上がって、雲の合間から、太陽の光が差し込んだ。
わたしは手紙から顔を上げ、御子柴さんの席を見た。
(えっ)
心臓が跳ねる。
御子柴さんの席には、誰も座っていなくて──
ただ、机の板に光が当たって、黄金色に輝いていた。
「二十五ページから御子柴──は、今日は休みか。じゃあ、武藤……」
どこか遠くで、周防先生の声がする。
わたしはただ、ぼう然と、空っぽの椅子を眺めていた。
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