梅雨どきのドッペルゲンガー1
関東地方の梅雨入りが宣言されて、何日か経った日のことだ。
授業で、校内写生をすることになった。テーマは、「わたしのお気に入りの場所」。
入学して三ヶ月で、このテーマ? って感じだ。真っ先に思いつくのは、万智がいる旧図書室だけど……。
あそこは本来、立ち入り禁止の開かずの間。おまけに今は、万智が好き放題に本やら雑貨やらを集めている。
うん。旧図書室を描くのはやめておこう。
「四ノ宮さんは、何を描くの?」
顔を上げると、白い花のヘアピンが似合うショートカットの女の子が、にこにこと微笑んでいた。御子柴さんだ。
わたしは、なるべく素っ気なく聞こえるように答えた。
「考え中。御子柴さんは?」
「そろそろ、ミーコって呼んでほしいな。みんなそう呼ぶし」
「呼ばない」
「え〜、つれないなあ。あ、なんなら下の名前で呼ぶ? ちなみに、あたしの名前は花奈です!」
「呼ばない」
「え〜」
御子柴さんは可愛いうえにスポーツ万能、おまけに人格者でクラスの人気者という、およそ文句のつけようがない女の子だ。どういうわけか、わたしと仲良くなりたいらしく、この前からちょくちょく声をかけてくる。
けれどあいにく、わたしにその気はない。
わたしに、人間の友だちはいらない。友だちなら、幽霊の万智だけでじゅうぶんだ。
「んー。あたしはやっぱり、体育館にしようかな」
「バスケ、やってるんだっけ」
「そうそう。四ノ宮さんは、部活動は?」
「わたしは帰宅部だから」
帰宅もしていないけど。放課後は、万智のいる旧図書室に入り浸っているから。
「そうなんだ。どっか入ればいいのに。楽しいよ、バスケ」
どこかと言いつつ、ちゃっかりバスケをおすすめされた。
あいにく、わたしは投げたシュートが頭の上に落ちてくるタイプだ。体力もない。
「ねえ、四ノ宮さん。もし他にアテがないなら、いっしょに体育館描こうよ」
「…………。」
……まあ、いいか。
どうせ、他に描きたい場所があるわけでもないし。
わたしは少しだけ迷ってるから、うなずいた。押し切られたとも言う。
筆箱と画板を持って、教室を出た。
道すがら、御子柴さんから色々なことを聞かれた。
「四ノ宮さんは、一人っ子なんだね。うちは、いっこ上のお姉ちゃんがいるんだけど、なかなか大変だよ」
「お姉さん、いるんだ」
「そ。茉奈っていうの。草冠に、未来の未で茉。『奈』はいっしょ。家でも学校でも、先輩風吹かされてるよ〜」
茉奈と花奈。一文字おそろいなのは、いかにも「姉妹」って感じがする。
「学校でも、ってことは……もしかして、お姉さんもバスケ部?」
「そうそう。ねーえー、四ノ宮さん、ほんとにバスケ、興味ない? 今、女子の人数が足りてなくって」
さては、勧誘のためにわたしをさそったな?
もうしわけないけど、わたしがバスケ少女になってしまったら、きっと万智がすねてしまうだろう。
『ふうん? しおんは私とのお喋りより、バスケを取るのね。いいわ。せいぜい、バスケットボールとお友だちになっていればいいのよ』
とか、そんな感じで。
ふてくされた万智の顔を思い浮かべて、すこし愉快な気分になっていると──
「──っ、誰⁉︎」
御子柴さんが、とつぜん背後を振り返った。
つられてわたしも振り返る。誰もいない。静かな廊下があるばかりだ。
「どうしたの?」
「あ、や、ごめん。急に」
御子柴さんが、首の後ろをさする。
「実は最近、なんだか誰かに見られてるような気がしてて……その、下校のときとか」
「……ストーカー?」
「ええ、まっさかぁ」
わたしの肩を叩いて、御子柴さんが笑う。
まるきり冗談でもなかったんだけどな。御子柴さんは、かわいいので。
「御子柴さん。防犯ベルとか、持ってる?」
「え、持ってない。四ノ宮さんは?」
「いちおう、親に渡されてる。買ってもらったほうがいいよ」
「うーん、いるかなあ……?」
もしストーカーなら、そういうものがあったほうがいいと思う。
でも、もし。
相手が、人間のストーカーじゃなければ──
きっと、意味はないだろうけど。
下書きを終えて、教室に戻る。
席で道具を片付けていると、御子柴さんのところに、二瓶くんがやってきた。
二瓶くんは、日に焼けた肌をしたスポーツ少年だ。
「なあ、ミーコ。お前、さっきオレのこと、無視しなかった?」
「え? なんの話?」
「だから、さっき校門前ですれ違ったときだよ」
「……校門前って?」
「だから──あれ。その絵、体育館だよな」
「そうだけど」
二瓶くんは、ばつが悪そうに頬をかいた。
「……体育館を描きに行ったってことは、校門のほうには行ってない?」
「そりゃあね。あたし、四ノ宮さんといっしょだったし」
「マジかぁ。ごめん!」
パン、と二瓶くんが両手を打ち合わせた。
「じゃあ、人ちがいだ。うわぁ、やっちまった」
「人ちがいって?」
「ほら、校庭にバスケコートあるだろ。オレ、それを描こうと思って、昇降口から外に出たんだよ。そしたら、校門の外にミーコがいたから、声かけたんだ。『おーい、外に出たらダメだって』って」
「それ、あたしじゃないよ?」
「わかってるよ。だから、人ちがい。結局、無視されてさ。あれ、だれだったのかな。うちの制服だったけど」
それで、御子柴さんに無視されたと思って、ひとこと文句を言いにきたわけだ。
人ちがい──か。
いくら遠目だからって、別人をクラスメイトを勘違いするものだろうか。
二瓶くんが、不思議そうに言った。
「でもあの子、何してたんだろうな。あんな時間に、あんな場所で」
「迷子じゃない?」
「そんな感じじゃなかったんだよ。こう──こんな感じで」
二瓶くんが、片腕を上げて言った。
「まるで、どこかを指差してるみたいだった」
†
「ドッペルゲンガーね」
と、万智が言った。
「ドッペル……なに?」
「Doppelgänger」
やけに良い滑舌で、万智が繰り返す。
「万智って、英語もペラペラだよね」
「残念、ドイツ語よ。意味は、二重歩行者」
「にじゅ……なに?」
「二重歩行者。ひとりの人間が、同時にふたつの場所に現れる怪異。バイロケーションともいうわね」
「それもドイツ語?」
「残念。Bilocationは英語」
さてはこいつ、発音の良さをわたしに見せつけたいだけだな。
つまり、自分とまったく同じ顔、同じ服装の別人を、ドッペルゲンガーと呼ぶらしい。
正体は不明。幽霊なのか、生き霊なのか。それとも、まったく違う『何か』なのか。
「それで、二瓶くんが昇降口で見たのは、御子柴さんのドッペルゲンガーだっていうの?」
「可能性の話をしているだけだわ」
万智がふわりと浮いて、旧図書室の本だなの天板に腰かけた。たいへん、お行儀がよろしくない。
「芥川龍之介は知っている?」
「万智って、わたしのこと、ばかにしてるでしょ」
「まさか。私はしおんのことが、世界で一番大好きよ」
「あ、そ」
お世辞だとわかっていても、少しだけ気分がいい。
もちろんわたしだって、芥川龍之介くらいは知っている。「くもの糸」の作者だ。小学校の教科書にものっていた。
「芥川龍之介は、明治時代の文豪ね。彼は、いくつかの小説で『ドッペルゲンガー』について言及しているわ。代表的なのは『二つの手紙』のいう短編」
「どんな話?」
「こんな話」
警察署長の元に、佐々木という大学教授から二通の手紙が届く。
ひとつ目の手紙には、ざっくりこんなことが書かれている。
『私の妻が、私とそっくり同じ顔、同じ服装の男と歩いている姿を見かけた。あの男は、うわさに聞くドッペルゲンガーに違いないから、警察で取り締まってくれないか』
「ドッペルゲンガーって、警察がつかまえられるの?」
「どうかしら」
しばらくして、佐々木から二つ目の手紙が届く。
『妻が行方不明になった。自殺したかもしれない。警察が無能なせいだ! わたしは超常現象の研究に人生をささげることにする』
「まさか、それで終わり?」
「それで終わり」
なんだそれは。
「オチがよくわからないよ。ドッペルゲンガーが『妻』をさらったってこと?」
「さあ? ただ、『妻』は、世間から浮気を疑われていたみたいね」
「夫のドッペルゲンガーとデートするのって、浮気になるかな。だって、お化けだよね」
「双子の兄弟なら浮気でしょう」
「それは──そうかもしれないけど」
たしかに、双子と付き合っていたら浮気か。
今の話のオチがそうだったら、話はかんたんなのに。
「芥川本人も、ドッペルゲンガーに会ったことがある……と、言われてるわ」
「へえ」
「あとは、自分自身のドッペルゲンガーと出会ってしまったら、近々死んでしまうとも」
死。
突然混ざった言葉が、わたしの心臓を冷たくなでる。
「死ぬ、って。そう──なの?」
「そういう話もある、ということよ」
「でも、それじゃあ」
御子柴さんは。
二瓶くんが昇降口で出会った相手が、御子柴さんのドッペルゲンガーなら。
「その子が心配?」
「……別に、そんなことないけど」
「ふうん」
万智が、にやりと笑みを浮かべた。
「ずいぶん、仲良くなったのね。もしかして、この間の落書き事件がきっかけ?」
「……万智。ひょっとして、からかってる?」
「まさか。私の親友に、ようやく人間のお友だちができて、喜ばしいかぎりよ」
「友だちじゃない」
わたしはきっぱりと否定した。
「わたしの友だちは、万智だけだから。人間の友だちなんて、いらない」
万智が、きゅっと目を細めた。
「……まだ気にしてるの? 前に言ってた、水凪さんって女の子のこと」
「っ、」
わたしは、万智のきれいな顔をにらみつけた。
いくら親友だからって、ふれてほしくないことはある。
わたしの剣幕を見て、万智が目をふせた。
「……ごめんなさい。もう言わないわ」
わたしは大きく息をはいて、下を向いた。
水凪。
海堂、水凪。
わたしの幼なじみで、二年前まで、いちばんの友だちだった女の子。
わたしはあの子に、あの日のことを、まだ謝れていない。
スカートのプリーツを、指でなぞる。
ポケットのなかで、なにかがカサリと音を立てた。
抜き取ってみたら、それは叶先輩からもらったノートの切れ端だった。赤いボールペンで、連絡先が書いてある。
「……そういえば、この学校って、わたし以外にも幽霊が視えるひと、いるんだね」
「だれの話?」
「二年の、叶先輩ってひと」
万智が、「うげっ」っていう顔をした。
「万智、知ってるの?」
「天桜寺の跡取りでしょ。去年、うっかり見つかって、頭から塩をかけられそうになったわ」
万智が、ものすごくイヤそうに言った。
頭から塩って。昼間、できるだけこの旧図書室から出ようとしないのは、そのせいか……。
「やっぱり、万智にも効くの? 清めの塩って」
「とりあえず、あまり気持ちがいいものじゃないわね」
まあ、それは、わたしでもそうだけど。
いきなり、塩をかけられたくはない。土俵入りするお相撲さんじゃあるまいし。
「ただ──そういうことなら、あの寺生まれのボサボサ髪に、相談してみてもいいかもね。ドッペルゲンガーについて、なにか知ってるかも」
「ええ〜〜……」
あのひと、顔と雰囲気としゃべり方が怖いんだよな……。つまりぜんぶが怖い。
万智が、形の良いあごに指を当てた。
「もっとも、本当にドッペルゲンガーかは、まだわからないけれど」
──え?
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