新図書室の地縛霊2

「なるほど」

 旧図書室で、万智は「スイーツレシピ手帳〜イチゴのお菓子特集〜」を読みながら言った。

「それで下巻を借りてこられなかった、と」

「無かったんだから仕方ないでしょ」

「そうね」

「わたし、図書室の本を借りパクするの、ちょっと許せないよ。しかも上下巻の下巻って」

「そうね」

 生返事……。

「……万智。そのレシピ本、そんなにおもしろい?」

「とても興味深いわ。ねえ、しおん。あなたは、どうして苺が赤い色をしているか知っている?」

「知らない」

「鳥に食べてもらうためよ。ほとんどの鳥は、紫外線を見ることができるから、人間よりたくさんの色を見ることができるの」

 紫外線、くらいはわたしも知っている。日焼けの原因になる、目に見えない光だ。

「そんな目の良い鳥にも見つけて、食べてもらえるように、とびきり目立つ赤色をしているのね。鳥に食べてもらえば、より遠くまで種子を運ぶことができるから」

 わたしは、ぼんやりと万智のくちびるを見つめた。

 頭のてっぺんからつま先まで、黒と白ばかりの彼女は、くちびるだけがほのかに赤い。

「鳥は、どんなふうに世界を見ているのかしら。ひょっとしたら、幽霊だって見えているのかも」

 ところで、と万智が言った。

「あなたが見た幽霊の女の子は、本当に、下巻の返却を待っていたと思う?」

 なに、急に。

「だって、おかしいでしょう。下巻が読みたいなら、本屋さんに行けばいい。返却される見込みのない図書室で待つ必要なんてないわ」

「それは──でも、幽霊ってそういうものじゃないの? 地縛霊ってやつ」

「そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない」

「どういうこと?」

 万智はレシピ本を閉じて、『ハチドリ殺人事件』の上巻を手に取った。

「しおん。もう一度図書室に行って、『ハチドリ殺人事件』を借りてきてくれない?」

「だから、下巻は無かったってば」

「上巻だけでいいから」

 なにそれ。上巻ならそこにあるでしょ。

 そう思ったけれど、わたしはもう一度図書室へ行って、文庫本を借りてきた。

 われながらお人よしだと思う。


 そして、十数分後。

「はい。借りてきたけど」

「ありがとう。ところでしおん。あなた、ミステリは読む?」

「読まない──こともない、かな」

「そう。なら、やっぱりわたしが確かめるしかないか」

 わたしは、万智に「ハチドリ殺人事件」の上巻を手渡した。

 はたから見れば、ひとりでに本が宙に浮いたように見えるだろう。

「この『ハチドリ殺人事件』。とてもおもしろいミステリだったわ。山奥の洋館で、人が次々と死んでいくの」

「そりゃ、ミステリだもん」

 わたしだって、探偵が登場する漫画を読んだことくらいはある。

 そういう漫画では、一話に一人くらいは人が死ぬ。そういうものだ。

「容疑者はみんなアリバイがあって、死体が見つかった部屋には鍵がかかっていた。きっと、下巻で探偵が謎を解くんでしょうね」

「まあ、そうだろうね」

「さて、しおん。図書室や図書館で借りた本に、一番やってはいけないことはなにかしら」

 借りた本に、一番やってはいけないこと?

 そんなの──ええと、なんだろう。一番って言われると悩ましい。

「ジュースでシミをつけるとか、紙をやぶるとか?」

「ええ。もちろん、それもやってはダメね。でも、もっと本好きを怒らせることがあるわ。特にミステリでは」

 ミステリで、一番やってはいけないこと。

 そう言われて、ピンときた。

「本の途中に、真犯人のネタバレを書き込むこと」

 万智が、くちびるの片方を吊り上げた。

「そのとおり。それが一番、やってはいけないことよね」

 万智は借りてきた「ハチドリ殺人事件」の上巻をパラパラとめくり、最後のページで手を止めた。

「──ああ、やっぱり」

「犯人、書いてあったの?」

「ええ」

 ひどいイタズラだ。

 あれ? そういえば万智だって、まだ解決編である下巻を読んでいないのだけど。

「これで万智もネタバレされたことになるけど、大丈夫?」

「しおん。あなたねえ」

 やれやれ、とばかりに万智が首を横に振った。

「このわたしが、たかがミステリ小説の犯人ごとき、見抜けないわけがないでしょう。予想どおりの名前が書いてあっただけよ」

「ああ、はいはい」

 さて、と万智は本を閉じて言った。

「ここに、ひとりの本好きの女の子がいたとします」

「うん」

「彼女は、図書室で『ハチドリ殺人事件』の上巻を借りて──その最後のページに書き込まれた、犯人の名前を見てしまった」

「ショックだったろうね」

「ええ。さぞかしショックでしょうね。犯人をバラされてしまったことも、大好きな本を粗末に扱われたことも。そして何より、目の当たりにした、悪意そのものが」

 悪意。

 万智の言葉に、ずんと胸が重くなる。

「うちひしがれて上巻を返却した彼女は、本だなを見て気がつくわ。下巻が、だれかに借りられていることに」

「う、うん……」

「そのときの彼女の気持ちを想像してみて。はやく下巻を読みたい? いいえ、違うでしょうね」

 だってもう、真犯人はわかっているから。

 なら、そのとき、女の子が考えたことは──

「彼女はきっと、こう考えたはず。『上巻にイタズラをしたのは、今、下巻を借りているやつに違いない』ってね」

 たしかに、そうだ。

 万智みたいな子を例外とすれば、真犯人の名前を書けるのは、下巻を借りて読んだ子だけ。

 すうっと、背すじが冷えた。

 じっと本だなを見つめていた、あの幽霊。

 いかにも読書が好きそうな、あの子は──

「図書委員は、誰がどの本を借りたかを他人に教えてはいけない。だから、借り主が誰かは教えてもらえない。でも、借りた本は、カウンターで貸出カードを返してもらった後、自分で本だなに戻すルールよね」

 そうだ。

 わたしもそうしている。

「だから彼女は、待つことにしたのよ。お昼休みも、放課後も」

「……ああ」

「そうして待っている間に、亡くなってしまった」

 ようやくわかった。

 そういうことか。

 つまり、あの幽霊が待っているのは。

「あの子が待っているのは、本の下巻じゃないんだね」

「そう。彼女が待っているのは、下巻ではなく──下巻を返しにくる、いたずら書きの犯人よ」


 それから少しして。

 未返却図書を回収するために、全校生徒にプリントが配られた。『図書室に返却していない本があるなら、すぐに返しましょう』。保護者にも連絡されたらしい。

 その三日後、わたしは新図書室を見に行った。

 おかっぱ髪をした女の子の幽霊は、どこにもいなかった。

 その代わりに──

 本だなには、「ハチドリ殺人事件」の下巻が返却されていた。

 きっとあの子は、憑いていったのだろう。

 やっと出会えた、犯人に。

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