【発言禁止】後輩女子と夏合宿風呂時間

坂巻

【発言禁止】後輩女子と夏合宿風呂時間


 テストやレポートの締め切りから解放され、ようやく夏休みに突入した8月末。


 俺は大学のサークルメンバーと共に、鍛練も勉強もする気のない遊び目的の合宿に今年も参加していた。サークルではなく部活としてやっている他の大学組織は、体力づくりをしたり作品を制作したり大会に向けて練習したりと忙しそうだが、知ったことではない。


 夏休みなんだから、水着・花火・アルコール・BBQ以外に割く時間はないだろ。

 と、そんな感じで海と山に囲まれた地元の宿泊施設andキャンプ場にやってきたわけだ。


「せ、先輩ぃ、後生ですから逃げないでくださいね、絶対ですよ!」


 木と雑草に囲まれた暑苦しい夜の山の中。俺のじっとりと汗ばんだ腕に1学年下の後輩女子が手を絡めてくる。


「あ~、やだなあ。暗いし虫飛んでるし、暗いし暑いし夏だし~」


 やや長めのミルクティーブラウンの髪をざっくりとまとめ上げ、ぴったりとしたTシャツにショートパンツという涼しげな格好で彼女は俺の左側にへばり付いていた。

 暑いのが嫌なら接触範囲は最小にするべきなのに、ぐいぐいと身体で押してくる。


「昼間は、海も山も近くてサイコー! 合宿にぴったりでいい場所だなって思いましたけど、夜怖すぎじゃないですか? 今年初めて参加しましたけど、びっくりですよぉ。もおーなんなんですか、……ひ、ひゃッあ、足におばけ当たった!?」


 意味不明のことを言い出した後輩に、俺は腕だけでなく全身を抱きしめられた。

 困る。非常に困る。

 暑いし汗くさいかもしれないから近寄らないでほしいのだが、薄布越しの胸やむき出しの太ももがぴったりとくっついて思考がまとまらない。


「――ッ」

 文句を言おうと口を開きかけ、後輩の手によって遮られる。


「こ、こらこら、ダメですよぉ、先輩。こっちは女子の宿舎付近なんですから、男子はいないことにしないと!」

 乾いた指先が、俺の唇をなぞって黙らせる。

 どこで覚えたんだよそれ。


「しー、です。しー。びーくわいえっと! ……お、できるじゃないですか、先輩はさすがですねぇ、偉いですね。よしよししちゃおー」


 小さい子どもを褒めるような物言いと動作に、ぐっと反論を飲み込む。

 身長差的に頭は遠いからか俺の左肩をさわさわ撫でて、後輩は再び歩き出した。引っ張られるように俺もサンダルを履いた足を動かす。


「それにしても、みなさんお疲れですよねー、お酒ちょっと飲んだだけで、ぐーすか寝ちゃって。あっちの集会所の建物の部屋はクーラーもあるから、お酒飲んで寝るには天国ですよねー」

 虫の声と木々の葉が揺れる音をBGMにして、彼女は目的地へと歩き続けていた。


「酔いつぶれてないの、私と先輩しかいないしー。先に宿舎に戻ったメンバーはもう寝てるだろうし、困っちゃいますよ。こんな夜の山道孤独に歩いて女子宿舎でお風呂なんてひとりで入れないですー。絶対、おばけでるじゃないですか!? ね、先輩?」


 喋るな、と言われたので視線だけで不満を訴えてみる。

 酒も飲める歳になっておばけが怖いってさすがに我慢しろよ、と。


「あ、ぴーんときましたよ! 今先輩の考えてることわかりました! 怖いって言う割に元気だなこの後輩って思いましたよね!? いやいや実はビビってるんですよ? ただですねえ、私の家の家訓で『幽霊除けには激しく騒ぎ、やかましくして困惑させること』ってうのがあってですねえ」

 どんな家訓だよ。


「もーうこれだけ喋ってれば、幽霊も逃げてきますよ、ね? たぶん、ね、ね? うるさいですかー?」

 相当うるさい。


「しかもですねえ、こうやって私ひとりが喋ることにより、女子宿舎ですでに休んでる別の人に見つかっても『おばけ怖かったんでー、むっちゃひとりで叫んでましたぁー!』で済ませてその間に先輩に隠れてもらうって寸法ですよお! やだあ私ったら頭良すぎ! え、天才!?」


 テンション高く話す後輩は、普段と同じで元気なのだがやっぱりちょっとおかしい。

 べらべらと話し過ぎというか、声が少し高いというか。

 やっぱり酔っているからだろうか。


「せ、先輩?」

 進む先に女子宿舎はまだ見えず、雑草という自然に囲まれた山道に終わりはない。


「せ、先輩ー? こ、声は出さなくていですから反応してくださいよ!」

 少し心細そうに隣で名を呼ばれる。


「ちょ、ちょいちょい、先輩ぃ。……はッまさか!? 先輩呪われた!? 近隣にあるかもしれない墓地からの浮遊霊に乗っ取られた!? そ、そんな頑張って先輩、幽霊なんかに負けちゃダメですよ! ほ、ほらほら意志がまだ残ってるなら私のわき腹の辺り触ってください! もし今先輩の身体を動かしてるのが浮遊霊さんなら、全裸になって肉体美を見せつけながら盆踊りを――う、ひゃい!! な、何するんですか先輩!?」


 無茶苦茶なことを言い出した後輩のわき腹を軽く小突く。

 どさくさに紛れて何を脱がそうとしてるんだ。


「もおー無事じゃないですかー。ただの先輩じゃないですかー。心配して損したぁ」

 ぷくっと頬を膨らませて、後輩は俺の腕をさらに強く引く。


 見上げてきた彼女の額には、ミルクティーブラウンの前髪が汗でぴたりと張り付いていた。

 どれだけ騒いで誤魔化そうとしても、風のない夏の夜はじっとりしていて暑苦しい。虫の声に涼しさを感じても、体感気温が何度も下がるわけではない。

 今は後輩に付き合って女子宿舎の風呂に向かっているが、俺も風呂に入ってさっぱりしたかった。


「まあでも? はあーよかったぁ。先輩が無事でよかったー」

 軽く息を吐いて後輩が下を向く。長い髪を後頭部でまとめ上げているおかげでうなじが良く見える。彼女の華奢さと浮かぶ汗に不純な感想を抱きそうになって慌てて目を逸らした。


「それにしても、遠いし暑いし困りましたねー」

 手をうちわ代わりにしてぱたぱたと扇いでいるがあまり効果は無かったらしい。顔をしかめて、後輩は自身のTシャツの首元に手を掛ける。


「ひゃあーあづーい」


 胸がこぼれるかと思った、というのはさすがに大げさだが鎖骨から続く膨らみが僅かに視界に入る。素肌に微妙な風を届けようと、彼女はぱたぱたと左手を動かした。

 その間も俺の腕を抱きしめたままの右手で襟ぐりを伸ばしているので、覗き込めば全部まるっと見えてしまう。

 後輩の行動のせいで、俺はさっきから顔を逆に向けたままだ。


「あっれー? あれあれあれー?」


 何かに気が付いたらしい後輩が、にやけた声を上げる。

 表情は確認していないが間違いない、これはにやけている。


「せーんぱい? どうしたのかなー? 私から視線を逸らしてるのはどうしたのかなー? ねえねえせんぱーい?」


 こいつは確実にわかって言っている。


「もしかしてー、胸元ちょっと見えて興奮しちゃったんですかー? やだー先輩って純情ー? え、え? これだけでー? うそお。可愛いところあるじゃないですか……って、っうひゃほい! き、急にわき腹触らないでくださいよぉ!」

 反応するならわき腹にしろと言われたから故の抵抗だ。


「も、もうからかって悪かったですーごめんなさいですよぉ。あーびっくりした……私わき腹弱いんですからねー! はぁーくすぐったかった!」

 ざくざくと短い野草を踏みしめ、後輩は誤魔化すように歩くのが早くなる。


「もぉーなんなんですか。これでもダメですかー。はー先輩ってほんと……ひ、びひゃいっ! ちょっとわき腹ぁ! 違います違います! 先輩の存在がダメダメって言ったわけじゃなくて! こっちの、こっちの話です! ごーめーんーなーさーいー!」


 生意気な後輩を軽く懲らしめ、俺は無言のまま彼女の歩幅に合わせる。

 土と柔らかな草の上をサンダルで押さえつける足元の感覚に、質感が違う物が混ざり始めた。砂利というかこれは砂か?


「あ、宿舎の屋根見えてきましたよー! やった着いた! ってあれ、何か音しません?」


 僅かにだが、水の音がする。

 一定の間隔で押し寄せるざあざあという覚えのある環境音。


「波の音ですよこれ! こっちにもビーチあったのかな?」


 昼間に遊んでいた大きなビーチは、夕食後に飲み会をしていた集会所の近くだ。

 この辺りの案内図には男子用宿舎や女子用宿舎はあっても遊べる砂浜の絵はなかったはずだ。


「……ちょっと行ってみません?」

 風呂はどうした、とツッコもうとして。


「ね? ちょっとだけ」

 再び後輩の指先に言葉は止められる。


「ほら、女子宿舎のところぼんやりと明かりがついてる……だから先輩は静かにしないと」

 彼女の声が近くで囁くように変化した。


「黙って一緒に来てくれたら、いいものあげますから」


 身長差のある後輩が俺を見上げて首をかしげる。

 女子宿舎の少ししかない光に照らされて、彼女の瞳が怪しく瞬く。


「ね?」


 誘われるように手を握られて、俺は思わず脇道へと歩き出してしまった。

 それもこれも、いつもと違う雰囲気の後輩に何故だか逆らえなかったからなのだが――。




「やったー海だあー! 先輩見てくださいよ! ちっちゃい入り江ですぅ! ひゃっふうー!!」


 少しミステリアスな感じさえした後輩の喋りは、秒で瓦解した。


「これもう、プライベートビーチみたいじゃないですか!? ひゃっふーこのでっかい海は俺のもんだぜ! みたいな? ねぇねぇせんぱーい!」


 女子宿舎の裏側という、何で昼間は気が付かなかったんだという距離にその砂浜はあった。岩場と木々に囲まれ狭いスペースしかないが、数人で楽しむならゆったりできそうな場所だ。


「あ、お口はチャックのままですよー。こんなところで先輩が大声で喋ったら休んでる女子たちに絶対気付かれちゃいますー」


 相変わらず無言を強いる後輩に呆れて、特に言うこともない。

 アルコールは摂取していたが無茶な散歩のせいで、だんだんと酔いも醒めてくる。


「ほらほらー先輩、海水ですよーしょっぱいですよー」

 俺の手を引いて波打ち際までやってきた後輩は、おしゃれなサンダルを脱ぎ捨ててざぶざぶと海に入って行く。


「ひゃっ冷たいというか、生ぬるいというか変なのー!」

 数歩先の位置で、腰をかがめて後輩が手の平を海水に浸している。


「あ、きもちーかも」

 波の流れに従う様に手をぶらぶらさせて、塩水をすくっていた。

 彼女の無邪気な声と優しい波音が夜の空気に溶けていく。


「ほらほら、先輩! お話はめっですけど、大学生らしく大はしゃぎして海で遊んでもいいんですよ! 昼間はほとんど荷物番だったじゃないですか!」

 後輩は俺があまり遊んでいなかったことを気にしていてくれたらしい。


「ほーら、塩水だぞ~」

 当然のことを言いながら、少量の海水をこちらにかけようとする。


「えい!」


 びしゃっ、と俺の着ていたTシャツからズボンに染みが広がる。

 ちょっとした戯れのつもりだろうが、まあまあの量の水分をぶつけられていた。


 やりやがったな、後輩よ。

 つまりやられる覚悟もできてるわけだ。


「あ、あーと、ほら! 今のすっごく学生っぽかったですね! え、えい!お水かけちゃうぞ! みたいな。……う、ひ、ひゃいっ! や、やめっつびゃっ、ごめんなさいごめんなさい! サイレント海水かけはやめてください! あ、びゃっ口に入ったぁー!」


 山と海に囲まれ穏やかでじめっとした夏の砂浜で、ひとり祭りでもしているのかと疑いたくなるほどの勢いで後輩が騒いでいる。


 元気だなこいつ。

 昼間に泳いで水鉄砲バトルで走り回り夕食も率先して手伝いしかも酒飲んで他のサークルメンバーの世話までしていたのに。HPの総量がえぐい。


 俺は時折力を抜きつつ遊んで食べて飲んでいたのでほどほどの疲労で済んでいるだけだ。だって明日もまだまだ遊ばないといけないのに、1日目で体力全ベットはできない。

 だからそんな様子が『ほとんど荷物番』に見えたんだろう。他にも仲良くしているサークルメンバーはいるだろうに、俺のことまで気にしているとは良いやつだ。


 と、思っても突然海水を浴びせられたのは納得してないのでやりかえしておいた。


「うばぁー……洋服べしょべしょになっちゃったじゃないですかぁー」

 自業自得だというのに批判的な目で後輩がこちらを睨む。


「べぇーしょっぱいー……まあ今からお風呂入るし、別にいいんですけどぉ」


 俺の背後にある宿舎の建物に取り付けられた外灯が、うっすらと彼女の姿を照らし出している。


「私先輩のことここまで濡らしてないじゃないですかー、もぉーやりすぎで……あっ」


 下を向いて自身の服装を凝視した後輩の顔がさっと赤く染まった。

 色のついたTシャツのおかげで透けてはいないが、海水がかかったせいで身体のラインに沿って洋服がぴっちりと張り付いている。


「あ、あの、あの十分満足しましたよね!? 可愛い後輩と2人っきりで夜のビーチで遊べてすっごく楽しかったですよね!? やったあいい体験できましたねぇ! ということで行きましょう。今すぐ宿舎に行くべきです! ……あんまりこっち見ないでくださいね! 何でもないですからー、全然何でもないですけどー? ちょっとこっち見ると呪われる可能性もあるかもなので!」


 急に俯いた後輩は慌ててサンダルを履いた。そして俺の手を掴むと速足で浜辺を後にする。彼女に連れられ勢いよく歩き出したせいで、細かい砂が足とサンダルの隙間に入り込んだ。


 楽しそうにやって来たわりには、あっさりと踵を返す後輩に少し驚く。

 おそらく濡れてしまって体形がはっきり見えていることに羞恥を感じてしまったのだろうが、正直今更だ。

 先程自分から胸元をちらりと晒してからかってきた時は、恥ずかしがってはいなかったのに。自分からやる分には問題ないが、咄嗟のハプニングには弱かったりするのだろうか。


 ざくざくと砂と草が合わさった足音を立てて、俺の前を後輩が歩く。

 宿舎の外壁に設置された明かりのおかげで、耳の辺りが真っ赤に染まっているのが後ろからでもはっきりわかった。


「は~、た、楽しかったですねー海! あ、外の水道で足洗いましょうー。海水で先輩もべたべたですよね」


 到着した女子宿舎は静まり返っていた。玄関横に設置された水場でざばざばと砂や海水を流す。


 散々おばけが怖いだの道が暗くて先輩がいないと無理だのと言われてここまで付き合ったが、これで任務終了ということでいいだろう。

 他のサークルメンバーの女子に見つかるのも嫌なので、黙ったままひらひらと手を振って男子宿舎の方へ帰ろうとした俺を阻んだのはまさかの後輩だった。


「ま、まさか先輩このまま帰るつもりじゃないですよね……?」


 どうしてか驚愕の表情を浮かべる後輩は、俺のTシャツの端を握ると思いっきり建物の中へと引っ張った。

 心なしか小声になっている。


「何のために呼んだと思ってるんですか!? 見てくださいよ! この現状を!」


 女子宿舎の中へ踏み込んでしまった俺は、暗闇の中少し雰囲気のある玄関から廊下への内装をばっちりと目撃してしまった。

 光源は外の外灯のみで室内の電気は消されている。通路の奥からは微妙に光が漏れてきているので電気を付けたままの部屋もあるようだ。外から見た時に明るかったのはそこだろう。


 とにかく大事なこととしては、薄暗い入り口周辺が『あれ』っぽいことだ。


「どーーみても、廃墟風お化け屋敷じゃないですか!? 外観の綺麗さに女子メンバーでわぁとか言ってたら、中入って照明変えたらこれですよ!? 天井付近は蜘蛛の巣張ってるし穴開いてるし廊下歩いたらギシギシ言うしぃ! 寝る場所と風呂場はリフォームしたらしいので中途半端に綺麗なんですけど、その落差が逆に怖いんです!! ホラー演出でよくあるじゃないですか、綺麗な洋館で過ごしてたと思ったら実は廃墟だった! とか!!」


 声のトーンを落としたまま後輩は若干の涙目で必死にまくしたてる。


「こんな所にいられるか私は1人で風呂に戻らせてもらう! みたなことできるわけないじゃないですか!?」


 そこで彼女は、建物に入ってすぐの左側にある扉を指差した。


「ひとりきり響くシャワーの音、髪を洗っている時に感じる誰かの視線と気配……とかなっちゃったら耐えられないし子どもみたいに大泣きする自信があります。先輩頼みますから、私がお風呂から無事に生還できるまでいてください! あそこお風呂場です! たった数歩ですよ数歩歩いた先に目的地は在りますから、もうちょっとだけ付き合ってくださいよぉ! ねぇ!?」


 既に寝ているサークルの別のメンバーを気遣ってか声量は絞ってあったが、それでもわかるほど後輩は必死だった。俺のTシャツを握る彼女の手が心なしか震えている。

 予想外の弱々しさに溜息を吐いた後、俺はゆっくりと頷いてやった。

 この後の予定は風呂に入って寝るだけだ。数十分ぐらい遅れたところで別に大したことはない。


 だから俺は『ちょとだけ付き合ってくださよ』の意味を十分理解しきる前に了承してしまったとも言える。


「あ、頷いてくれましたね。心の先輩録画機能にばっちり残しましたから今更嫌だって言っても聞きませんからね! そこでちょっとだけ待っててください!」


 俺の返事を確認した途端、建物の奥へと真っすぐ続く廊下を後輩は走り出す。

 そして数分も経たない内にバスタオルなどを持って玄関へと帰還した。


「あーー怖かった! さ、先輩行きましょう! お風呂の見張りタイムですよぉ~。夏の深夜しかも水場というホラースポットから先に逃げたりしたら恨みますからね~。絶対にぜーったいに逃げないでくださね。約束ですよ!」


 古そうな引き戸を開けて、押し込まれた先は脱衣所だった。

 中にある洗面台や風呂に続くドアは比較的新しく清潔感がある。後輩は荷物を手短なカゴに放り込むと、引き戸を閉めて俺をぐるりと回転させた。


 結果、閉じられたばかりの木製の脱衣所のドアと見つめ合うことになる。


「じゃあ先輩はそこにいて、静かにしててくださいね。廊下で待ってて他の女子メンバーに見つかっても困りますし、外にいられたら私の怖いが軽減されないので」


 直後、ばさりと何かが床に落ちる音がする。

 ぺたぺたと素足を動かす音と、衣擦れの音。


 ようやく思考が動き始める。

 酔いはだいぶ醒めたと思っていたが、こんな事態に直面するまでヤバいと止まらなかったのでまだまだ酔っていたのかもしれない。


「あ、ちょっと頭が動きましたよ先輩! こっち向いたらダメですからねー。……今私服着てないので」


 風呂に入るのだから、つまりそういうことだ。

 気のせいかもしれないが、後輩の声にも若干の恥ずかしさが滲んでいる。


「はぁー、すーすーする」


 カゴが動く音と棚を開閉する音。

 身体を固くした俺に、ゆっくりと彼女の足音が近づいていた。


 背中に触れるか触れないかの位置でおそらく後輩が立っている。

 右腕辺りに手を置かれ、俺はびくりと身体を揺らした。

 僅かに笑う気配がして、耳元でそっと囁かれた。


「じゃあ私、お風呂に入るのでここでおばけが来ないか見張っててくださね。先輩が何考えてるか知らないですけど、……覗いちゃだめですよ?」


 反射的に否定しそうになって、慌てて口を押える。


「えらーい。ちゃんと静かにできましたねぇ」


 吐息交じりに褒められた後、後輩がすっと俺から離れる。

 遠ざかっていく足音の後、ガチャリと風呂場のドアが開く音がした。


「はーいOKでーす! もうこっち見ても大丈夫ですぜ! せんぱーい!」


 振り返るとドアを完全には閉めずにできた隙間から後輩が顔を出している。

 ニコニコと満足げに笑って俺にウインクして見せた。


「何かに耐える先輩すっごく可愛かったですよー! お風呂のドア開けたまま話しかけ続けるので頼みますから聞いててくださいね!? ね? あと、脱衣所の入り口引き戸なんで鍵とか無いんですよぉ。だからそこで座って押さえててくださいー。 誰かが寝ぼけて入って来て私が先輩を連れ込んでるのバレたらまずいので!」


 そう言って後輩の顔が風呂場に引っ込む。

 だが俺と彼女を隔てるドアは曇りガラスになっているので、うっすらと肌色の身体が透けて見えた。


 シャワーの音と軽い鼻歌が聞こえる。

 入った場所のせいか、後輩の声にはエコーがかかっており柔らかく声が響いていた。


「ふぁー、お湯気持ちいいー。シャワーさいこー!」


 彼女はのんきに入浴時間を楽しんでいる。


 俺は一端身体の力を抜くとずるずるとその場に座り込んだ。

 脱衣所と廊下の間の引き戸を背もたれにしたので、突然誰かが開けようとしても止められるだろう。


 それにしても何でこんなことになった。


 怖いから女子宿舎まで来てほしいと言われ、気が付いたら風呂まで付き合わされていた。

 冷静になれば、これ俺が風呂までご一緒する必要あったか!? という気分にもなる。


 まあ夏休みだしで緩んだ感覚とアルコールによる判断力の低下のせいだろう。

 加えて、ちょっと認めるのは癪だが下心があったのもある。


「うへへへ、このお風呂いいボディソープ置いてるじゃないですかぁ。はちみつみたいな甘い匂いするー。いえーい。おばけなんていないしーこわくないしー。ねー先輩、いますよねいますもんね、むっちゃそこにいますよね? 声出さなくていいんで、面接直前の就活生ぐらいの緊張感ある感じで床のこと大切な未来へ続く何かしらだと思い込んでノックしてもらっていいですかー? お返事聞きたーい!」


 問題はこれなんだよなぁ。


 後輩の容姿はかなり整っているので最初の内はサークルの男子人気もあった。しかし、付き合いが長くなると滲み出てくるめんどくささがどうしようもない。

 絶妙にうっとおしいと可愛いが混在しているのだ。


 俺は諦め半分で軽く脱衣所の床を叩いてやった。


「おおう、初々しいノックですねぇ~」


 お前に俺のノックの何がわかるっていうんだ。


 また鼻歌を歌いながら身体を洗い続けているのが、曇りガラス越しに伝わってくる。話しやすいようにドアは少し開けられたままなので、風呂場のタイルを叩く水音がクリアに聞こえた。


「ふふ、先輩は付き合い良くてやさしーですよね。本当に一緒にここまで来てくれてありがとうございます」


 ふと、シャワーの音が止まる。

 どうやら身体を洗い終わったらしい。


「昼間海で遊んでるときだって疲れてないか心配してくれるし、さっきの飲み会の時も飲み過ぎてないか声かけてくれたし」


 優しく穏やかな声が感謝を述べてくる。

 急に褒められだして、俺はどうすればいいのか戸惑った。


「そういうところが、私――」


 後輩が立ち上がったのが、動きでわかる。


「……す、……ぁ、ぴゃッ!!!」


 カコーンという小気味の良い音が風呂場と脱衣所に響く。おそらく洗面器が床に落ちて転がっているのだろう。

 風呂場の壁に手を付く後輩の姿がドアの隙間越しに見えた。


「う、あっ、あぶなーー!! びっくりした! 風呂場で滑って転んでたどり着く最悪の未来が脳内を駆け巡りましたよ今!! おばけですか!? それとも妖怪風呂入り人間転ばし太郎ですか!? こわっ!!」


 どう考えても後輩の不注意で転倒しかけたのだろうが、無事らしく安心する。

 俺は座ったまま胸を撫で下ろしかけ――。


 コンコン、と木製の何かを叩く軽いノックの音。


 いや、木製の何かではない。俺の背もたれだ。具体的に言うと女子宿舎にある廊下と脱衣所を隔てる引き戸だった。

 ぱたっと後輩のおしゃべりが止まる。


 まずい。誰かやってきたのだ。


「は、は~い! 入ってまーーす!?」


 すぐに、風呂場から後輩が飛び出してくる。

 俺は一瞬ぎょっとしたが、幸か不幸か彼女は胸元までしっかりとバスタオルを巻いて身体を隠していた。

 そして。


「びゃッあ!!」


 転んだ。

 見事に転んだ。


 風呂を出て真下にあるバスタオルに足をひっかけ、彼女の体勢が傾いていく。

 危ないと思った瞬間に、俺はもう腕を広げていた。


「あうっ!」


 後輩は予想外の感触に驚いたような鳴き声を上げる。

 狭い脱衣所の床上で、俺は彼女の全体重を受け止めていた。


 重さを感じるよりも、柔らかい何かが顔を覆っていることに混乱する。

 何とか上というか後ろを見ようとして、引き戸が開きかけているのに気が付く。

 俺と同じようにヤバいと思ったらしい後輩が、そのままの姿勢で両腕だけを出し扉を押さえた。これ以上開けられると困る。


 廊下側から、同じサークルメンバーの女子が心配そうに声を掛けてきた。


「す、すみません! 何でもないんです! ちょっと転びかけちゃって!」


 かけてない。転んでいる。

 だが後輩の言い訳にツッコミを入れる余裕もなく、俺はその場で唾を飲み込んだ。


「いま、全裸ですっごく、すーっごく恥ずかしい格好してるんです! だから開けられると恥ずかしすぎて無理っていうか! あ、はい怪我とかはないです、大丈夫ですから!」


 彼女が俺の上で話す度に、柔らかい何かが揺れている。

 先程までシャワーを浴びていたせいか、後輩の身体は熱を持っていた。まだ拭き切れていないお湯がバスタオルを通してじんわりと俺の服へと染みていく。

 夜の森を歩いていた時にはざっくりとまとめられていたミルクティーブラウンの髪はいつの間にか下ろされていた。毛先からゆっくりと雫が落ちて俺の肌を濡らす。


「はぁー、……よかったぁー」


 廊下を遠ざかっていく足音と後輩の安堵した声。

 どうやら最悪の事態にはならなかったらしい。


「先輩がいることバレちゃうかと思いました……ふぅ……」


 緊張から解放され気が緩んだのだろう。

 後輩は目の前にあった物に抱き着いた。つまり、俺の頭だ。


 さすがに色々と当たり過ぎて大変だし、密着され苦しいので文句を言おうとしたが。


「ん……はっ……しまっ」


 がばっと後輩が慌てて上半身を起こす。

 そして、文句を言おうと開きかけた俺の口を見て、両手で塞いできた。


 バスタオルはもうほとんど外れかけている。

 俺の胸元に後輩は自分の胸を乗せている体勢で、ぎりぎり危ない部分は見えていない。


「せん、ぱい」


 至近距離で聞く彼女の声は少し掠れていた。


「い、今喋らないで、ください。この距離はちょっと」


 風呂に入ったせいか羞恥のせいか後輩の顔は真っ赤に染まっていた。


「……私、先輩の声……苦手なんです。その嫌って意味じゃなくて。優しくてくらくらするっていうか。サークル活動の時に後ろから近くで話しかけられるとぞくって、して。調子、おかしくなっちゃう」


 彼女の発する一言一言が、どろどろと耳へと流れ込んでくる。


「女子宿舎が近いから静かにって言ったけど、本当はあんな近くにいたのに傍で喋りかけられたらどうしようって思ったから……もっと緊張しちゃうし」


 どくどくと心臓が高鳴る。

 しかしそれは俺とくっついている後輩も同じのようで、お互いの鼓動が早いのを感じ取れているはずだ。


「せ、先輩の声、好き、だから」


 途切れ途切れに、彼女が気持ちを吐き出す。


「声だけじゃなくて、優しくしてくれるところとか、全部。――好きです。好きなんです、せんぱい」


 最初よりも更に顔を赤くして、追い詰められた表情で好意を伝えてくる。


「あ、へ、返事はその、無理なら無理って言ってください、もう小声なら喋っていいですから! もし、そのおっけーなら、私のわき腹でも適当に突いて……わ、ひっ!」


 可愛らしく、素っ頓狂な悲鳴が漏れる。


 非常に悔しいことだが、答えはもう決まっている。

 というかそうじゃないとこんな場所までわざわざ付いて来ない。


「え、ええ!? 今触りましたよね!? 私のわき腹の辺りいやらしい感じの手つきで触りましたよね!? あ、ほんとに!? へー、ふぅーんそうなんだぁー」


 不安そうだった後輩の顔はすっかり明るくなる。

 いつもの元気でめんどくさくてどうしようもない感じにばっちり戻った。

 しかたない、選んだのは俺だ。


 後輩はにやっと嬉しそうに笑うと、Tシャツの上から俺の胸のあたりに手を置いた。

 するすると撫でて誘うような声を出す。


「私のせいで、先輩濡れちゃいましたね……汗とか海水とかお湯とか。べっとりしちゃって気持ち悪いですか? すっきりしたいですよね」


 そして、彼女は色っぽく微笑んだ。

 俺の耳元で、甘く香るはちみつみたいな、とろける声で問う。


「どうします? ……一緒にお風呂入って行きます?」






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