#5 -ハムド-橙閃の猛蜂- 2

 

「参りましたねー」


 ガラスを蹴破りビルの一室へと飛び込んだヒューズは、ガラスと調度品の破片にまみれながら独りごちた。

 装備に損傷が無いか確かめながら、破片を払いのけて立ち上がる。

 上空からの狙撃を回避するためにヒューズが咄嗟に飛び込んだのは、飛び立ったラウンジから見てワンフロア下の階。A級以上の高位ランクの傭兵に充てがわれた私室のひとつだった。


「アーノルドの部屋で無くてよかったですねー。彼の私物を壊したら何て言われるか……」


 先の戦闘I.P.E.強襲戦における功績を認められAランクに昇格した友人の怒った姿を想像して苦笑しながら、ヒューズは頭を“戦闘モード”に切り替える。

 “彼”は相当な手練だ。先ほどは安い挑発に引っ掛かってくれたが、次はもう通じないだろう。

 彼我の戦力差、武装、得手不得手を考慮し、脳内で戦術を組み立てていく。


「何にせよ、ブラストと合流するのが最善ですねー」


 ヒューズが出した結論は、共闘者との合流。空中からの高機動高火力で敵を翻弄するヒューズと、対個人、特に閉所での暗殺を得意とするハムドとの相性は最悪と言ってもいい。

 となれば数的有利でもって戦力差を覆すのが、今の彼にできる最善手だった。


 先ほどの戦闘で消費したハンドガンの弾丸を補充し、ホルスターへと戻す。

 戦闘に特化したサイボーグ集団であるVoidに対し、拳銃弾の初速では命中させることは至難の技だ。当てる事は難しくとも目眩し程度にはなるだろうと、手札を増やすためにヒューズは装備を整えていった。


 それと同時に、ブラストへの通信も試みる。通常の回線では敵に傍受される可能性が高いため、“イヅナ”の一部の兵士しか知り得ない秘匿回線を用いた暗号通信だ。


『これも、昔取った杵柄になるんですかねー? ……っと、聞こえますか? 私です。ヒューズです』

『あー、はいはい、聞こえてるぜ。こんな古い回線使うとは、考えたじゃねぇか。……んで、今はお空をお散歩中か?』

『そうしたかったところですが、どうも彼ら、屋上に狙撃手を用意していたようでしてねー。残念ながら今は同僚のお部屋にお邪魔してますよ。貴方は今どちらに?』


『俺か?』と言ったブラストの返答は、風切り音と銃声。そしてぶち破られたガラスの奏でる不協和音。


建物の……あー、わりぃ。階層はわかんねーな。それと、今ブチ割った窓ガラスの請求書、VoidΔ隊長サマ宛で頼むわ』


 こんな状況ですら軽口を絶やさないブラストに、ヒューズはマスクの奥で口元を僅かに緩める。



『それにしても表向きB級傭兵1人を相手にVoid一個小隊がお出ましってアンタ、マジで何やらかしたんだ?』

『RAY.D.FUSEとして狙われる理由に心当たりはありませんねー。……あるとすれば』

『……俺たちが揃うタイミングを狙った、ってか?』


 突如として2人の前に現れた『鎧の男』ならば、何らかの方法でこの会談を察知し刺客を差し向けてもおかしくはない。

 無論、それは『鎧の男』がブラストとヒューズを抹殺したいという意志がある前提の話であるため、推測の域を出ない程度の仮説ではある。

 これほどの戦力を投入される理由は依然として不明だが、『鎧の男』の存在を知る者を生かしてはおけないというならば、過剰戦力でもって殲滅するというやり方も納得がいく。

 そう判断したヒューズは、ブラスト問いかけに是と答えたのだった。


『傭兵としてお金にならない仕事をする気はありませんが、『鎧の男』に繋がるなら話は別です。彼等から情報を提供して頂くことにしましょう』

『だな。勢い余って仕留めち――んじゃ――?』

『どうしました……?』


 突然通信に混じり始めた不快なノイズの音に、ヒューズは思わず顔を顰める。それはブラストも同じだったようで、通信機の向こう側から大きな舌打ちが聞こえてきた。


『もしか――ら、Voi――――のジャミングか――ねぇ』

『ジャミング……? なるほど。あまり長くはお喋りさせてもらえなさそうですね』


 懐から取り出した携帯端末を手早く操作しブラストにビル内部の見取図を転送すると、自身は部屋を出て廊下を走り始めた。


『今、貴方の個人用アドレスにビルのフロアマップを転送しました。1階のエントランスホールで合流しましょう』

『――ンキュー。アンタ――ぜい気を――――な!』


 通信の半分以上がノイズによってかき消される中、威勢の良いブラストの返事が聞こえた。

 更に言葉を続けようとした次の瞬間、突如としてビル全体を軋ませる地鳴りのような轟音がヒューズの鼓膜を震わせる。


『――おいおいマジかよ』


 耳障りなノイズの中、やけに明瞭に聞こえたブラストの呟きを最後に、2人を繋いでいた通信はブツリと途切れてしまった。

 遠雷のように木霊する銃声が、ブラストとVoidチームの戦闘が始まったことを確信させる。

 皮肉な話だが、下の階から聞こえてくる銃撃戦の応酬がブラストの生存をヒューズに伝えていた。

 次第に遠ざかっていく遠雷のような銃声に耳を澄ましつつ、自身もブラストに転送したものと同じフロアマップをグラスのUIに表示させてルートを検討し始める。



「今は、彼の無事を祈るしかありませんね。さて……」


 ルートの検討を終え、そう呟きながらエントランスホールに向かう為にヒューズは踵を返し――。




「残念だけど、君はどこにも辿り着けないよ」




 不意に、ヒューズの背後から言葉が投げかけられる。

 直前までヒューズのいた位置の真上、廊下の天井部に設けられたダクトスペースに、ハムドが身を潜めていた。

 細く不安定なダクトの上に屈み込み仄かに発光する山吹色のシルエットとも相まって、異様な程の不気味さを醸し出している。


 廊下の先へと歩を進めていたヒューズは、その声に反応してピタリと足を止めた。


「……盗み聞きとは、随分と悪趣味だな。訓練ばかりで礼儀は教わらなかったか、小僧?」


 振り返りもせず、低く殺意のこもった声で発せられたその一言が、静まりかえった廊下に響き渡る。


「……人聞きが悪いなぁ。僕たちは諜報活動スパイも仕事の内なのさ」


 ヒューズの殺意を意に介さず、むしろ小馬鹿にするかのような声色で、暗殺者はその問い掛けを嘲笑った。




 飄々とした態度を一変させたヒューズは、背部スラスターの推力をも利用して高速反転。猛禽を思わせる鋭い眼光でハムドを睨み付けながら双銃のトリガーを引き絞る。二丁合わせて40発の銃弾が一息に撃ち出されハムドに襲い掛かった。

 ハムドはその身を翻し跳躍。落下の勢いをそのままに身体を回転させ、迫る銃弾を回し蹴りで無造作に蹴り払うと、更に身体を捻って腕に装備されたブレードを展開。ヒューズの首を刈り取らんと振り下ろす。


 突き出された銃身と山吹色に煌くブレードが激突。刹那、火花を散らして金属を削るような不快な音を立て始める。

 両者の視線が交差する。一つ目を模した不気味なマスクの下で、ハムドが唇の端を吊り上げるのをヒューズは見逃さなかった。

 舌打ちと共に外骨格アーマーの出力を急上昇させて、握りしめた拳銃ごとハムドの攻撃を受け流す。空中で真っ二つになった愛銃の片割れを一瞬だけ名残惜し気に見ながら、ヒューズはスラスターを噴射させ着地したハムドを飛び越えて廊下を駆け抜けていった。


 着地姿勢から立ち直ったハムドは、バイザーに内臓されたセンサーを起動させながらヒューズの消えた先を見やる。


「ふぅん……。あくまで逃げに徹するってワケ? だけど、僕もそろそろ温まってきた頃だ。どこまで逃げ切れるか見せてもらおっかな!」


 笑みを浮かべながら呟いたハムドは展開していたブレードを格納し、両手を床に付けてしゃがみ込む。

 片脚を伸ばして身体中の筋肉を引き絞るその姿はまるで、陸上選手に見られるクラウチングスタートのような姿勢。

 大きく息を吸い込み肺に目一杯酸素を取り込んだハムドが、ギリと歯を食いしばる。


 ――瞬間、山吹色の燐光が爆ぜた。


 その光景を見る者がいればそう錯覚しただろう。背部リアクターが輝きを増すのと連動して、ハムドは引き絞っていた筋肉を解放させた。

 戦闘用サイボーグの全力の踏み込みを受け止めた床は陥没し、周囲に破片を撒き散らす。

 リアクターの光を反射した破片が煌々と輝き、周囲一帯を山吹色に染め上げる。

 逃走したヒューズに勝るとも劣らない速度で駆け出したハムドは、凄まじい勢いで廊下の曲がり角へと消えていく。

 一層輝きを増した背部リアクターの残光だけが、しばらくの間影法師のように暗い廊下に残り続けていた。


 リアクターによる光の尾を引かせながら、ハムドは廊下を駆け抜ける。

 先ほど起動させた熱源や風の流れを可視化するセンサーは、ヒューズが通った道筋を正確に暴いていた。


 サイボーグ化された下半身の姿勢制御を半ば無意識の内に行いながら、ハムドは背中に背負っていたサブマシンガンを手に取る。

 銃の名称は【スターリングMk.ⅩⅢ】。ハムドが産まれる数百年以上も前の型の銃をモデルに、特に消音と軽量化、そして安定した弾道に重点を置いて改修を施したハムドの愛銃だ。


 バイザー内部に映し出されたビル内部のフロアマップは、次の曲がり角を超えた先がすぐ非常階段に通じるドアであることを示している。

 もし待ち構えるとするならここだろうと、ハムドはあたりを付けていた。


 だが、待ち伏せを想定しているはずのハムドは敢えて速度を落とすことなくその曲がり角へと差し掛かる。

 肩に押し当てた銃を構え、半ば飛び込むように踏み込んだ。その刹那。猛烈な速度で振り抜かれた斬撃が、まるで飛燕のようにハムドの首を断ち斬らんと飛来した。


 下からの斬り上げは、しかし反射的に構えていた銃を自身と刀の隙間に突き出したことによって致命の刃足り得ることは無い。

 ハムドの抵抗は一瞬。銃身で受け流すように躱した斬撃は、それでも銃身の先端に取り付けられたサプレッサーを斬り飛ばす。

 その勢いは斬鉄だけでは留まることを知らず、刀身の半ばまでを壁面に食い込ませていた。


「チィッ!」

「シァアッ!」


 漏れ出た舌打ちはどちらのものか。仕留め切れなかったことを認識した者と、防ぎ切ったことを確信した者。刹那の攻防を制したのは、ヒューズ渾身の一撃を凌いだハムドだった。

 斬撃を受け流した不安定な姿勢のまま脚を振り上げ、がら空きになったヒューズの胸部に蹴撃を見舞う。

 強化外骨格アーマーの上からとはいえ、戦闘用サイボーグの蹴りの直撃を受けたヒューズは苦悶の声を漏らす。

 壁に食い込んだ刀から咄嗟に手を離し、スラスターを吹かして背後に飛んだものの衝撃を完全には殺しきれなかったのだろう。空中で胸を抑えながら苦しげに顔を顰めた。


「傭兵さん、いったい何者なの? 今の太刀筋といい僕の蹴りの対処法といい、B級傭兵のレベルじゃないよね?」

「……それはどーも。実力を知ってもらったところで、今日はそろそろお引き取り願えたりしませんかねー?」

「君の首を差し出してくれたら、すぐにでも」


 痛みを噛み殺すかのように、ヒューズは必死に肺に酸素を送り込もうとする。

 だが、そんな暇さえ与えまいとハムドの【スターリングMk.ⅩⅢ】がヒューズ目掛けて火を噴いた。

 半ばから切断されサプレッサーとしての機能を消失した銃口から、マズルフラッシュを閃かせながら銃弾がばら撒かれていく。


「チッ、Voidの方のしつこさは昔も今も変わりませんねぇ。ですが……ッ!」


 小刻みなステップとスラスターの噴射による変則的な機動、そして腕に纏った強化装甲服をかざして急所への銃弾を弾きながら、ヒューズは急速旋回。

 サブマシンガンの掃射を浴びつつも致命傷に繋がる傷だけは躱しながら、ヒューズは非常階段へ続くドアのロックを銃弾で撃ち抜き無理矢理解錠する。

 開いたドアに身体ごとぶつかるように飛び込むと、大きな音を立ててドアが閉められた。


「非常階段……集合場所への最短距離、か。なるほど考えたね」


 2人を分断した金属製のドアを憎々しげに睨め付けながら、ハムドはリロードを終えた【スターリングMk.ⅩⅢ】を背負い直した。

 逡巡しながら呟いたハムドは義足の調子を確かめるように爪先でコツコツと床を叩く。

 続けて緊張をほぐすために首をひと回ししていると、背部リアクターが更に輝きを増し始めた。

 身体中に漲る活力にその身を一度震わせると、熱くなった吐息をほぅと吐き出す。


「でも、もう追いかけっこは終わりだ。そろそろ決めさせてもらうよ、傭兵さん?」


 言うが早いか、ヒューズを追って非常階段へと続くドアの向こう側へと踏み込んだ。

 閉じられたドアを体当たりでぶち破り、踊り場で身体を一回転させて体勢を整えたハムドは胸のホルスターから拳銃を抜き放って周囲を窺う。

 必要最低限の広さに作られた非常階段をぐるりと見回すが、ヒューズの姿は無い。

 非常灯のみが金属製の階段を薄暗く照らす中、耳を澄ませば下方からスラスターのエンジン音が聞こえてくる。足止め用の罠の一つでもあるかと警戒したが故のハムドの行動だったが、結果としてはヒューズに猶予を与えてしまうこととなった。


 しかし、それは同時にヒューズに精神的余裕が無いことの表れでもある。そう判断したハムドは、更に速度を上げて階段を下り始めた。

 時には壁や手すりさえも己が駆ける道として、エントランス目指して逃げるヒューズを追う。


「見えた……!」


 幾ばくかの階層を下り、遂にハムドは背部スラスターの噴炎の残り火をその目に捉える。

 マスクの下で笑みを浮かべたハムドは床を、そして壁を蹴り中空になった階段の中央部に飛び込むと、腕力だけで手すりを掴んで強引に数フロア分をショートカット。

 追いかけていたヒューズの前に着地すると、静かに構えるのだった。


「どうやら、追いかけっこは僕の勝ちみたいだね?」

「いえいえ、ゴールはまだ先です。勝負の行方は最後まで分かりませんよ?」

「その言い方……癇に障るなぁ。その減らず口を黙らせてあげるよ」


 苛立ちの混じった声と共にハムドの右脚が唸りをあげて振り上げられる。頭部を狙った上段蹴りハイキック

 先ほどヒューズの胸を打ち抜いた一撃よりも更に速度を増した蹴撃がヒューズを襲うも、辛うじて抜き放った黒刀で受け止める。

 続けざまに軸足を回転させて逆方向から後ろ回し蹴りソバットを繰り出すが、返す刀で斬り払われハムドはほぞを噛む。

 残った一振りの黒刀を上段に構えながら、ヒューズは口を開いた。


「先程よりも早いッ……。それが、貴方の本気だとでも言うのですか……?」

「そう。君も戦士ならサイボーグの適合率、って知ってるよね? 僕はその適合率の上限が常人より遥かに高いんだ。そろそろ身体も暖まってきたし、いつまでも凌げると思わない方がいいよ、傭兵さん?」

「ご丁寧にどうも。さしずめ、今の私は袋の鼠。というところですかねぇ」


 マスクの奥で不敵に笑ったヒューズがスラスターに火を付ける。

 踏み込みに合わせて噴射されたスラスターの推進力も加わった神速の突き。常人では認識することも不可能な速度で飛来したその攻撃を、更に上回る速度でハムドは苦も無く打ち払った。

 軌道を捻じ曲げられた切っ先は空を突き、ヒューズは思わずたたらを踏む。


「もらったっ!」

「まだまだァッ!」


 無防備に伸び切った両腕の内側に潜り込んだハムドは腕部ブレードを展開しその両腕を斬り落とそうと振り上げるが、それは強引に引き戻された右手から放たれた斬撃によって防がれる。

 回避のためにヒューズから飛び退ろうとしたハムドはしかし、凄まじい力で引き寄せられた。

 焦りを覚えて自身に目をやれば、はためく戦闘服の先端がヒューズの左手に掴まれていた。


「捕まえましたよ。アサシン……!」


 貫手の形に構えたハムドの左手が突き出されるよりも尚早く、ヒューズの黒刀が閃いた。


「終わりです」

「どうかなッ!?」


 ハムドの首筋に刃が触れる、まさにその寸前。裂帛の気合いと共に振り上げられたハムドの脚が刀身と交差する。

 一回転して綺麗な弧を描いたハムドの脚によってヒューズの手から弾き飛ばされた刀は、ハムドの頬を掠めて天井に突き刺さる。

 もう片方の手から戦闘服を引き剥がしたハムドは、意趣返しとばかりに引き絞っていた貫手を突き出した。


「今の攻撃を凌ぐかッ……!」


 心臓を狙ったその一撃を皮一枚のところで身を捩りヒューズは回避する。だが、無理な体勢で躱した結果としてその突きは背部スラスターの一部を抉り取り、鈍く煌く金属製の爪は、ヒューズの飛行能力の一端を確かに奪い取っていった。


 追撃を。その意思とは裏腹に、ハムドの身体が付いてこない。酸素を求める浅く早い呼吸音だけが、別の生き物のように口元を動かしていた。

 如何に頑丈に作られた戦闘用の義足とはいえ、度重なる急激な負荷によって躯体は軋みをあげ始めている。

 適合率は高い数値を維持しているにも関わらず、義足から返ってくる反応は精彩を欠いていた。

 背中合わせとなったヒューズも、スラスターに繋がっていた燃料タンクから伸びるチューブを引きちぎられ、液体燃料が止めどなく溢れ出している。

 まるで血液のように広がっていくそれは、空戦を得手とするヒューズにとって文字通り自身の血液に他ならなかった。


 回避した勢いそのままに、破損したスラスターを無理矢理稼働させ逃げ去るヒューズを見送りながら、ハムドは義足の挙動が安定するのを待つ。

 一時的に駆動率の低下した義足の挙動を悟られぬよう油断なく構えていたハムドだが、ヒューズは追撃よりも逃走を選択したため命拾いしたと言えるのだった。

 実際のところは、ヒューズは2本目の黒刀を失いスラスターも損傷し追い詰められている筈なのだが、未だに顔色ひとつ変えない標的の様子にハムドは少なからず恐怖を覚え始めていた。


「ハァ……ハァ……。僕が、怯えている? 錯覚だ。現に、僕は彼を追い詰めている」


 荒くなった呼吸を整えながら、ハムドは己の脚を殴り付けた。

 金属同士のぶつかる音に眉を顰めながらも、ハムドは薄く笑みを浮かべる。彼が装着したバイザー内部のインターフェースには、義足の駆動率が復旧したことを示すアイコンが浮かび上がっていた。


「僕はまだやれる。僕が、負けるわけがない。僕に追い抜けないものなんて、無い……!」


 自分に言い聞かせるように何度も呟いたハムドは疲労した身体に鞭を入れるように、再び逃げたヒューズを追いかけていった。



 非常階段の一階までたどり着いたヒューズは、エントランスへ続くドアにもたれかかるようにして跳ねる心臓を落ち着けていた。

 ヒューズの足元には燃料タンクからこぼれ落ちた液体燃料が大きな水たまりを作っている。

 極度の緊張と破損したスラスターの制御をしながらの降下だったこともあり、胸の動悸が収まるにはまだしばらく時間がかかりそうだった。


「はっ、はは……。ここまで追い詰められるのは、いつ以来ですかねぇ?」


 薄暗がりの中、思わず漏れ出た独白を打ち消すように頭を振りながら、ヒューズは笑みを浮かべて非常階段を見上げる。

 ヒューズの視線の先、階段の踊り場に佇む影がひとつ。山吹色の燐光を纏ったその影が、ヒューズを見下ろしていた。

 最後の武器である拳銃をホルスターから引き抜いてハムドに向けるも、ハムドは興味なさげに肩をひとつ竦めただけ。


「悪いけど、今の僕には拳銃の弾程度じゃ遅過ぎて擦りもしないよ。それと、君はそのドアを開けることは出来ない。僕の仲間が、完全にロックさせてもらったからね」

「あぁ、どうりで。逃げているつもりが、まんまと誘い込まれたということですか」

「ご名答。そして、翼を折られた君はもう逃げられない」


 言い聞かせるようにゆっくりと喋りながら、ハムドは一歩一歩階段を降りていく。

 壁にもたれかかっていたヒューズは腰のホルスターに銃を戻し、ため息と共に両手を上げた。


「ここが私の袋小路デッドエンド、ですか」

「僕も任務だ。見逃すことは出来ない。そうだね……遺言ってわけじゃ無いけど、君の相方に言い残す言葉でもあれば聞いておいてあげるよ」


 ヒューズの次はブラストを仕留める。とでも言いたいのだろう。

 階段を降り切り、ヒューズの目の前に立ったハムドはそう投げかけた。

 特に意味のある行動では無い。ハムドとここまで渡り合ったヒューズという男の最後の言葉くらい聞いてもいいか。という気まぐれ程度のものだった。

 急な提案にヒューズも呆気にとられたのか首を傾げていたが、やがて肩を竦めながら口を開いた。


「お優しい暗殺者さんですねー。もし許されるなら、先にスラスターを外しても良いですか? これじゃあもう飛べませんし、案外重たくて……」

「折れた翼を自分から捨てる……か。哀れだね。良いよ。けど、変な動きをしたらすぐに殺すから」


 ハムドの返答に礼を言いつつ、ヒューズは背中に装備していたスラスターを床に下ろしていく。

 ハムドにしっかりと見える位置に置くと、ゆっくりと距離を取った。


「遺言とは、いざとなるとなかなか纏まらないものですねー。……あぁ、ついでにタバコもよろしいですか? 最期の一服ってヤツです」

「はぁ……」


 この期に及んで命乞いをするでもなく、落ち着いた態度のヒューズに呆れとも感心とも取れる感情を向けるハムド。

 ハムドのため息を肯定と受け取ったのか、ヒューズはゆっくりと懐からタバコとライターを取り出して、先端に火を灯して深く吸い込んだ。

 眼前に見える“死”など意に介さぬほど、その所作に淀みは無い。

 その一挙手一投足を見逃さぬようにしながら、ハムドは胸に装着したホルスターから45口径の拳銃を引き抜き薬室に1発目を送り込むと、ヒューズの眉間に銃口を向けた。


「それで、遺言は決まった? 君が満足するまで待つほど、僕はお人好しに見えるの?」


 あまりにも泰然自若としたその様子が再びハムドの癇に障ったのか、不機嫌そうに声を上げる。

 虚を突かれたように目を丸くしたヒューズだったが、すぐに咥えていたタバコを指で挟んで謝罪を口にした。


「あぁ、すいません。その件ですが……」


 言いながら、何食わぬ顔でタバコを指で弾く。


「やはり自分で伝えることにしますよ」

「なに……?」


 くるくると足元に落下していったタバコは、床に広がる燃料溜まりに小さな花を咲かせた。

 瞬時に燃え広がる炎の勢いに気圧され、ハムドは一瞬だけ片手で顔を覆い隠す。

 その足元に、炎に巻かれた“何か”が滑り込んだ。

 それがヒューズが先ほど降ろしたスラスターだと認識した瞬間、ハムドは思わず息を呑む。

 立ち昇る炎の向こう側から、ヒューズの冷酷な声が耳に届く。


「ひとつだけ訂正させて貰いましょう――」


 反射的に声のした方へ発砲するも、炎に紛れたヒューズを捉えることは出来なかった。

 反撃のフルオート射撃によって放たれた銃弾エクスプローダーが、横たわるスラスターを貫いていく。


「しまっ……」


 目も眩むような閃光と爆音、そして高熱を伴う衝撃が巻き起こる。

 内部に残った燃料に引火したスラスターが、大爆発を引き起こしたのだった。

 閉鎖された空間で巻き起こった爆炎と衝撃は逃げ場を求めて荒れ狂う。

 爆炎の奔流に飲み込まれる寸前、ハムドは確かにその言葉を聞いた。


「――私の翼は、この程度では折れない」


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