後編
帰り道、坂の上まで自転車を押しながら並んで
「なんかさあ、もうちょっと晴れやかなおまつりやったらまだ楽しかったのにねぇ」
そう言うとまりあは苦笑した。
「そうそう、おうちのお供えと、神社の小さいおまつりだけやもんね」
「なんかおばあちゃんに聞いたんやけど、水神さん、女の人の願い事は叶えてくれるらしいよ」
「へえ! そうなん!」
まりあは興味をひかれたらしかった。雪子はまりあが興味をもってくれたことが嬉しく、そのまま話を続ける。小学生の頃読んだ、水にまつわる記憶を思いだしたのだ。
「……。そういうたら、なんか井戸のおまじない、あるよね」
「井戸のおまじない?」
「夜中の12時に井戸を覗いたら、将来結婚する人の顔見えるらしいで」
「ええ、なにそれ!」
たわいない子どものまじないごと。しかしまりあには初耳のようだった。
「まりあ、誰の顔が見えてほしい?」
「うちは…。知らん人がいいな」
「知らん人?」
「ここじゃない、知らん世界に行きたい。だから、まだ出会ったことのない人がいい」
「へぇ…」
雪子は二の句がつげなかった。まりあは外の世界に思いを馳せている。未来を見、外へ出ようともがいている。自分はただ、なるようになると思っていた。
いや、正しくはそうではない。まだそれほど先のことなど、真剣に考えたことすらなかったのだ。
「そういうたら、雪子、進路どないしたん?」
「うーん、普通に市立第二の商業科のつもり。うちお母さんもお父さんもそこやし」
「ええー、雪子勉強できるのにもったいない!」
まりあは大きな声をあげた。
「せやけど、うちはお兄ちゃんが多分大学行くからなぁー…」
「えー、でも順ちゃんは清澄高校行くって言うてたで! 雪子、追いかけんでええん?」
「えっ!? 順ちゃん? なんで?」
どうして笠貫の名前が出てくるのか。雪子にはわからなかった。そして一拍遅れて合点する。そうか。まりあは何かを勘違いしているのだ。
「──うちのことはええんよ。まりあは?」
「うちは、まだわからんけど、あたしは家出て、高校からは寮に入ろうかなって思ってる」
「寮!?」
「うん。もうちょっと広い世界見たいし、いずれうち、語学留学とかもしたいねん。ほら、ジェ・オに会うなら英語必須やし!?」
まりあはそう言うと雪子の顔を覗き込んだ。
雪子は、笑うしかなかった。
「離れても、心はずっと一緒にいようね! あたしたち!」
それは昨日のドラマのセリフだった。
坂を登りきり、まりあは自転車にまたがる。
楽しげに漕ぎ出すまりあ。
みんな、行ってしまうのだ。遠くへ。
夜が濃い。
雪子はベッドの中で天井を見上げた。
この深い夜の中に自分しかいない。
みんな遠くへ。遠くへ飛んで行ってしまう。
まりあは行ってしまうのだ。
まりあだけではない。
ベッドから起き上がり、窓の外を見た。
遠く、まりあの家の明かりが見える。
まつりの夜だ。雪子は同級生たちとまつりへ向かった。数店しかない夜店、大半は子ども会の役員である親たちの出し物。だがそれでも、刺激の少ないここの暮らしには十分楽しいイベントの一つだった。
彼氏がいる数少ない同級生はまつりに恋人と行くようだが、大半の中学生は友達とはしゃいで過ごす。友達と夜に会える貴重な機会なのだ。
ただ例年、このまつりは中学の定期試験の期間中にあり、試験に余裕のない中学生たちはあまり長居しないようになっていた。雪子も少し経ったら帰るつもりでいた。
「雪子!」
振り返ると、浴衣姿のまりあがいた。
「よかった、会えんかったらどうしようかと思った」
「まりあ、浴衣似合ってる」
紺地に花の模様が入った浴衣は、まりあをいっそう大人っぽく見せていた。
まりあに気づいた他の女子たちが彼女を取り囲む。
「おお、まりあやんか」
「順ちゃん」
来ていた笠貫も雪子たちを見つけ、まりあに話しかけた。まりあは笠貫と何か言葉を交わしている。夜の闇の中で、まりあは光るように美しかった。
雪子は、遠くからそれを見ていた。
家に帰ったが、勉強には身が入らなかった。
雪子はこよりの箱を取り出した。こよりになる前の紙は細い短冊状になっている。水に溶けやすい紙。雪子は鉛筆を走らせる。
こっそりと、家を抜け出した。両親や兄はまだ帰っておらず、祖母はもう床についていた。誰にも知られず、家を出ることができた。
神社から上がれば泉はすぐ触れられる位置にある。しかしそのためには、人の目につく道を通らねばならなかった。
それを避けて裏山を登る。細い道は、ついこの間まで、山遊びのために毎日のように通っていた道だ。遠く、笛の音や人のざわめきが聴こえる。そんなわけもないのにまつりの残響と深い静かさが同時に耳を刺す気がして、雪子は息を呑んだ。
暗い。
夜は、普段ならなんともない地面のぬかるみすら、醜悪な怪物の罠なのではと思わせる。ヤマビルやマムシがいないことを願うしかない。
雪子は細い道を外れて、誰かが昔打った鎖の囲いから身を乗り出した。
がけ下の泉は蒼く、深々と水をたたえていた。
月が、異様に明るい。
あんな小さな泉に、まっすぐ紙が落ちるだろうか。
いや、落ちたとして、だからなんだと言うのだ。たかが古い風習にすぎない。子供のまじないごとと、何も変わらない。でも。
「ずっと一緒にいようね」
あの日のまりあの声が聞こえた気がした。
雪子はポケットの中の紙を握りしめる。
「まりあ、ずっと一緒だよ」
雪子はまりあの名前を書いた紙を結んで、泉に投げた。
軽いはずのそれは、まるで引っ張られるように、まっすぐに泉に落ちた。
一つ大きな泡が浮かび上がり、泡は紙片を飲みこむ。
結んだ紙は、重い石のように深く深く泉の底に沈んでいった。
後には、静けさが残った。
深夜まで試験勉強をしていたら、誰かが玄関に来る音がして、階下がにわかに騒がしくなった。雪子はそっと玄関に向かう。慌てて着替えだす母にそっとたずねる。
「どないかしたん?」
「まりあちゃんが…井戸に落ちたらしい」
母が低い声で告げた。
「えっ…」
「あんた、お兄ちゃんとおばあちゃんと家におり。家から出たらあかんで」
「えっ…」
雪子が絶句しているうちに、慌ただしく両親は家を出て行った。
「水神まつりの日に井戸に落ちるやなんて…水神さんにひかれたんやろか…」
そう言うと、祖母は仏壇を開き、手を合わせ始めた。
「ひかれたって何?」
「水神さんは昔は、人間の嫁さんを欲しがったんや。せやから、人間の嫁さんを大昔は生贄にしたこともあったんやわ。贄はやめてその代わり、紙に名前を書いて納めたこともあったんやけど、名前書いたら水でなくなる人も多くて…やめてしもたんや。そういう人のことを、水神さんに引かれたて言うたんや…」
雪子の背筋の芯を、冷たい水が走り抜けた。そんな。では。私がやったことはつまり。
「まりあちゃんは水神の嫁になってしもたんやろか」
遠くで祖母の読経が聞こえた。
制服のまま、焼き場から上がる煙を見ていた。
「まりあちゃん、寮のある学校へ行って、ゆくゆくは語学留学しようと思ってたんやってねぇ…」
母は気の毒そうに言った
「あんたも、やりたいことをしっかりやるんやで?」
「えっ?」
「おばあちゃんはここらで嫁に行けとかいろいろ言うけど、私らはそんなんどうでもええと思ってるねん。あんたがしたいようにするんやで。あんたの人生なんやさかい」
そう言うと、母は婦人会の人から呼ばれて雪子から離れた。
ここから離れる? そんなことはできない。
だって。私は名前を書いたのだ。
まりあがこの村にずっといるよう願って。
「ずっと一緒にいようね」
気の所為ではない。今度ははっきりと、耳元で聞こえた。
まりあがここにいる限り、自分はもうどこへも行かない。
自分が、それを望んだのだから。
水縁 ~みずえにし~ 荒城美鉾 @m_aragi
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