水縁 ~みずえにし~
荒城美鉾
前編
冷水機から吹き上がる水流は細い。
コップになみなみと入れた炭酸水を、喉を鳴らして飲み干したい、それほど喉が渇いている時には、頼りなくさえ思える。しかしその冷たい水はしっかりと喉を潤してくれるから不思議だ。
喉の渇きが収まると、雪子は口元をぬぐって窓から外を見た。
高台にある中学からは、小さな集落が見えた。雪子が幼い頃から育ってきた、世界の全て。というのはさすがに大げさだが、この集落のことなら、細い抜け道まで全て頭に入っている。
「雪子! 次そろそろ行かんと!」
教室からまりあが顔を出す。まりあは華やかにウェーブした髪を揺らして、こちらを見た。
「わかってる! すぐ行く!」
教室に向かうと、階段を過ぎたところで上から声が降ってきた。
「沢田、お前また髪の毛くくってへんのか」
沢田はまりあの苗字だった。
「笠貫先輩」
雪子は礼をした。笠貫はまりあに向かって続ける。
「先生に怒られんでー」
雪子の学校は、肩より長い髪は縛らなくてはいけない、という校則になっている。
笠貫は生徒会に名を連ねているので、便宜上、まりあに注意をする。しかし、その顔は笑っている。
「えへへ、すみませ~ん!」
「移動教室、遅れんなよ」
まりあはいち早く羽化し、明らかに人の目を引く女の子だった。他の女の子たちは、まりあが羽化したのを見て、自分も、と思ったはずだ。
まりあ自身はそれに気づいているのかいないのか、雪子にはわからない。でも、いずれ高く飛べる羽があることには気づいているのだろう。まりあは雪子に向かってにこりと笑った。
雪子が挨拶すると、笠貫はちょっと会釈のように首をかしげて、階段を降りていった。
「順ちゃん、生徒会に入ったからってえっらそう~!」
雪子たちはみな同じ小学校から上がってきた仲間だ。
当たり前のように名前で呼び合っていたのに、中学になると先輩と呼ばなくてはならない。
まりあはそれが不満のようで、口をとがらせた。
「同じ
雪子はうなずいた。雪子達の集落には、いくつかの井戸がある。井戸は一家に一つではなく、数件に一つを共有していた。その井戸の共有の共同体のことを「
井戸縁の付き合いは、水道が引かれた現代であっても地域の最小単位として存在する。
「なあなあ、それよりちょっと教室移動しながら聞いて! 昨日の配信のジェ・オがめーっちゃ良くてさ~!」
まりあはそう言うと、いま夢中のアイドルの名前を出した。
「あっ、ちょっと待って、移動教室の前に、先生に進路相談のプリント出してこんなあかんかった! 先行ってて!」
「あ、まだ出してなかったん? はよ行っておいで」
教室を出る雪子が振り返ると、まりあが手を振った。
雪子も、まりあに手を振った。
「あんた、なんちゅう格好してんの、だらしない」
寝転んで漫画雑誌を読んでいた雪子のお尻を、祖母は丸めた新聞でぽん、と叩いた。
「ちょっとおばあちゃん、お尻を叩くのやめてよ」
「ごろごろしてんと、はよおまつりのこより作り。全然進んでへんやろ。
祖母はそう言って、茶箪笥の上の紙箱を示した。
貰い物のお菓子の空き箱に、油性マジックで「こより作り」と書かれている。
まつりで使う道具の一つなのだ。雪子の家ではずっとあの箱を使っている。
「こんなん100均で買うたらええんちゃうん」
「あかん。これはまつりの後川やらに落ちてもええように水に溶ける紙やさかい…」
「ああもう、わかった、やるって、ちゃんとやるから。面倒くさいわー。お兄ちゃんにも言うてよ」
「お兄ちゃんは大学行って家を出るやろ。戻ってくるまでの間、家のことはあんたが覚えんな。
「ええー、なんで女なんよー」
雪子は不満に口をとがらせた。
「水神様は女の人のお願いは聞き入れてくれはるんや。せやから、昔は水神さまのお嫁さんを村から探したもんや。井戸縁から順番に出したりな…」
雪子は井戸のことを思い浮かべた。
みおさん。井戸からつながる泉に住む神。
「おばあちゃんがむすめの時分はなぁ、紙に名前を書いて投げたんや。名前を書いた人は水神様の嫁になるんや」
「水神様の嫁になるって何?」
「うーん…この村に、ずーっといるようになる、ちゅうことかなぁ」
「ふーん」
「しゃあけどもう今はしたらあかんで。……。水が汚れるよってな。」
そう言うと、祖母は遠くを見るような目つきをした。
「あんたがこのへんで嫁に行ったら、またそこの水の神さんのおまつりせんなあかんねんから。手順の根っこはおんなじや。しっかり覚えときぃ。ちゃんとしたら、水神さんは女のお願いはきいてくれはるさかいな」
「あーあ、まつりの準備、億劫やなぁ」
気がつくと、口をついてでていた。
顔をあげると、まりあが驚いたようにこっちを向いていた。
「え? 水神まつり? 雪子んとこもう準備始めてるん?」
放課後の教室。日直で翌日の配布物を組んでいた。
夏休みが近く、プリントが多い。
机の上に数種類のプリントを並べて、端からとって組んでいく。
「うち、今年は私に段取りを覚えさせるっておばあちゃんたち必死なんよね。まりあんとこは?」
「あたし、去年宣言しちゃった」
「え? 宣言?」
「あたしはいつかこの村を出て帰ってこんから、まつりのことはお兄ちゃんか誰かに引き継いでって!」
雪子は思わず絶句した。継がない。そんなことができるのか。
「おー、夕焼け!」
まりあは顔をあげて嬌声をあげ、窓ガラス越しに沈む夕日を眺めた。
並ぶ田畑の向こう、雑木林に日が沈んでいく。
世界もまりあも、ピンク色に染まる。雪子はまりあをじっと見つめる。
「雪子、何見てんの?」
「ううん、なんでもない」
雪子はさっと下を向いた。ずっと、このまま見ていたかったけれど。
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