大好き

 部室で一人うたた寝をしてしまい、次に目覚めた時には十年後になっていた。どういう理屈なのかタイムスリップをしてしまったらしい。どうしたものかと頭を悩ませていると、いきなり部室の扉が開いた。

「誰かいるの?」

 多分、この時代のこの学校の教師だろう。その人は僕を見て、一瞬戸惑った顔を見せた後、「嘘でしょ」と掠れた声で言った。

「……先輩?」

「え?」


「……それで、気が付いたらタイムスリップしていた、と」

「そういう事だと思う」

 少し埃っぽい部屋で、僕と彼女は一日ぶりに、あるいは十年ぶりに向かい合っていた。「もうこの教室は使われてないんですよ」とも教えてくれた。

「君が教師になるなんてね」

 少し迷い、彼女を変わらず「後輩」として捉えて言った。それに彼女は懐かしそうな、でも寂しそうな表情でほほ笑んだ。

「あの頃の私は先輩に囚われて必死だったんです。そんな私が行けそうな場所なんて、学校くらいしかなかったですから」

 遠い昔のように話す。いや、実際そうなのだろうけど。それでも、張本人を前にして淀みなく話したり、全てを過去形にしてしまったり。そういう部分に、否が応にも時間の流れを感じさせられる。

「今なら分かります。私はもっと自由になれたのに。先輩にばかり囚われずともよかったのに。今ではもう分かりません。どうしてあの頃の私は、先輩ばかりを追いかけていたのか」

 くすんだ写真のように、錆びついた歯車のように。追い抜いてしまったものは、もうどこにも行けないのだ。

「なんか、僕の事が嫌いになったみたいな言い方に聞こえる」

「違いますよ。先輩がまだ子供だから分からないだけです。あるいは、分かってないのは女心かもしれないですけど」

「そういう所も好きだったんでしょうけどね」と、また悲しそうに笑いながら言った。

 結局そういうものだ。過去になったものは、遠く離れたものは美しく見える。そうでなくとも、苦しんでいた自分の頭を撫ででやりたくなる。生きている限りそれの繰り返しだ。

「君に何かを教わる日が来るとは思わなかったよ。やっぱり大人になった」

「先輩こそ、そんな顔でしたっけ?」

 彼女は作った冗談交じりの笑顔で言った。当たり前だ。彼女も生きていれば大人になる。僕を忘れて前に進もうとする。僕がここに現れなければ、思い出す事もなかっただろうに。苦しい想いをさせずに済んだのに。

「……何か、十年前の君に伝えたい事はない?」

 だから、今の僕ができるのは、これくらいの事だ。もう死んでしまう過去の彼女を、少しでも幸せな過去形にしてあげるくらいだ。

 彼女は少し悩むような表情を覗かせたが、やがてふと優しい微笑みを湛えて首を横に振った。

「何も無いです。あの頃の私はめいっぱい幸せでした。その不確かなものを、ずっと大切にしていて欲しい。いつか、無くなるものだとしても」

 そう言った時、学校のチャイムが響いた。十年経とうとも変わらぬ音色だった。

「先輩、ありがとうございました。出会えて良かったです」

「僕も会えて良かった。十年経っても元気でやってるって分かったから」

「そうだけど、そうじゃないです」

 くすくすと笑いながら立ち上がる。僕はその場に座ったまま、「どういう意味?」と訊ねたが、彼女はそれには応えてくれなかった。

 部室の扉を開け、もう一度だけこちらを振り向き、「先輩」と僕を呼ぶ。その優しそうな表情が意味するところは、僕にはわかるはずもなかった。

「さよならです、先輩。私は、先輩の事が大好きでした」

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