3
「あの人は、私を……」
澪はそこまで言って、口をつぐみ、天井を仰いだ。
「なんだったかしら……」
澪は何かを思い出そうとして、僕たちの後ろを振り返った。
「戻りたいの?」
言ったものの、僕には戻り方がわからなかった。すると、澪は立ち上がって船縁に足を乗せたかと思うと、僕が止める間もなく水の中に飛び込んだ。水面下で、彼女の白い服が魚のように光りながら進行方向とは逆に流れていった。人形にとって、水の中と地上は、あまり変わらないものなのだろうか。澪の迷いなく水に飛び込む姿を見て、僕はそう思った。
ただ一人、その場に取り残された。彼女が帰ってくるまでここに留まっていたいけど、その意識とは裏腹に、舟はゆっくりとだが確実に前に進んでいる。岸につかまっていようか。しかし、そうするにはやや距離がある。
近づきたい。
試しにそう念じてみた。すると、舟はゆらりと岸に身を寄せていった。思いがけない展開に驚きつつも、僕は風車の並ぶ岸に手を伸ばした。
「だめ」
どこからか、彼女の声が聞こえた。静かだが鋭い声だった。僕は慌てて手を引っ込めて、なぜだか命拾いしたような気持ちになった。彼女はすうっと水面を横切り、再び舟の元へ戻ってきた。両腕を船縁に付き、舟に乗り上げる。わずかな振動だった。
「ここにあるものはまだ未完成。触るとペンキがつくわ」
「なんだ、そういうことか」
僕の返事に、彼女はけげんな顔をした。
「何が起こると思ったの?」
「触ると元の世界に戻れなくなる、とか」
言いながら、顔が赤くなっていくのがわかった。彼女は口を優しくゆがめて笑った。
「だとしたら、とっくに手遅れね」
その言葉に僕は、どうしようもなく胸を高鳴らせた。
いま僕は、どこにいるんだろう。
澪の顔の横に、さっき水面を流れていた白い破片が、髪留めのように張り付いている。濡れた髪からは、かすかに甘い匂いがした。
彼女はワンピースの裾を絞り、水を水面に返している。ワンピースは、さっきまでは真っ白だったのに、薄い青色に染まっていた。それはちょうど、白いパレットに染み付いた、何度洗っても落ちない青色の絵の具のようだった。
「きれいだね」
僕が言うと、澪は平板に礼を言った。僕もそんな声だったのだろうか。
「宝石のワンピースね。贅沢だわ」
澪は、背中に垂らしていた長い髪を一つにまとめ、右肩に垂らした。
「これが私を作った人の日記よ」
手渡された本は、分厚いハードカバーの本だった。《人形作家・初川透の記録》。背表紙には、かすれた文字でそう書かれていた。これを取るために、泳いでいったのか。僕がぱらぱらとページをめくっていると、澪は意外そうに言った。
「知らない人の日記よ」
僕は時折自分の言ったことを、それがどれだけついさっき言った言葉だったとしても、忘れてしまう節があった。
「だって読むために持ってきたんだろ?」
思った通りに口にすると、それが真実かは別として、自分の無情さが身に降りかかってきたような気がした。洞窟全体が、僕たちの声を聞いているみたいだった。
改めて手元の本に目を落とすと、白黒の写真がたくさん載っているページがあった。ページの上部に、太字で「”こどものくに”シリーズ」(1997年)と書かれており、見覚えのある人形たちが映っていた。
それは、小さいころ教育番組で見た人形劇のキャラクターだった。ストーリーは確か、仲良しの小人の兄弟が呪いをかけられた人々の棲む森に入り、呪いを一つずつ解いていく。そんなお話だった気がする。
兄弟が庭で遊んでいる最中に、突然、森の中から低いうめき声が聞こえてくる。そんな薄気味悪いきっかけで森へ向かうのがお決まりだった。呪いの森へ入るとき、背景のスクリーンの色がめまぐるしく変わり、沼の底のような、よどんだ色に落ち着く。そのお話の中で僕が最も嫌っていたのは、呪いを受けた者たちの醜い姿だった。何度も殴られて腫れあがったようなつぶれた顔に、岩のように膨れあがった体。母さんはこの人形劇が嫌いで、映っているとよくチャンネルを替えてしまった。僕がそのあとの番組を見たいと言っても。
「どうかしたの?」
その声に、僕はなぜか、現実に引き戻された気がした。人形の女の子と、こうして舟に乗っているというのに。
「つらそうな顔だわ」
澪は僕の顔をのぞきこんだ。さっきの甘い匂いは、もうしない。
「何でもない」
「でも、あなたが私を見たときと同じような顔だったわ。私を初めて見た時のような」
「そんなことないよ」
彼女は前に向き直り、顔がどうとか、聞き取れない言葉を漏らした。
「何?」
「何でもないわ」
僕の台詞をまねしているようだった。なんだか、くすぐったいような気持がした。
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