彼女の名前はみおといった。

「僕は善人よしと

 舟は二人を乗せて青ガラス色の洞窟を進んだ。さっきまでは、ある程度の距離を進んだら角を曲がって、また同じぐらいの長さを進んできた。しかし今では、曲がり角もない。広大な運河をあてもなく渡っているようだった。

 善人は澪の横顔をちらりと見て、口を開いた。

「君は誰なの?」

 澪は不思議そうな顔をして、言った。

「私は人形。あなたが見ているとおり」

 彼女の手足は、見た目にはなめらかで柔らかそうだった。

「なら、どうして話せるの?」

「人形なんて人間と同じよ。何で作られてるかが違うだけで」

 善人はそのはぐらかすような言い方に、彼女は自分のことを教えたくないんじゃないかという疑いを抱き始めた。

 善人が黙っていると、澪は行く手を見つめながら言った。

「私を作った人がよく言ってたの、このこと」

 ゆら、と舟が波を受ける。

 善人は、思い切って彼女の言うことを信じてみることにした。どうせ外になんて出たくないのだから。そう思いながら、少しだけ母さんのことを考えて、やめた。

 岸では、水のない白い噴水が広場の中央に居座っている。岸に現れるすべてのものは健やかで、この閉鎖された薄暗い空間では、それが余計に空しい。

「ここの岸のものは、君のもの?」

「私と、私を作った人のものよ」

「どんな人なの?」

「知らないわ」

 舟の下で、再び波が立つ。まるで、二人の心の動きと呼応しているようだった。

「会ったことはないの?」

「覚えはないけど、思い出すことはできる」

 やっぱり、からかわれているのだろうか。善人は半ば失望した。

「今はどこにいるの?この中?」

「もう死んでいるわ」

 それじゃ、裏が取れないじゃないか。

 どこかで、雫が水面に落ちる音がした。

水の音にあたりを見渡していると、澪が言った。

「この洞窟の天井が溶けて、水に還っているの。洞窟の壁に青い宝石の原石が埋まっていて、それが水に色を付けているのよ」

「それも、会ったこともない君を作った人に聞いたの?」

 僕は無意識にそう口走った。「ごめん」と言い足す間もなく、澪が言った。

「信じないのなら、なぜ教えてほしいの?」

 すぐにでも謝ってしまいたかったけど、彼女の目が、射貫くようにあまりにもまっすぐ僕を見ていて、なかなか口を開くことができなかった。

「ここと、あなたが通ってきた人形の国は、すべて私を作った人の作品よ」

 そこまで言って、彼女は僕から目線を外し、岸の時計台を見た。

「私はあの人の遺作。そしてここは、あの人が私と未来永劫一緒にいるために造った場所。墓場なの」

 彼女が言い終わったところで、僕は今度こそ口を開いた。

「ごめん。でもどうしてそれを知っているの?」

「私を作った人の日記に書いてあるの。知りたいなら、あなたも見るといいわ。さっきも読んでいたの」

「いや、いいよ」

「どうして?」

「知らない人の日記なんか、読む資格ないよ。その人も、読まれるなんて思ってないだろうし」

 澪は小首をかしげた。

「不思議ね」

 君のほうがずっと不思議だけど。

 舟がふたたび波立ち、二人を揺らした。

「じゃあ、覚えはないけど思い出せる、っているのは?」

「そう言ったとおりよ。あの人と会って話をしたりした記憶はあるの。そんなことをした覚えはないのに。ずっと前に見た夢みたいに何度も思い出す」

「人形も夢を見るの?」

 僕がそう聞くと、彼女ははじめて微笑んだ。

「人形も夢を見るわ。眠りはしないけど」

 二人を乗せて、舟は進む。岸では、背の低い風車が等間隔に並んでいて、風もないのに回っている。彼女を除いて、人形は一人もいない。

「こんなに一気にたくさん話したの、初めて」

 そういうと、澪は唇に指を当てて笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る