カプセルギフト(中)

「パネルにカードをかざし、コードを読み取らせてください」


 肩を落としていた男がはっと顔を上げ、摘まみ持ったカードをタッチパネルにかざした。ピロン、と、わざとらしい認証音が鳴り、画面の表示が切り替わる。


「この『ギフト』を申請しますか?」


 機械本体の上部には、プレゼントの箱を抱えた赤ん坊のイラストが添えられた「カプセルギフト」のプレートが掲げられている。無邪気な子どもを装う合成音声は、その横のスピーカーから垂れ流されているようだった。

 男は妻と思しき傍らの女と視線を交わしてから、渋々といった様子でパネルを操作した。再びピロンと明るい音が弾む。画面に何が表示されているかまでは分からないが、「申請する」のボタンを押したとみて間違いないだろう。

 例えどれだけささやかなものだろうと、我が子が手に入れられるはずの「才能」を勝手に捨て去ることなど、親にはできるはずがないのだから。


「申請を受け付けました。チャンスは残り二回です」


 ふー、と、男が長く息を吐く。軽く頭を振ることで気持ちを切り替えたのか、丸まっていた背中をぴしりと伸ばすと、彼は隣でしょげている女の背中を軽く叩いた。次はお前が回せ、と促したのだろう。

 夫を仰ぎ見る女の横顔は不安げだったが、それでも彼女は恐る恐る、目の前のレバーへ手を伸ばす。

 オーブントースターのタイマーダイヤルを微調整するかのように、もどかしいほどの遅さで回されるレバー。再びガシャンと音がして、淡い水色のカプセルが転がり出る。

 お願い神様、と、女が呟く声が聞こえた。






 社会機能を維持するためには、出生児への才能付与は、質・数ともに制限せざるを得ない。この縛りの中で、全ての子どもに才能を公平に行き渡らせるためにはどうすればよいか。


 国が導き出した方策はシンプルだった。「抽選」である。


 仕組みは単純だ。出生申請が受理された両親には、こども福祉センターに自分たちの遺伝子情報を提出する際、併せて「カプセルギフト」制度を利用する権利が与えられる。

 利用を希望する者は、そのまま出生申請窓口と同じ施設内に設置された機械へと案内され、生体認証による両親双方の本人確認ののち、機械のレバーを回してカプセルを取り出す。

 カプセルに封入されたカードには、一枚につき一つ、「才能」が記されている。QRコードにも同様の情報が埋め込まれており、これを機械に読み取らせることで、引き当てた才能を登録申請し、これから生まれる我が子に付与できる、という流れである。

 レバーを回す権利は、子ども一人につき三回まで。

 つまり、子どもには生まれながらにして、両親が引き当てた才能が最大三つまで与えられるということだ。

 ちなみに、両親が権利を放棄することも制度上は可能だが、ごく稀な事例だろう。自分自身のことならいざ知らず、これから生まれてくる我が子の人生がかかっているのだから。


 ギフト――すなわち、天賦の才。


 天は二物を与えず、という諺がある。ならば国は三物を与えよう、と、時の首相は恩着せがましくのたまった。

 両親の有名無名も、貧富の違いも関係ない。全ての子どもには等しく、自力で未来を拓くための特別な才能を持って生まれるチャンスがあるのだ、と。


 だが、実際に運用が始まってみれば、このカプセル入りの「才能」がとんだ曲者だった。

 端的に言えば、「ハズレ」が出てくる確率が、とてつもなく高かったのだ。


 ハズレと言っても、才能のカードが封入されていないカプセルが存在する、というわけではない。この場合のハズレとは、一般的な感覚で見て魅力が薄い……乱暴に表現するならば、「ショボい才能」のことを指す。

 これは個人ごとの特有感を高めるため、付与する才能にバリエーションを持たせざるを得なかったことに起因する。先に挙げたような「走力」や「記憶力」といった大きな括りでは、いくら近年の年間出生数が四十万人を大きく下回っているとは言え、多数の子どもに同じ才能が重複してしまう。全く同じ名称の才能を与えておきながら、その中で優劣をつければ平等性が失われるため、全員に特別感を持たせるには才能そのものの種類を細分化するしかなかったのだ。

 現在の技術で実現可能、かつ、他の誰とも被らない唯一無二の才能を考案し、統括管理するという途方もない大仕事を担うのは、国が管理する最新型AIである。

 生まれ来る子どもの数だけ、特別な才能を。押しつけられた無理難題に、それでもAIは全力を持って応えた。

 結果、カプセルに封入される「才能」は、ネタとしか思えないようなものが大半を占める――言ってしまえば、大喜利のような状態となってしまったのだった。






「『体感で十秒ぴったり計る才能』……嘘でしょ?」

 小さなカードに目を落とした女が悄然とする。隣の男は、言葉も無い、といった様子で棒立ちになっていた。

 ふと左横から視線を感じ、前方の男女から目を離して首を回すと、僕とともに順番待ちをしていた妻がこちらを見上げている。

 先の女の嘆きが彼女にも聞こえたのだろう。こっそり苦笑するべきか、憐憫の色を滲ませるべきか、彼らの二の舞となることに怯えるべきか――どんな表情を浮かべたらいいのか分からない。そんな目をしていた。

 ゆで卵の殻剥きの才能があるということは、手先が器用で力加減が上手い、つまり、協応動作能力に優れていると言い換えられる。前に並ぶ彼らの子どもは、成長につれて「ゆで卵の殻剥き」のみに対して比類無き腕前を披露することにはなるだろうが、ミカンの皮剥きにも長じている可能性は高いし、他にも才能を応用できる分野は多いだろう。

 これは体感による計測――時間知覚の正確性についても同様で、例えば調理や演奏といった分野で能力を発揮し、大いに活躍することも十分に考えられる。

 だが、どれだけポジティブに捉えたところで、字面の印象から受ける「ショボさ」のインパクトは簡単には払拭できない。

 人から羨まれない類の才能が「ハズレ」「スカ」などと軽蔑的に呼ばれることから察せられるように、今や生まれ持った三つの才能は、個人の強力なステータスだ。

 聞くからに魅力的な才能の持ち主は堂々と誇る。逆に、嘲笑を受けそうな才能の持ち主は、その存在をひた隠す。あるいは開き直って、名刺代わりのネタにする。

 稀に、両親が引き当てた三つの才能の全てが、特定の分野や職業において有用な場合がある。極端な話、演技・歌唱・ダンスの才能を併せ持てば、ミュージカル俳優としての大成が期待できるだろう。

 もしくは、分野はバラバラであっても、三つの才能ともが魅力的で、輝かしい将来が容易に想像できる場合もある。

 こういった恵まれたケースを、ひいては、そうして生まれた子ども自身を、その他大勢の人々は羨望と嫉妬から、「ビンゴ」や「ハットトリック」などと呼ぶ。

 では、三つの才能にまるで関連性が無い、もしくは、三つともに全く魅力が無かった場合、その子どもはどう呼ばれるか。

 ――「ノービンゴ」、あるいは、「空振り三振」である。

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