カプセルギフト

秋待諷月

カプセルギフト(上)

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。


 ゴクリ、と生唾を飲み込む音。僕たちの一つ前に並んだ二十代後半と見える男女のうち、男性のほうが発したものだった。

 床に赤いテープで示された停止線に従い、二メートルほど離れた待機地点で彼らの挙動を見守っている僕にまで、男の背中からは痛切なまでの緊張が伝わってくる。彼に寄り添う女も同様に逼迫感を漂わせており、横からちらちらと連れ合いの様子を窺う顔は蒼白だ。

 彼らの背後で順番を待つのは、僕たちを含めて十余名。その無言の圧力を感じたのだろうか。意を決したように、男は右手を前へと伸ばした。

 震える指先が摘まんだのは、壁面に固定設置された機械前部にある回転式レバー。

 機械本体の形状や大きさは、ありふれた飲料自動販売機に似ている。外装は真っ白だが、前面の上半分だけは透明な分厚いプラスチック板が貼られて窓状になっており、外からでも内部が見える構造だ。窓の下方、やや左寄りには、タブレット端末ほどのサイズの液晶パネルが斜め手前に突き出した状態で設置されており、そのすぐ右横に静脈生体認証装置、さらに右には例のレバーが並んでいる。

 その左斜め下には、真下に受け皿が備え付けられ、上半分を屋根で覆われた、脇に「取出口」と表示がある丸い穴。

 透明な窓から覗ける機械内部の上半分は、パステルカラーで統一された拳大の「カプセル」で、ぎっしりと埋め尽くされていた。

 男が手首を捻り、レバーを逆時計回りに半回転させる。ガシャン、と響いた音がいやに大きく、驚いた傍らの女がびくりと肩を跳ね上げた。大量のカプセルが一斉に蠢く。

 音と同時に取出口から転がり出てきたのは、薄桃色のプラスチック製カプセル。男はそれを即座に受け皿から取り上げると、両手で上下を掴んで捻り、ぱかりと二つに割り開けた。

 危うい手つきでカプセルの中から摘み出したのは、三センチ四方ほどの小さなカード。

 僕の位置からでは読めないが、その表面にはQRコードとともに、短い一文が印刷されているはずである。

 男が、そして連れの女も、息を詰め、ぴったりと頭を寄せて食い入るようにカードを凝視する。二秒と経たずして、彼らが大きく落胆したことが気配から察せられた。

「ハズレだ」

 ぼそりと、暗い声で男が呟く。続けて隣の女に向けて囁かれた声は潜められていたが、ただでさえ静かなフロアの中、列を形成する人々は皆口を噤んで聞き耳を立てているため、内容は十分に聞き取れた。

「ふざけてる……『ゆで卵の殻を綺麗に剥く才能』だなんて――!」






 二十二世紀も目前。自然妊娠・分娩による出産は、リスクの観点からとうの昔に廃止され、もはや古の文化となっていた。

 規定年齢に達した夫婦――同性同士の婚姻も含むため、パートナーと呼ぶのが正しい――が、二人間における子を望む場合、まず、国が地方自治体を介して管理する「こども福祉センター」に申請を行う必要がある。

 申請世帯の経済状況審査、および、人格適性検査を通過し、それが第一子であれば監護者研修を受講・試験に合格することで「両親」の資格を得た申請者は、福祉センターに二人分の遺伝子情報を提出する。

 この情報を元にして人工的に作り出された受精卵を、保育器で生後四週間の状態、つまり、乳児まで生育させたところで、センターから両親に引き渡す。これが、現在の日本における出産システムである。

 完全人工出産最大のメリットは、受精卵を作り出す段階で、出生児のゲノムをコントロールできることだ。

 身体欠損・異常や、遺伝性疾患の排除は言うまでもない。発達障害などという言葉は死語になった。骨、筋肉、神経、細胞レベルの成長調整操作も可能で、出生前から成人時点での身長を決めておくことすら容易い。


 そして、そのコントロール可能範囲は、出生後の身体機能、果ては脳機能にまでも及ぶ。

 法律による全国民へのシステム強制適用以降に出生した子どもは、生まれながらにして、一定基準の「能力」を保証されるようになったのである。


 分かりやすいものでは、運動・学習能力が挙げられる。例えば、出生後の病気や怪我、生活習慣といった「遺伝子以外の」要因に直面すること無く順調に成長し、小学二年生の教育課程を修了した八歳児であれば、誰でも百メートル走を二十秒以内で走り、算数の九九をつかえることなく暗唱する。音程を外して合唱に混ざれない子どもはいない。犬か猫かを判別できないような絵しか描けない子どももいない。

 一人として落ちこぼれを出さず、誰もが自信を持って自己を肯定できる社会。それこそが、国が胸を張って掲げる、いわゆる「国民かい能力」だった。

 とは言え、この技術により実現できるのは最低限の能力の保証に留まらない。平均以上の能力や、元々の遺伝情報に組み込まれていないような能力の付与も思いのままだ。

 もしも、八歳にして百メートルを十二秒で走破し、微分積分を理解するような能力が確約されるのであれば、それを我が子に与えたがらない親はいないだろう。

 だが、それを全国民に適用すればどうなるか。漫画などで俗に言う、「パワーインフレ」待ったなしである。


 人は、他者より優れた素質や能力、すなわち「才能」を望む。当然だ。才能の有無は個人の生きやすさに直結する。

 そして親ともなれば、それを我が子に望むのも、また当然のこと。


 例え、全国民が生まれながらにして最高限度の能力を与えられるとしても、恐らく国民の大多数は満足しないだろう。「全ての人が平等な社会」など、所詮は綺麗事だ。

 国とて資本主義から社会主義へと舵を取る気は無いようで、出生前の遺伝子調整は最低限の能力保証までと制限が設けられた。

 すると次に生じたのは、才能の不正付与である。

 権力を持つ、あるいは金に物を言わせることができる一部の輩が、我が子や孫に高い能力を付与するよう、裏でセンターに取引を持ち込むようになったのだ。この問題は法整備前から指摘されていたこともあって忽ち顕在化し、著名人の二世が下手に各分野で頭角を現そうものなら、「金で才能を買った」と苛烈に叩かれた。

 単に国民の没個性化や競争原理の消滅を憂うのであれば、例えば走力、記憶力、音感など、個人ごとに対象を変えて一部の能力だけを底上げすることは、技術的には可能である。だが、そうすれば今度は、より魅力的で有用な才能の争奪戦が発生し、これまた汚い金銭授受が発生することは目に見えていた。

 競争による社会発展と均一化による平等、一部の有力者と大多数の一般人。それらの板挟みとなった国は、窮余の策を打ち出すこととなる。

 それが、全出生児にランダムで三つの才能を付与する制度――通称、「カプセルギフト」だった。

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