第9話 Vis a Vis (ヴィ・ザ・ヴィ)

 学期末にあった「ドイツ語基礎統一試験」に、陸はどうにか合格した。

次のゼメスターからは、本格的なドイツ語による授業が始まる。このハイデルベルク大学には『タンデムプログラム』という、ドイツ語を学びたい学生と日本語を学びたい学生のマッチングをしてくれて、お互いに語学のレベルを高めあう面白い取り組みがある。

 陸は早速そのプログラムに登録して、哲学部在籍のドイツ人、アンドレアス・ヴォルフとパートナーになることにした。基本的にお互いのやり取りは、メールかチャットなので、時間を気にせず気楽に交流できるのが良かった。

 アンドレアスは日本の仏教哲学、西田幾太郎と鈴木大拙の研究をしていた。恥ずかしながら、陸はどうにか近代日本史上の名前を知っているくらいの知識しか持っていなかった。また、その他にも『ももいろクローバーZ』のファンだと自己紹介したが、こちらについても陸は詳しくは知らなかった。


 「『ももクロ』って、『KISS』のアルバムで一緒に歌ってんの知ってる?」フィオナが大学のカフェテラスでコーヒーを飲みながら、陸に言った。

「えっ、そうなんだ。知らなかったよ。」

「『Samurai Son』って言う曲なんだ。」と言って、自分のiphoneから、その曲を聞かしてくれた。意外にいい曲だったから、今度アンドレアスに話そうと陸は思った。

 バート・ホンブルクのフィオナの実家でご馳走になって以来、陸は『シュバルツベッヒャー・キルシュトルテ』が大のお気に入りで、今日もコーヒーと一緒に頼んでしまった。


 フィオナとは、付き合うとかそんな話は一度もしなかったが、自然とお互いに時間が合えば一緒にいるような間柄になっていた。とは言っても、フィオナが在籍する医学部は授業や実習が沢山あって、陸よりは時間の余裕がなかったので、一人でSバーンを使って近くの街や都市を歩いて回った。

 行く所々が陸にとってはいつも新鮮で、胸をワクワクさせたが、フィオナの注意に従ってトイレや明らかに治安が悪そうな通りでは緊張を解かなかった。

 ハッとするような美しい景色や、インターネットにも出ていない古びた小さな教会のステキなステンドグラス、小さなギャラリーに飾ってある可愛いリトグラフなんかに出会うと、陸は一番先にフィオナに見せてあげたいなと思うようになった。

陸の気持ちの中で、フィオナが占める領域が少しずつ大きくなっていた。



 

 マリブの大会での海の活躍は、YouTubeの動画で知った。陸はすぐにメールで、おめでとうと送信していた。ドイツ時間の朝8時過ぎに、海からスマホに電話がかかってきた。

「ゴメン、起こしたかな?」カリフォルニアはたしか、夜の11時のはずだった。

「ううん、大丈夫だよ。カイ、やったね!おめでとう!」海とピロは主催者推薦のワイルドカードでの参加だったにもかかわらず、見事に大会最終日の準々決勝ヒートに駒を進めていた。

「あゝ、ありがとう。まあっ、オレにはカワイイ女神様がついてるからねっ!」

「それって、ナギちゃんのこと?」

「そうに決まってんだろっ。なんと凪沙が、オレのためにここマリブまで来てくれたんだよ!」

「ホントに?」陸は何も聞いてなかったから、また海が自分のことを担ごうとしていると疑った。

「まあ、来てくれたのは事実なんだけど、本当は来週早々にロスで歌のオーディションがあるんだって。」

「オ、オーディション?」話が見えなくなって、陸は軽いパニックになった。

 海は凪沙の親父さんの関係してるアニメ映画の海外版の主題歌・挿入歌のオーディションがロスで来週開かれて、そこに親父さんのコネクションを使って、今回の海やピロみたいなワイルドカードで参加することになった経緯を説明した。

「でも、ナギちゃんはコネとか嫌いそうだけど、良く決心したね?」

「その通り! 兄の愛する人のこと、よく分かってるね。だから、今回は『アシザワ』って名前は一切出さないで、偽名でエントリーしたみたいだよ。」

「リョウが聞いたら、泣いて悔しがるなっ!」

「だから、今回の件はリョウには内緒だぜっ!」海は凪沙が少し離れていくような気がして不安な気持ちもあったが、凪沙からもらったミサンガに手を当てて、その気持ちを鎮めた。


 陸はオスト夫人の家に挨拶に行った事を海に報告した。海が一目惚れしたザビーネがすごく綺麗な女性になっていること、そしてチェロの演奏家として活動していることを話した。

海はひどく懐かしがって会いたいと言っていたが、ドイツとアメリカ西海岸じゃあ、会うのもそう簡単ではないし、ナギちゃんに説明するのも面倒だろうなと陸は思った。

 また、ザビーネの妹フィオナの話をすると、そう言えば妹がいるという話を聞いたかも知れないと言っていたが、そのフィオナが陸と同じ大学で、ドイツに着いたその日に知り合っていたことを聞くとさすがに驚いていた。

「じゃあ、そのフィオナちゃんとよく会ってんだ?」と何気なく言った海の言葉に、陸はドギマギして言葉に詰まった。

「あれっ、リクっ、何か怪しいな?」さすが兄弟の感は鋭いと、いや鋭すぎると陸は思った。

「いやあ、た…たまにお茶飲んだり、車で出かけたりするくらいだよっ。」と誤魔化したが、あまり効き目はなさそうだった。

「わかった、わかった。じゃあ、フィオナちゃんと仲良くね!」と言って、海は電話を切った。



 冬のゼメスターが始まる10月まで普通の大学生は休暇に入る。ただし、補講や各種特別講義や大学主催のイベントなどもあって、どう過ごすかが最近の話題の中心だった。

チャ・ボンクンは韓国に帰って、済州島の別荘でお母さんと妹と過ごす予定と言っていた。アリクは実習が終わり次第、ロンドンの叔父さんのところに遊びに行き、スコットランド湖水地方を周る旅行に行きたいと話した。

 実は陸にも計画があった。父方の祖父・葉月太一と叔父の諒太が料理の修行をしたというフランス・パリのレストランを訪れてみたいと思っていたのだ。

ドイツ留学前に諒太の神楽坂のレストラン『Le Marais(ル・マレ)』に相談に行った際に、ヨーロッパは地続きだから、もしパリに行くことがあったらと昔修行したレストランのアドレスと、簡単なフランス語で書かれたシェフのピエール宛のメモを貰っていたのだ。

 陸はパリまでの列車の時刻スケジュールやパリの市街地図、またインターネットでレストラン周辺の情報を時間ができた時に調べてた。そんな資料をアパートに遊びに来ていたフィオナが目ざとく見つけて、

「なーにコソコソやってんの?」とパリの地図を親指と人差し指でつまみ上げた。

「いやあ…別に。冬のゼメスター前に旅行をかねて、僕のジイちゃんと叔父さんが働いていたパリのレストランを訪ねてみたいと思ってるんだ。」

「へー、いいな〜。アタシもパリに行ったのギムナジウムの時だから、もう4、5年行ってないな。」フィオナは少し考える仕草をして、「ねえ、リック。アタシも一緒に付いてっちゃダメかなあ? リックよりアタシの方がパリの事知ってるし、アタシの車で行けば、パリ市内の移動も楽ちんだよ! 来週の実習が終われば、アタシもフリーだから、ねえイイでしょ?」

 フィオナはノリノリでそう言った。確かに、陸も初めてのヨーロッパの大都会だし、フィオナがいてくれたら心強いし、移動のことも気にしなくていいし、それにフィオナと一緒に旅行なんてワクワクすると思った。

「わかったよ。でも、オスト夫人にはちゃんと事前に話しておいて、何かあったらお袋や親父にこっぴどく叱られるから。」

「OK!じゃあ、行きたいところ調べておいてね。いやあ、楽しみになってきたあ。パリだ―!」そう言うと陸に抱きついて、キスしてきた。

陸も内心すごく嬉しかったが、フィオナほど感情を表に出すのに慣れていなかった。


 

 パリ旅行までの時間はひどく長く感じた。陸の受けるべき講義はすべて終わっていたし、友達のドンクンはもうハイデルベルクを出てしまっていたし、アリクやフィオナは学期末の実習で忙しそうだったので、陸はもっぱらパリ旅行のスケジュールやら、途中に寄ってみたいところなどを調べて一日中過ごした。フィオナは長期休暇の時は例のフランクフルトの店でアルバイトすることが多かったが、今回のパリ旅行は長くなるかも知れないので、ドイツのヴァカンスが終わる9月までお休みすることをお店に伝えていた。


 パリまではここから約570kmの距離があって、日本だとだいたい東京から姫路くらいの位置のようだが、途中で休憩をとっても7時間あれば着けると思うよとフィオナは言っていた。

パリまでの高速道路はハイデルベルクからアウトバーンの6号線でSaarbrücken(ザールブリュッケン)を経由して、フランスに入り、フランス高速のA4号線で途中Metz(メス)を経由してパリの東側、サッカーのフランスワールドカップのスタジアムがあるSaint-Denia(サンドニ)に通じていた。


 やっとフィオナの病理実習が終わり、今日は少し休息をとって明日の朝ハイデルベルクを出発することにした。陸は下着やTシャツなど最低限の服を大きめのスポーツバッグに詰めて、明日の朝バタバタしたくなかったのでフィオナのアパートに泊まることにした。

 フィオナの帰宅が夕方近くになるとメールが入っていたので、陸はフィオナのために夕食を作ることにして、旧市街のスーパーと韓国人のオーナーがやってるアジア食品店(何故かBTSのCDやブロマイドだのファイルケースだのも売っている)で、食材を買い集めた。日本の3倍くらいの値段さえ気にしなければ、フランクフルトのような大都市でなくても大体の食材は手に入れることができた。

 陸は子供の頃から手先が器用で、雪乃が出掛けていない時など、何も出来ない海の分まで食事を作ってあげたりしていたので、さほど時間をかけずに夕食の下拵えを終えた。

 小エビと春雨のパクチーサラダは先に作って冷蔵庫に冷やしておいて、お豆腐とワカメのお味噌汁を作り、豚ロースを包丁の後ろで叩いて柔らかくして下味をつけて、後で衣をつけて『トンカツ』にしようと思っていた。ただ、ドイツのキャベツ(Kohl)は固いので、一度湯どうししてから千切りにして付け合わせにした。また、マヨネーズや中濃ソースも日本のものとは全く違うので、キュー○ーのマヨネーズとブル○ックソースもアジア食品店で買っておいた。

 夕方6時過ぎにフィオナは帰ってきた。大きなバッグに医学書や課題や何かを詰めて、ひどく疲れた顔をしていたが、ドアを開けて陸の顔を見た途端、いつもの明るい顔に変わった。

「リックー、ただいまー。疲れたよー。」と言ったかと思うと、

「何かあ、いい匂い?」とキョロキョロして、ダイニングテーブルの上を覗いて、

「スッゴイ、『トンカツ』だー、これリック作ったの?美味しそー、お腹空いたー。」と言って、その場で飛び跳ねて陸のところにかけ寄って、クビに抱きついてきた。

 フィオナはドイツの『シュニッツェル』も好きだけど、ママが作ってくれる肉厚『トンカツ』の方がもっと好きだったと言い、陸の作ってくれたのも美味しいと言ってパクパク食べた。それを陸はお気に入りの瓶ビール『Veltins』のピルスナーを飲みながら、嬉しそうに見ていた。 



 昨夜の残りもののサラダとブローチェン、それにフィオナが入れたコーヒーで朝食を済ませ、朝の6時にはハイデルベルクのアパートを出発した。

空は快晴で、ヨーロッパの夏の朝の凛とした空気が車の窓から入り込んできた。フィオナのプジョー206は先週ポルトガル人のロドリゲスの工場で整備を済ませていて、エンジン音も「ブルンッ」と吹き抜けの良い音がした。陸は朝イチからヘビメタを聞く気分ではなかったが、そんなことお構いなしでフィオナは『アイアンメイデン』をエンジン音に負けない大音量で鳴らした。

 フィオナがハードロックに目覚めたのは日本からドイツに戻り、ギムナジウムに通い始めた頃だった。御多分に洩れず学校でイジメに遭い、毎日泣いて帰る日が続いた。

ザビーネはなるべくフィオナを守るようにしてくれたが、それでもタチの悪いヤツは世界中何処にでもいて、隙を見てイジメられた。

そんな時、ふと耳にしたのが『ベビーメタル』だった。『ベビーメタル』は日本人の少女3人組のハードロックバンドで、フィオナが知った頃にはすでに、レディガガのオープニングアクトを務めたり、世界ツアーをしていて日本より海外で人気があった。

 初期の代表曲「イジメ、ダメ、ゼッタイ」がその頃のフィオナの心に響いた。それからフィオナの気持ちに変化が起き、学業をおろそかにしない約束で、両親に頼み込みフランクフルトの空手道場に週一回通い始めた。その頃から格好も今のフィオナに近い、ワイルドなファッションに変わっていた。

 そしてある日の昼休みに、以前イジメていたヤツのところに行き、「Du Arschloch ! (クソ野郎!)」と罵って、股間をおもっきり蹴り上げてやった。それからはもうフィオナの事をイジメる度胸のあるヤツは現れなかったそうだ。

 

 赤いプジョー206は、緩やかの丘陵地帯を2つに分けるようなアウトバーンをStrasbourg(ストラスブール)に向けて飛ばした。

約1時間ほどでストラスブールの町が近づいてきた。アルザス地方の中心都市でドイツとフランスの国境に位置し、たびたび二国間の支配が変わったためどちらの文化を持つ風土ができ上がった。

陸はキリっとしたアルザスの白ワインを以前飲んだことがあったので、寄って行きたい気持ちはあったが、何せまだ朝早く、高速を降りてもお店とか街自体が動いてないからとフィオナが言うので、陸は渋々ガマンして、次の機会には絶対行ってみたいと思った。

 フランスの国境でチケットを受け取り(ドイツのアウトバーンと違いフランス高速道路は有料)、A4高速に乗った。フランスに入ると、フィオナはiphoneの音楽を切って、車のFMラジオに切り替えた。ラジオからは女性のDJが(当たり前だが)フランス語でリズミカルに喋っていた。陸はフランス語は喋りを聞いているだけで音楽を聴いているような感覚がすると思った。

「何かあ、旅行気分になってくるでしょ、ラジオにすると?」

フィオナは陸の方をチラリと見てニコッと笑った。

 車の窓から見える風景が、フランスに入るとドイツと比べるともっと平坦になり、昔見た教科書に載っていた『穀倉地帯』という言葉を陸は思い浮かべた。

 Metz(メス)の手前のサービスエリアで、給油を兼ねて車を停め、売店とレストランが一緒になった日本で言うドライブインみたいな建物で少し休憩することにした。サービスエリアの周りには日本の並木道のような間隔で樹木が植えられていた。

パリまではあと300km以上走らなければいけないので、一応国際免許も取ってきた陸も、ここまで2時間以上も一人で運転してきたフィオナとハンドルを代わることにした。

 陸は左ハンドルに慣れていなかったので、だだっ広いサービスエリアの駐車場で練習してみたが、どうしてもウィンカーとワイパーの作動を間違えてしまい、フィオナに「Schon wieder !

(また、やったの!)」と腹を抱えて笑われた。



 葉月諒太がパリの服飾大学に入ったのは、もう30年前のことだ。日本はまだバブル景気の真っ只中にあり、諒太は好きだった語学を活かしたいと思って、四谷の大学の国際学部に通っていたが、周囲の浮かれた雰囲気(就職なんて商社か代理店出で大丈夫だし、可愛い女の子と遊ぶだけ遊ぼうというような)に違和感を覚えて、新宿の服飾専門学校にダブルスクールで通い始めた。

 当時は川久保玲や山本耀司などの日本人デザイナーが世界のファッション界に風穴を開けるような活躍を見せていた。諒太はどちらかというと職人気質が強く、そんな自分の腕だけで勝負するような仕事に憧れていた。

 そして大学3年生になる時に大学に休学届を出し、パリの服飾大学に編入した。父親の太一は自分自身も実家の呉服店を継がないで、ヨーロッパを放浪してパリのレストランで働いたこともあったので、自分の性格に似ている諒太の決断を精神的にも金銭的にも応援してくれた。また、太一はパリの修行時代に弟のように可愛がってくれた兄弟子のジェラールに手紙を書き、諒太が何か困った時は助けてくれるように頼んでくれた。

 諒太はバスティーユ広場に屋根裏部屋のアパルトマンを借りて、セーヌ河を挟んでルーブル美術館の反対側にある美術大学服飾科に在籍することになった。この大学にも日本からに留学生が一日に何度か顔を合わせることがあり、多分2、30人は在籍していた。

 諒太の屋根裏部屋はアパルトマンの6階にあり、毎回階段を上り下りするのは大変だったが、部屋の小さな小窓からは煙突や物干し台、薄い色のレンガの屋根が続き、遠くの高台に白いサクレクール寺院が見えた。この窓から見た風景を、諒太は自分の原点として心の奥に焼き付けていた。

 大学では午前中にフランス語の講座を受け、午後から服飾の講義を受ける日が続いた。アパルトマンから大学までの通学も刺激がいっぱいあった。

街角のカフェでくつろぐ人、メトロのポスターや構内で演奏する人、美術館の前の歩道にモナリザやゴーギャンの模写を描く人、公園でパントマイムや大道芸をする人、百貨店の凝ったショーウィンドウ、マルシェの賑わいなど日本とは違う文化の香りがあちこちに散らばっていた。

諒太は少しでも時間ができると、パリの街をひたすらに歩いたが、当時はいつも原宿から渋谷まで歩いたような距離感しかなかった。それは今から考えると、見るもの聞くものが新鮮に映り、ウキウキとした興奮状態の中で、アドレナリンが溢れ出しているような時間だったのかもしれないと諒太は思っていた。

 パリに来て3ヶ月が過ぎた頃、大学では強烈な個性で主張し合い、ぶつかり合う講義に最初は圧倒され、そして自分自身と向き合う中で息苦しさを感じはじめた。また、同様に妙に日本食が食べたくなって、日本円で三千円から四千円もするカツ丼や天ぷら蕎麦を日本レストランまで食べに行った。いわゆる、ホームシックというヤツである。

 そんなある日、少し肌寒い日が続いたので、諒太は長袖のシャツを探してバッグをあさっている時に、親父から渡された手紙を見つけた。目新しい生活に夢中になっていて、すっかり忘れていた。

アドレスをみると、バスティーユのアパルトマンから20分もかからない所にそのレストラン『Le Haricot Rouge(ラリコ・ルージュ)』はあった。 

ヴォージュ広場のそばの路地に面したグリーンを基調にした店構えの落ち着いたレストランだった。仕事の邪魔にならないようにと、まだディナーには少し早いと思われる夕方6時くらいを見計らって入口のドアを開けると、小綺麗だけど暖かみのある店内にすでに数組のお客さんが入っていた。

「Bonsoir, Monseiur !Vous avez réservé ?(こんばんは、お客様! ご予約はいただいておりますか?)」白いブラウスに黒いスカート、同じく黒の大きなポケットの付いた短いエプロンをつけた、金髪のショートカットのウェートレスが笑顔で諒太に尋ねた。

「Je n'ai pas réservé. Mounseiur Gérard est-il ici ? Je suis le fils de Taichi du Japon.(予約はしていません。ジェラールさんはいらっしゃいますか? 私は日本から来た太一の息子です。)」と答えて、太一からの手紙を手渡すと、

「Un moment sil vous prait ? (ちょっと待ってください)」と言って、奥の方に消えた。

 しばらくすると、白いコック服にブルーのスカーフを締めた、大柄のヒゲを蓄えた人懐っこい男が急ぎ足で近づいたかと思うと、強く抱きしめられた。

「Oh, c'est comme mon frère Taichi. (あゝ、俺の弟の太一にそっくりだ。)」そう言って、諒太の手をとり奥の方にあるキッチン手前のテーブル席に座らせると周りの皆んなに「俺の弟の息子が日本から会いに来てくれた。」と大きな手振りと大声で話した。

30才くらいのスラっとしたコックと若いコックが二人、それに奥さんのイザベルと先ほどの金髪のシモーヌがこのお店のスタッフのようだった。皆んな動物園に来たばかりのパンダでも見るように、ニコニコしながら諒太のことを見た。ジェラールの優しい人柄がわかる温かい雰囲気の人達だった。

親父から聞いてこの店の名前は、画家のモディリアーニをモデルにした古いフランス映画『Montparnasse 19(モンパルナスの灯)』の不遇な主人公の画家を健気に支える恋人(アヌーク・エーメが演じた)の渾名からとった、日本語の『小豆』という意味だそうだ。ジェラールがこの映画(この女優)が好きということもあるが、貧乏で小豆くらいしか買えない暮らしの中で、懸命に生きる姿を大事にしたいと命名したと聞いていた。

 諒太がテーブルに着くとすぐに、イザベルが目の前に水が入ったボトルとコップ、それとは別に青白く濁った大きめのグラスをドンと置いた。それは、今年作られたシードルだった。酸味の効いたリンゴの青い香りがする、白ワインのような口当たりの飲み物だった。

そして、他のテーブルのお客さんと話をしていたシモーヌが、前菜盛り合わせの皿を置いてニコッと笑った。キッチンの方を見るとジェラールがジェスチャーで食べろと言っていた。

太一が神楽坂でメニューに載せている前菜と似ていた。鶏のレバームース、ポロ葱のキッシュ、ムール貝のマリネ、エビとオイルサーディンのカナッペ、どれも太一が作る料理と同じく美味しかった。

「Est-ce délicieux ?(美味しいですか?)」とシモーヌが聞いたので、親父のと同じくらい美味しいと答えたら、キッチンからジェラールが顔を出して、人差し指を横に振りながら俺の方が少しだけ美味しいとまたジェスチャーで言ってきた。シモーヌもイザベルも笑っていた。

 前菜を平らげてしまうと、今度は湯気の上がる大きな陶製のボウルが運ばれてきた。『ポトフ』、大きな牛肉の塊りとカブ、にんじん、玉ネギ、セロリが入っている。スプーンでスープに口をつけると優しい温かみが身体全体を包み込んだ。出汁が効いた薄いおでんの汁のような味がした。牛肉もよく煮込んであって、スプーンで切れてしまうほど。野菜も良く味がしみてどれも美味しいとしか表現のしようがなかった。

 ジェラールがキッチンから出てきて、諒太の前に座った。手には小さなカップを持っている。そして、そのカップの中身をポトフの残ったスープの中に開けた。炊き上げたばかりのご飯だった。

 太一はポトフの時は必ずこうやってご飯を入れて食べてたと言いながら、ジェラールが涙ぐむので、諒太もそれにつられて泣いてしまった。

イザベルがジェラールの肩を力いっぱい叩いたので、二人とも泣き止むことができたが、「困ったことがあったら」という太一の言葉の意味が今わかった。何も喋らなくてもジェラールには通じていたのだ。

 ジェラールとこの店の皆んなの優しさで、諒太はお腹も心もいっぱいになり、憂鬱なホームシックは何処かに消えていた。


 それからは、週に一回は『ラリコ・ルージュ』に行くようになった諒太は、次第に服飾への興味が薄くなり、大学を辞めてジェラールにお願いしてここで働くことにした。

そして、働くうちにジェラールの息子のピエールと兄弟のように仲良くなり、休日はレ・アールで女の子をナンパしに行ったり、ピガールで遊び、美人局にあったり、色んなバカをやった。

 やがて、諒太はシモーヌと付き合いだして、ピエールは真面目な子だからヤメておけと言ったが、一度火がついた気持ちは抑えられなくなり、二人は恋に落ちた。

『ラリコ・ルージュ』で働き始めて3年が経つ頃、諒太はジェラールとピエールにしごかれ、すっかり一人前のコックになった。持病のため休みがちになったジェラールに代わり、ピエールと二人で店を切り盛りするようになっていた。

そしてまもなく、シモーヌがずっと欲しがっていた赤ちゃんができたことがわかった。諒太はもちろん、ジェラールやイザベルをはじめスタッフ皆んなが祝福してくれた。

二人はすでに婚姻届を役所に提出していたが、結婚式を挙げていなかったので、お店の定休日にこのレストランで牧師を呼んで簡単な式を挙げることになった。

 式当日、イザベルが白い薔薇で店内を飾り付け、ピエールはウェディングケーキを作ってくれた。オルレアンの実家からシモーヌの両親と妹も駆けつけて、タキシード姿がぎこちない諒太に比べて、まだお腹が目立たないシモーヌは妹の手によって美しい花嫁になっていた。

ヴォージュ広場で皆んなで二人を囲んで写真を撮った。美しく、幸せな写真、その写真は『ラリコ・ルージュ』の入口の壁、ジェラールとイザベルの結婚写真の下、ピエールの赤ん坊の時の写真の隣に飾られた。

 今二人が暮らしている諒太の屋根裏部屋では手狭になるので、ジェラールが知人に頼んで、リヨン駅のそばに少し広めのアパルトマンを格安で探してくれた。

 諒太とシモーヌは、まだ男の子だか女の子だかわからない赤ちゃんの名前を考えたり、マレ地区のベビー雑貨店でベビーシューズや可愛い服を見て歩いたり、満ち足りた幸せな日々を過ごしていた。


 

 ヴォージュ広場のプラタナスの樹々が夕焼けに似た秋色に染まり、舗道を埋めつくす季節がやってきて、予告もなしに不幸が、他の世界の出来事みたいに突然二人を襲った。


 それは10月の日曜日の午後、どんよりとした日が続いた週末、久々に太陽が顔を出し、雨で濡れた街全体を照らし出すようにキラキラと輝いていた。

諒太とシモーヌはリヨン駅からREPに乗ってシャンゼリゼに来ていた。諒太は結婚式の時に指輪を用意出来なかったことを悔やんでいた。式当日はシモーヌが作ったビーズの指輪をつけた。少しだけお腹が目立ちはじめたシモーヌはそれで充分だから、リングは要らないと言ったが、諒太は自分の小遣いを切り詰め、ピエールからも少しお金を借りて、やっと凱旋門のそばにある宝飾店に二人で指輪を買いに来たのだった。

愛想のいい宝飾店の店員は、諒太の予算の何倍もする高級品ばかりを薦めた。諒太の気持ちを察して、シモーヌは大きな石の付いたものは好きじゃないと言って、何の飾り気もない指輪を見せてほしいと店員にお願いした。店員は愛想笑いは崩さなかったが、明らかに態度が変わった。

諒太は予算内の少し大きめの石が付いたモノを勧めたが、シモーヌはもっと安いスズランの花がデザインされたリングを選んだ。リングのサイズを合わせ、諒太が会計を済ませると、そのまま着けて帰りたいとシモーヌが言ってその宝飾店を出た。

 シモーヌは諒太の腕に腕を絡ませ、指輪の着いた手を太陽に何度も翳して、嬉しそうに微笑んだ。そんなシモーヌのことを諒太は深く愛していた。


 シャンゼリゼ大通りをコンコルド広場の方へ下りて行き、せっかくなのでギャラリーラファイエット百貨店で買い物でもしようと通りを横断している時だった。

少し後ろを歩いていた小さい女の子を連れたフランス人の夫婦がいた。シモーヌはその金髪の女の子が気になるらしく、何度も振り向き、またその女の子もシモーヌのことを見ていた。

横断歩道の中ほどまできた時、女の子が手に持っていたクマのぬいぐるみを落としてしまった。女の子の両親は話をしていて、それに気づかなかった。シモーヌは諒太の手を振りほどき、手を伸ばした女の子の先に落ちたぬいぐるみを拾った。

 その時だった。右からネイビーのワゴン車が赤信号を無視して猛スピードで走ってきた。

諒太はシモーヌと女の子に気を取られて、その車に気付くのが遅れた。

「シモーヌ、危ない!!」大声で叫んだ。

シモーヌは諒太の方を振り向き、近づいて来る車を視界に捉えた瞬間、ブルーの目を大きく開いて、リングの着いた手を諒太に向けて伸ばした。

「Aide-moi―,Ryot…a…!(助けて―、リョウ…タ…!)」

ワゴン車はブレーキもかけず、シモーヌと女の子、その両親を跳ね飛ばし、反対車線の信号待ちしていた観光バスに突っ込んだ。

大きな叫び声と燃えるガソリンの匂いと煙の中で、諒太は必死にシモーヌの姿を探した。

 横断歩道から10メートルほど離れた車道の上に、シモーヌは横たわっていた。お気に入りの白いワンピースとニットのカーディガンが紅く染まっていた。諒太は駆け寄ってその体を抱き抱え、シモーヌの名前を何度も叫んだ。だが、返事はなかった。頭からも出血していて、金色の髪が血に濡れていた。でもスズランのリングを着けた手は、膨らみはじめた自分のお腹をしっかり抱き抱えていた。


 どれくらい時間が過ぎたのだろう。アンビュランス(救急車)と消防車とパトカーのサイレンの音だけが頭の中に響いて、抱き抱えていたシモーヌから無理矢理引き剥がされ、話しかけてくるフランス語が諒太にはただのノイズにしか聞こえなかった。


 気がつくと白い空間にいた。ピエールが自分の肩を抱いていた。ジェラールとイザベル、それに仲間たちもいた。だが、シモーヌだけがいない。何故いないんだ…。

目の焦点が合ってくると、ベッドの上に白いシーツに覆われた人が横たわっていた。見慣れた横顔、シモーヌ。

 「シモーヌ、居るじゃないか?いつのように笑ってくれ!君の笑顔が世界中で一番好きなんだ!何故笑ってくれない、なぜ…なぜ…なぜ!」


 

 シモーヌは即死だった、頭部と全身打撲、出血によるショック死だった。お腹の赤ちゃんも助からなかった。検死の結果、女の子だったことがわかった。同じように事故に遭った女の子もその両親も亡くなった。

原因はワゴン車を運転していたモロッコ人の青年の麻薬の過剰摂取に因る心臓マヒだった。


 シモーヌの葬儀が終わった後も、諒太は廃人のようにいかなる表情を失くし、食事も水も全く摂らなかったので、ジェラールが病院に入院させ、点滴で命を繋いだ。

 諒太が入院して2カ月が経とうとする頃、諒太宛に届け物が届いた。オルレアンに住むシモーヌの妹からのクリスマスプレゼントで、手紙が同封されていた。


 親愛なるリョウタ、


 クリスマスおめでとう。

あなたがシモーヌのことを深く愛してくれたことに心より感謝します。

姉シモーヌは本当に優しい人でした。もちろんケンカすることもあったけど、最後はいつも自分が悪かったと謝ってくれて、優しく抱きしめてくれました。

彼女は両親からたくさんの愛を受け、リョウタからの深い愛をもらい幸せだったと思います。

女の子のぬいぐるみを拾ってあげて亡くなるなんて、なんてシモーヌらしいんでしょう。


 シモーヌが着けていた指輪をあなたにお返しします。

これが私たちからあなたへのクリスマスプレゼントです。

知っていますか?

5月1日はシモーヌの生まれた日、フランスでは『スズランの日(Jour de muguet) 』といって、愛する人へスズランを送る習慣があります。スズランには昔からお守りの意味があり、もらった人が幸せになると言われています。

また花言葉は「純粋、再び幸せが訪れる」です。

私たちは最愛のシモーヌを愛してくれたリョウタに、また再び幸せが訪れることを願っています。

きっとシモーヌも、会うことができなかったあなたの娘も、そう願っていると思います。


あなたの妹、アニエスより



 それ以降、諒太は少しずつ回復して、40キロ台だった体重も2月になる頃には、ほぼ以前の体重に近づいた。

2月中旬にはレストランに復帰して、ピエールや仲間たちとも以前のように冗談を言い合えるようになっていた。

 諒太の胸のペンダントトップには、あのスズランのリングが輝いていた。


 春になると、諒太は月に一度はピエールに連絡を入れることを条件に旅に出た。フランスのリヨン、ディジョンから南仏のエクサンプロバンス、イタリア、スイス、スペイン、ポルトガル、トルコ、チェコ、バルト海三国、オーストリア、ポーランド、東西ドイツなど、お金がなくなってくると旅先のホテルやレストランでアルバイトした。腕の良い器用な日本人は重宝された。

 そしてそんな生活が3年ほど続いた頃、ピエールから親父の葉月太一が病に倒れたことを聞かされ、急いでパリに戻りピエールやジェラールにこれまでお世話になった礼を言って、日本に帰国した。



 フィオナと陸は、お昼の2時過ぎにパリのイブリ・スール・セーヌに着いた。ブルヴァール・ペリフェリック(Boulevard Périphérique/環状高速道路)は渋滞がひどく、とりあえずベルシー通りを直進し、近場のリヨン駅の宿泊施設案内所で今夜のホテルを決めることにした。

ほんの1時間前までは長閑な田園地帯を走っていたのに、ペリフェリックはフランス中の車が集まってきたみたいに渋滞していた。

 ラジオからは男のDJが、巻き舌で交通情報やら、天気予報(たぶん?)を喋り続けていた。そして、陸も知っているメロディが聞こえてきた。たしか親父・翔太が良く聞いていた大貫妙子の曲だった。とても耳に残る、切ないようでエレガントな凛としたメロディだった。

「スゴく良い曲だね! フレンチっぽい、ドイツ人を逆さにして振り回しても絶対出てこないメロディ!」とフィオナも気に入ったみたいだった。『T'en Va Pas』女性歌手のElsaが歌う曲だった。パリの街並みに溶け込んで、陸は初めて来た街なのにいっぺんに好きになった。

 どうにかリヨン駅の駐車場に赤いプジョー206を止めて、フィオナと構内の宿泊施設案内所に向かった。

運良く、このヴァカンスの時期に改装に入ってる四つ星のホテルが使えない施設を気にしなければ、朝食付きで格安で泊まれることになった。そのホテルはマレ地区あり、セーヌ川沿いのサン=ルイ島の対岸、4階の部屋からは3年前に焼失した『ノートルダム大聖堂』が復元されつつある姿を見ることができた。遠くには『エッフェル塔』の上部だけが見えた、陸には最高の立地だった。

 長時間の運転と知らない街で神経を使ったのか、フィオナは部屋に入るとベッドに横になり、すぐに小さな寝息をたて始めた。陸は興奮していたので、パリに着いたことを叔父の諒太に、窓からの風景写真を添付してメールを送った。

たしか日本は夜の11時を過ぎたところだと思うが、すぐに返事が来た。

「陸、連絡ありがとう。写真、懐かしかった。ピエールによろしく、Bon voyage!」叔父らしい短いメールだった。



 小一時間眠ったフィオナが、お腹が空いたと言い出したので、散策がてらに同じマレ地区にあるピエールのレストラン『Le Haricot Rouge』に向かうことにした。

 マレ地区の通りには可愛い雑貨屋やオシャレな花屋、色とりどりのマカロンを並べた洋菓子屋などなど、目移りがするほど魅力的なお店やカフェなどの飲食店が並んでいた。また、ヴォージュ広場は整然と手入れが行き届いた公園で、カップルや親子連れがベンチに腰掛け、楽しそうにお喋りをしていた。

 あっという間に『Le haricot rouge』の前についた。陸はドア開けると、若いギャルソンが近づいてきた。

「Bonsoir, Madam et Monseiur !Vous avez réservé ?(こんばんは、お客様! ご予約はいただいておりますか?)」

「No, we have no reservation.」続けてフィオナが、「Vous n'ai pas réservé. Mounseiur Piere est-il ici ? Il est le neveu de Ryota. (予約はしていません。ピエールさんはいらっしゃいますか? 彼は諒太の甥っ子です。)」と答えて、陸が諒太からの手紙を手渡すと、

「Une minute sil vous prait ? Riku-san.(ちょっと待ってください、リクさん)」と言って、奥の方に消えた。

「ねえ、リック。今あのギャルソン、『リクさん』って言わなかった。あなたは自分の名前一言も言ってないのに!」

「確かにそうだね。」と陸はクビを捻った。


 陸はふと見上げた入り口の壁に飾られた幾つかの額縁の中の一枚、セピア色の写真に写っている人物に見覚えがあった。

それは結婚式の写真で、ウェディングドレスを着た可憐な女性が微笑んでいる横に、着慣れないタキシードにぎこちない作り笑いの男性が写っていた。若いが今も面影がある顔、確かに叔父の葉月諒太だった。陸はもう一度、その写真に見入った。

 その様子を見て、いつの間にか正面に立ってた、背の高いコックコートにブルーのスカーフを巻いたグレーの髪の男性が

「C'est définitivement Ryota.(それは確かにリョウタだよ。)」ピエールは陸の手を握って、体を寄せハグをした。

「Bonsoir, bienvenue, Riku. Et qui est cette femme ? (こんばんは、ようこそリクくん。それとそちらの女性の方は?)」

「Bonsoir, je m'appelle Fiona, l'amie de Riku.(こんばんは、私はリクの友達で、フィオナといいます。)」ピエールはフィオナにも軽いハグをして、店の奥に案内してくれた。

先ほどのギャルソンがニコッとして、フィオナの椅子を引いてくれた。彼はピエールの息子で、ジャンという名前だった。


 ピエールはテーブルに乗り切らないほどの料理で歓待してくれた。そして、他のテーブルのメインディッシュを出してしまうと、陸のテーブルに来て隣に腰掛け、諒太と兄弟みたいにこの店で過ごしたこと、祖父の太一と自分の父親のジェラールのことを話してくれた。

 そして、シモーヌのこと。話の途中で何度も言葉に詰まり、大の大人がコックコートの袖で涙と鼻水を拭いながら、丁寧に話してくれた。

陸にその言葉を伝えながら、フィオナもまた涙を流していた。

 諒太のフランスでのことは、今まで一度も耳にしたことがなかった。多分、翔太もその姉の奏(かなで)も知らないと思う。陸は自分が知った事実の重さに言葉を失った。

 その話を傍らにいたジャンも聞いていて、テーブルに背を向けて、腰に巻いたサロンでサッと涙を拭いた。陸は祖父の代から続くピエールの家族との関係に感謝し、この家族の優しさと温かさに胸を打たれた。

 デザートの桃のムースとコーヒーは、チョットしょっぱくて苦いものになったが、ピエールの料理は抜群に美味しかった。

パリにいる間は、毎晩ここにおいでと帰り際にピエールは言った。

「Parce que nous sommes une famille.(だって、僕らは家族だから。)」


 『Le Haricot Rouge』を出て、少し遠回りしてセーヌ川沿いを風にあたりながらホテルまで帰ることにした。

夜10時を回ってもまだ陽は高く、陸が横に並んで歩いているフィオナの目元が少し紅い色しているのを覗き込むと、フィオナはプイと横を向いて陸の腕に自分の腕を絡ませた。

「リックの叔父さんに会いたくなったあ。きっと、素敵な人なんだろうな?」とサン=ルイ島の方を見ながら、フィオナがつぶやいた。

 陸は諒太がシモーヌを愛したように、フィオナを愛せるだろうかとふと考えた。だが、簡単に答えが出るはずもなかった。

ただ、フィオナにも、自分にも目をそむけないで向き合って(Vis a Vis)、生きていこうとだけ自分に言い聞かせた。

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