第8話 California Dreamin’ (カリフォルニア ドリーミン)

ロスアンゼルス国際空港は、海が想像していたよりこじんまりとした、ほぼ東京の羽田空港と同じくらいの規模の清潔で近代的な空港だった。成田を夕方の17時に発って、同日の正午前にロスアンゼルスに到着した。

 飛行機を降りると、カリフォルニアの乾いた空気が肌を包んだ。海はレストルームに入り、顔を水で洗った。出国前に凪沙から、手で編んだミサンガをプレゼントされた。そのミサンガには、ハワイ語で『E he'e nalu(波を掴め)』という文字が編み込んであった。

 その手首に巻かれたミサンガが水で濡れて、少し硬くなった気がしたら、海は凪沙のことを思い出した。鏡に映った自分の顔をながめると12時間を超える長旅の疲れが出ているのか、両目が少し充血していた。

 Baggage Claim(荷物受取所)でスーツケースとサーフボードを受け取り、カートを押して、タクシー乗場へ向かった。


 メーカーが用意してくれたのは、マリブビーチ沿いのプライベートアパートメントで、ピロと海の二人が宿泊できるようになっていた。ピロはバリ島から経由便で今日の夜ロスアンゼルスに到着する予定になっていた。

 アパートメントに着くと、メーカーの広報担当トム・ロジャースが待っていた。

「Welcome to Maribu Beach, Mr.Hazuki ! Nice to meet you? I'm Tom.と言って、手を差し伸べた。

「Pleased to meet you, Tom. Please call me Kai.」と海はその手を握り返した。

 トムはアパートメントの設備を簡単に案内して、必要だと思われる水や食料の類いは用意してあるからと言って冷蔵庫の中も見せてくれた。2人なら一ヶ月くらい暮らせるくらいの量が用意されていた。リビングからはマリブの海が見渡せ、部屋の外のデッキは広く、テーブルとイスが置いてあった。

 また、駐車場に停まってる黒いトヨタ・ハイラックスのピックアップトラックは自由に使っていいと、カードキーを渡してくれた。

 トムは、明日の朝ピロを交えて今後のスケジュールを確認するから、それまで自由に時間を使ってくれていい、この大会のスポンサーのひとつビール会社からビールも1ケース提供されているから自由に飲んでいい、ただしクルマを使う予定がある時はダメだよと言って、人差し指を左右に振った。


 トムが部屋を出ていくと、海はスーツケースを開けて服をクローゼットの半分にしまい、歯ブラシやシャンプーなどを使い易いように並べると、まずシャワーを浴びた。

バスタオルを体に巻いたままデッキに出ると、どこまでも続く海と青空があった。湘南のような強い潮の匂いはしないが、爽やかな潮風が海の頬を撫でた。海はカリフォルニアに来たんだという実感が体の奥からじわじわと湧いてくるのを感じた。。



 芦澤冬彦の東京事務所は西麻布の交差点から広尾寄りの道をすこし入ったマンションの7階にあり、その半フロアを冬彦の事務所が占めていた。隣には大学時代の友人が経営する弁護士事務所があって、実はその友人がこの場所を勧めてくれたのだった。以前は業界の人なら誰でも知っている大手芸能プロダクションが入っていたのだが、当時の副社長のセクハラが原因で倒産してしまった。このプロダクションには立派なスタジオがついていたので、友人が居抜きでどうかと、当時手狭になって困っていた冬彦の代わりに大家と交渉してくれたのだった。

 現在事務所には、秘書の中村亜紀と主に経理と雑務を担当している小野寺真人、それに作曲家志望の君塚誠一郎とアルバイトが数名が在籍していた。

 冬彦は年末公開予定の人気アニメ映画の主題歌と挿入歌のアレンジとレコーディング、昨年公開になった映画の英語版とフランス語版のオーディション、それに来年ゴールデンウィーク封切り予定映画のコンセプト打ち合わせなどで、目の回るような日々を過ごしていた。披露山の自宅にも二週間ほど帰れず、西麻布の事務所のそばに借りているマンションには寝るだけに帰って、寝つけない時には酒を飲んで眠るような毎日だった。

 やりたかった仕事について、十分過ぎるお金も稼ぐことができ、それなりの財産もできた。美人の妻に可愛い娘もいる。

仕事仲間にも恵まれ、才能豊かな人達とも知り合いになれた。

もし今自分が死んでも、いい人生だったと振り返ってみて言い切れると思うし、周りからもいや世界中からだって惜しい才能を失くしたと思われることだろう。

 でも何故だか作曲家として駆け出しの頃、富ヶ谷の狭いマンションで上下両隣の部屋に気を使いながら、採用されるアテのない曲ひたすら書き続けた時のことをこの頃はよく思い出す。

 あの頃は真弓のことを愛していた。いや、今も愛している。だけど長い年月によって人の容姿が変わるように、街や建物が変わってしまうように、愛も変質してしまう。あの頃に戻りたいわけではない、あんなに辛い思いをするのはもうゴメンだ。ただ自分が老けただけなのかもしれない。『何かを得ることは、何かを失うこと。目に映るすべてのことは時の悪戯、いや思想だって愛だって通り過ぎる一陣の風のようなもの。何も残りはしない。』にもかかわらず、人は自分を生きるしかないのだ。そんなこと、冬彦だって十分すぎるほどわかっていた。


 その日西麻布の事務所に以前一度仕事をしたことのあるプロダクションから、冬彦あてに電話があった。意外にも娘の凪沙について話をしたいという内容だった。忙しいからあまり時間は取れないと伝えて、明日の2時ランチタイムが終わる頃に、西麻布交差点から少し青山方面に入った外苑西通り沿いのイタリアンレストランで会う約束をした。

 そのレストランは、深いブルーと白を基調とした外観のこじんまりした店で、普段はランチもコースメニューのみだが、常連の冬彦にはアラカルトで料理を提供してくれた。

 2時きっかりに店に着くと、その男はすでに一番奥の窓際のテーブルに座っていた。男は目黒裕司といって、2年ほど前にテレビアニメの主題歌を歌う新人歌手のマネージメントをしていた。髪は短く刈り込んでいて、四角い縁なしのメガネをかけ、グレーのスーツにシワのない薄い紫のシャツを着ていた。

 目黒は冬彦が近づくと立ち上がって、忙しい中時間をいただけたことに感謝しているとお礼を言った。

「目黒さん、話は後でお聞きします。まずは食事を。」と言って、冬彦は手を上げてウエイターを呼んだ。

「いつもありがとうございます、芦澤様。本日はどう致しましょうか? 北海道から新鮮なウニが入っていますが…。」

「じゃあ、そのウニでスパゲティを、あと一緒にバゲットとグリーンサラダ、それにサンペレグリノを氷なしで。」とオーダーを済ませると、「目黒さん、ここのスパゲティは美味しいですよ。」と目黒にむかって話しかけた。

「じゃあ、芦澤先生と同じものを。」と目黒もウエイターにそう告げた。

 ウエイターがデシャップ(キッチンから料理を出すところ)へ戻ると、目黒が話を切り出した。

「お電話でも申し上げたのですが、芦澤先生のお嬢様の件で今日は伺いました。先生はお嬢様がお歌いになるのをご存知でしょうか?」

披露山の自宅で凪沙がピアノを弾いたり、作曲をしたりしているのを耳にしたことはあったが、歌となると中学校の文化祭で合唱しているのを聞いてぐらいしか覚えがなかった。

「いや、知らないな。」

 目黒は先日以前から目をつけていた『Flamming Torches』というバンドのライブを見に行った時、普段のメンバーとは違う女の子がヴォーカルをとった瞬間に会場の空気が一変し、その独特の雰囲気を持った子のことが気になって、ライブ会場の関係者やバンドのメンバーに聞いたところ、それが冬彦の娘の凪沙だと言うのだった。

「東山真弓さんにソックリのお顔やお姿も、もう一部のSNSでは結構な話題になってます。」

「俺にはちっとも似てないからな?」そう言うと、「音楽の才能はお父様譲りかと…。」目黒はつかさずフォローを入れた。

「冗談だよ、冗談。それで、娘をどうしたいの?」

目黒は真面目な顔つきになって座り直すと、

「率直に申し上げますと、お嬢様をウチの事務所で預かれせていただけないかと思いまして、こうしてお願いに伺いました。」

「うーん、オタクのレッスンやトレーニングは定評あるのは知っているけど… 娘となるとね…。」冬彦は少し考えた。

「いえいえ、こちらもすぐにご返事いただけるとは思っておりません。」

 冬彦は一度家に持ち帰って、妻も含めて娘と話してみると目黒に話した。そもそも凪沙がどういう考えで歌を唄っているのか?これからどうしたいのか?を聞いてみる必要があった。

 運ばれてきた炭酸水はよく冷えていた。顔見知りのシェフが、気をきかして小アジのマリネやモッツァレラにオリーブを載せたもの、ポロネギのキッシュの盛り付けられた前菜を用意してくれた。目黒はそれらを美味しそうに食べた。今自分が関わっている米国と韓国と日本で進められているプロジェクトの話とか、Netflixの映画の話や妻の真弓が出演したドラマが面白かった話をした。

 ウニのスパゲティは絶品だった。トマトベースのクリームがウニの濃厚な甘さを引き立たせ、アルデンテのスパゲティに絶妙に絡み、それでいて後味はスッキリしていた。後でシェフに聞いたところ、隠し味に柚子のすった皮が入っているということだった。

 何度も断ったが、目黒がどうしてもというので会計は払ってもらった。何か気がかりな点とかあったらいつでも連絡くださいと薄いブルーグリーンの洒落た名刺を渡して、交差点方面へ歩いていった。冬彦はその名刺をシャツのポケットにしまって、事務所に戻った。


 

 ピロの飛行機は予定より遅れて空港に着いた。陸は借りたトヨタのピックアップトラックでロサンゼルス国際空港まで迎えに向かった。サンタモニカ方面へPCH(Pacific Coast Highway)を走らせると、右手にマリブの美しい海岸線と巨大な住宅展示場のモデルハウスのような邸宅が続いていて、ウィンドウを開けて乾いた風を入れ、地元のFM曲にチューニングを合わせると、男性のカントリーロックが流れてきた。まさにこれがカリフォルニアじゃないかと海は思った。 

 ピロはボードを2本とスーツケースをカートに乗せて、ゲートから出てきた。海の姿を見つけると、大きく手を振った。海も手を振り返した。ピロは20時間近く飛行機に乗っていたとは思えないくらい、顔色も良く元気そうだった。少し太ったんじゃないか?と海が揶揄うと、ピロは目を細めて「家族で食べる食事は旨くって!」とカラカラと声を出して笑った。海はスーツケースを持ってあげて、車を駐車しているスペースへ案内した。

 PCHはラッシュアワーの渋滞で、ノロノロ運転を強いられた。ローカルラジオはヒップホップを流していた。

 ピロはイルウが働いている病院へ10分もかからない静かな住宅街に家を借りて、イルウの母親と2人の子供達(ワヤンとカデック)と暮らし始めていた。イルウの母親は最初は住み慣れた今の家に残ると町へ行くのを渋ったが、体のことを心配したイルウとピロに説得されて一緒に住むことになった。

 ところが、一番引っ越した土地に早く馴染んだのは母親だった。買物に行った市場で同年代の人達と仲良くなって、得意料理をお互いに交換しあったり、お菓子を持ち寄って話し込んだりして楽しそうに暮らしていると嬉しそうにピロは話した。

 

 昨日は時差ボケと長時間のフライトで、海もピロも疲れていたのでアパートに着いてビールで軽く乾杯した後すぐに2人共ベッドで眠ってしまった。

 海は時差のせいで明け方に目が覚めてしまい、仕方なくコーヒーを入れて明けていく海岸線を眺めていた。凪沙からメールが入っていて、「マリブの大会怪我しないようにと、チャレンジャーだから気楽に」と書いてあった。海もOKマークのスタンプで返事した。

だいぶ明るくなってきたので、海はビーサンでデッキから浜辺へ降りて、白い砂浜を波打ち際まで歩いた。朝日が水面を照らして、海風が頬を撫でた。

 ふと、凪沙の声が聞こえたような気がした。凪沙が海のために作ってくれたあのメロディが、『潮風に逢いに』のメロディが潮騒のリズムにのって水平線の方から聞こえた。

無性に凪沙に会いたくなった。あの細い白い指に触れたかった。何も言葉を交わさず、ただ二人でこの浜辺を歩きたかった。


 アパートに戻っても、ピロはまだ起きてくる気配がしなかった。海はお腹が空いてきたので、冷蔵庫の中を見回して野菜と卵とベーコンを取り出して、レタスとキュウリ、アボカド、トマトのサラダとベーコンを焼いて卵を落としベーコンエッグを二人前作った。それから、トースターでパンを焼き、今度はコーヒーを2人分落とした。ニオイに気づいたのか、まだ寝ぼけ眼のピロがダイニングに顔を出した。

「おはよう、カイ。ずいぶんと早いんだな?」

「ああ、でもグッスリ眠れたよ。」

「おっ、うまそう。腹へった!」

「とりあえず顔ぐらい洗ってこい、子供じゃないんだから。」

「ハーイ、お母さん。」と言って、ピロは洗面所へ行った。

 

 午前9時きっかりにトムは白いダッジのSUVに乗ってアパートにやってきた。今日はアバクロのネイビーのパーカーに白いコッパンに茶色のモカシンというカジュアルなファッションだった。

「Hi, What's up, Piro?」

「Good! Tom.」と言って、トムとピロはハグした。以前からの知り合いで、同じ大会に出たこともあるようだった。

 トムはアップルエアーブックを使って、今大会の概要を説明してくれた。まず、参加人数は30人プラスワイルドカード2人(スポンサー推薦のピロと海)の32人。まず3日後のオープニングラウンドで4人一組のヒートを行いポイントの高い順に2人が勝ち上がり、ラウンド8へ進む。ここからはマッチアップで勝ち上がるとその翌日のセミファイナル、3位決定戦、ファイナルへと進むことになる。組み合わせは今夜のレセプションパーティーで発表される。優勝賞金は10万ドル、準優勝が2万5千ドル、3位が1万ドル。

 大会が行われるマリブ・サーフライダー・ビーチのマリブ・ラグーン寄りのサードポイントは、今日の午後から参加選手たちのライディングが可能ということで、ピロと海も後で練習に行くことにした。トムは夕方またパーティーの迎えに来ると言って出て行った。



 久しぶりに冬彦は披露山の自宅に帰った。仕事に終わりはなかったが、明日友人の3回忌の法事に出なくてはならなかったので、秘書の中村と小野寺に後は任せて、午後3時過ぎには愛車のグレーのレンジローバー・ヴォーグで第三京浜を目指した。第三京浜も横横道路も混雑していなかったが、朝比奈の出口の手前に事故車が停まっていて、霊園からハイランドへ向かう道も渋滞していて、自宅に着いたのは夕方の5時くらいになった。真弓は夕食の用意をしていた。昨日、冬彦からの連絡があったので、凪沙にも今日は一緒に夕食を食べようとメールをしておいた。凪沙は6時までには帰宅すると返事をくれた。

 ガレージのシャッターが開いた音が聞こえ、聴き慣れたV6エンジンの音がして、「ブルルン。」とサラブレッドがいななくようにして止まった。

「お帰りなさい。カラダ大丈夫?」ガレージから玄関へ出るドアを開けた冬彦に真弓は声をかけた。

「ただいま。ああ、何ともないよ。」冬彦から洗濯物が入ったランドリーバッグを真弓は受けとって、ランドリールームへ運んだ。冬彦はPCの入ったブリーフケースを2階奥の書斎のテーブルに置いて降りてくると、浴室に向かい着ていた服を脱いで、真弓が準備してくれたお湯が張られたバスタブに滑り込んだ。真弓は脱ぎ散らかされた服や下着を片付け、まったく子供のままなんだからと微笑みながら思った。

 風呂上がりに真弓が買っておいてくれた、冬彦が好きなヒューガルテンの瓶ビールを大きめのジョッキで飲んでいると凪沙が帰ってきた。

「ただいま、パパお帰りなさい。久しぶりだね、生きてる?」

と手を振りながら返事も聞かないで、2階の自分の部屋へ階段を駆けていった。若い頃の真弓に似てきたな、ついこの間までクマのぬいぐるみを抱きしめて、パパと一緒に寝ると涙を流している姿を一瞬思い出した。


 食卓には冬彦の好物、生姜醬油味の鶏の唐揚げ、紅生姜がのったソース焼きそば、それにジャガイモを粗くつぶしたポテトサラダが用意されていた。外ではグルメを気取っているけれど、冬彦が本当に好きなのはジャンクフードに近いものばかりだった。凪沙は白いパーカーにグレーの細身のスウェットに着替えていた。

 冬彦は2本目の瓶ビールの栓を開けグラスに注いだ。細やかな泡がグラスのフチまで昇って止まった。久しぶりの3人の夕食でどこかぎこちない雰囲気を破って、凪沙が口を開いた。

「パパ、少し痩せた?仕事のし過ぎは良くないよ、もう若くないんだから。」

「ありがとう、ナギ。ママに言われているように、毎朝ヨーグルト食べてるし、お酒の付き合いも減ったから健康そのものだよ。」と言って、正面に座っている真弓を見た。

 それから、凪沙の大学やバイト先の話を聞いたりした。そして、先日のプロダクションの話を切り出した。

「真弓にも聞いて欲しいんだけど、先日知り合いの男から電話があって、何とナギのことで話があるっていうから、事務所の近くで会ったんだけど。」自分の名前が出たので、凪沙はビクリとした。

「その男が言うには、先日ライブハウスであるバンドのライブを見に行った時、とても魅力的な歌声のヴォーカルがいて、関係者にあたってみたら、それがうちのナギだって言うんだ。」

真弓もライブの話は初めて聞いたので、少し驚いた。たまにピアノを弾いて、曲を作ったりしているのを見聞きしていたが、人前で歌ったのは知らなかった。

「ああ、この前の『surfers』の事ね。私も友達のライブを見るつもりで行ったんだけど、当日キーボードとヴォーカルやってるメンバーが具合悪くなっちゃって、そのバンドに私の曲何曲かあげてたから、急に頼み込まれて断れなくなっちゃったの。」

「そうか。それで、その男が、まあ業界でも新人の育成には定評のある大手のプロダクションだが、是非ナギを預かりたいと言ってきたんだ。ナギの気持ちが一番大事だから、とりあえず家で話してみると言って、その日は帰ってもらったんだが。」

「『surfers』って、坂下の?うわーあ、私も行きたかったな。ナギの歌うとこ、ホント見たかった。」真弓が残念そうにつぶやいた。

「ナギはどう思う?将来的に何がしたい、どうなりたいと思ってる?」と冬彦はストレートに聞いてみた。

「うーん…。できれば、パパみたいに曲を作る人になれるといいなとは思っていたけど…。」

「歌う、ヴォーカルの方は考えてないってこと?」冬彦はさらに凪沙に質問した。

「ママは歌うのもいいと思うな。ナギの声大好きだし、やっぱり、ステージって特別なところっ。聴衆の熱量やエネルギーが自分のカラダを貫いて、そこでしか感じれない昂揚と感動があるの。」真弓は普段より、熱っぽく語った。

「…実は、ママが言う気持ちがわかるの。…こないだのライブで、その感じを知ったんだ。」凪沙はこぼすように言った。

「でも、プロダクションっていうのは何か違うというか、自分と違うモノにされるような気がする。勝手な私のイメージだけど…。」そして、そう付け加えた。


 

 冬彦は少し考えているようで、手に持った箸を置きケラスに口をつけた。そして、ビールを一口喉に流し込むと、

「実は来週、来年海外公開予定の映画主題歌用のオーディションがロスであるんだけど、受けてみるか?俺の娘というのはふせて。」



 7月から8月にかけてのマリブビーチの波は、ゆっくりと長くブレイクするのが特徴で、ファーストポイントではロングボーダー達が理想とする波が来る。大会が行われるサードポイントではより大きなチューブを巻くような波が期待できるベストシーズンだ。

 昨夜のレセプションパーティーで憧れのサーファー達、ジョンジョン・フローレンスやイタロ・フェレイラ、それに今回の大会には参加しないが生きるレジェンド、ケリー・スレーター、その他CTやQCで活躍する選手ばかりで、海は圧倒された。しかし、皆んな気さくで、日本人だと言うと五十嵐カノア君の話をしてきた。ピロは顔見知りが何人かいて、楽しそうに談笑し、海にも紹介してくれた。

 今回の大会はCTとは関係なくインディペンデントな大会なので、終始和やかな雰囲気でパーティーは進んだが、組み合わせの発表の時には、一瞬空気が重くなった。さすが、勝負の世界に生きている人たちだと、海は改めてきを引き締めた。

 ピロと海はワイルドカードでの参加なので、第一ヒートのジョンジョンと同じ組に海が、第八ヒートのフェレイラの組にピロがそれぞれ入ることになった。海は何も失うものもなく、世界の一流選手に今の自分がどれだけ通用するのか、明日の予選が待ち遠しくなってきた。ピロも同じ気持ちのようで、宿泊先のアパートに帰っても、興奮してクルウや二人の子供達とネットで熱く話していた。

 海も凪沙に電話したがつながらず、少ししてから、サーフィンしているスヌーピーのスタンプと『Take it easy ! May force be with you ! Also I always be with you !(気楽にね! フォースのご加護があらん事を! それに私はいつもそばにいるから!)』というメッセージが送られてきた。凪沙らしい励まし方で、海は一気に気持ちがほぐれた。 


 

 大会当日の朝、海は案外眠れてスッキリと目が覚めた。窓のブランドを開けると、空と海が区別できるないほど空は青く澄み渡っていた。冷蔵庫からグレープフルーツジュースのパックを開けて、グラスに注ぎ飲み干した。ピロも普段より早起きして、運動会前の小学生みたいに気合いが入っていた。

 軽めの朝食を済ませ、二人は会場まで板を積んだピックアップトラックを飛ばした。会場近くになると平日にもかかわらず渋滞が始まり、さすがに地元のサーフィン熱の高さに驚いた。大会関係者の駐車場に車を止め、本部ブースでエントリーシートにサインしてパスをもらうとトムが待っていた。軽く挨拶を交わし、ピロと海を今回招待しようとしてくれた自分も「ロングボーダー』のアレックス部長を紹介してくれた。

金髪のウェーブヘアはかなり後退していたが、まだ若い(たぶん30代?)ガッチリとした体格の愛想の良さそうな男性で、僕らのライディングスタイルが気に入ったと言ってくれた。ロングボードの聖地と言われるマリブビーチだが、ハンティントンやローワーズほど有名じゃない、ショートのいいポイントもあるところを知って欲しくて、この大会を企画したと説明してくれた。


 入念なストレッチを済ませて、海に入ってウォーミングアップをしていると、第一ヒート30分のコールが始まった。いよいよ決戦の、いや海の夢の始まりだった。

 第一ヒートのジョンジョンとフランス人のマキシムとオーストラリア人のライアンと握手をして、それぞれに海へ入っていった。入ったばかりの波は少しデコボコしていて、サイズはそれなりにあったが崩れるのが少し早い感じがした。優先権を持っているジョンジョンは沖合でじっくり波を待っている。

 先に仕掛けたのはマキシムだった。中程度の波を捉えると、バックサイドでテイクオフ、小刻みにボードの先端のノーズを動かし、ボトムターンを2度繰り返して、3度目にリップザトップを成功させたが崩れた波にワイプアウト、ポイント4.86。

 そしてついに、比較的大きな波が来てライアンがテイクオフ仕かけたが、優先権を持ったジョンジョンがテイクオフしたので、ライアンはその波を譲った。ノースショアの大きな波に乗っているイメージがあるので、ジョンジョンが乗るとカリフォルニアの波が小さな波に見えた。

しかし、彼は波の崩れるリップをしなやかに滑り、大きなボトムターンから角度のあるカットバック、最後にエアロを決め、たった1本のライディングで格の違いを見せつけた、ポイント9.33。浜辺のギャラリーから、大きな歓声と拍手が起こった。

 ジョンジョンのライディングに怖気づいた訳ではないが、その後ライアンも海もマキシムも文字通りいい波に乗れずに時間だけが経過していった。ジョン・ジョンは2本目を軽く流し、トータルスコア13.86でトップ。後残り時間5分を切って、マキシム8.25、ライアン7.56、海7.44のスコアだった。優先権を持ったライアンが勝負に出た。マキシムが乗ろうとした波を奪い、テイクオフしてショルダーから浅いターンをすると巻いてきた波のカールの中に入った。しかしそのあと波はブレイクして、このチューブは失敗した。

 残り3分を切った。優先権を持つ海はボードの上で、凪沙にもらったミサンガにキスをしてから、一つ大きく深呼吸をして目を閉じた。ビデオで繰り返し見たハワイ・ハレイワオープンでのジョンジョンのライディングを一瞬思い出していた。

 そして目を開けると、水平線の手前が隆起するのが見えた。海はノーズをオカに向けると、腕に渾身の力を入れてパドリング、大きな水しぶきと共に力強くテイクオフした。リップから滑り降り、大きなボトムターンからの角度のあるカットバック、そのままカールの縁を片手でなめてチューブに入った。スローモーションのように長い時間が過ぎて波が崩れた思った瞬間、全身に水を浴び片手で濡れた髪をかき上げた海が出てきて、板の上で小さくガッツポーズをした。

 浜辺の観衆から地響きのような歓声が上がり、波の音も興奮した実況のアナウンスさえも飲み込んだ。

 ポイント9.54、ジョンジョンのライディングを上回る高スコアだった。海は逆転でラウンド8へ2位で進出を決めた。


 オカへ戻るとピロが飛び跳ねながら走ってきて、自分の事のように顔をクシャクシャにして喜んでくれた。そして観客のいるスタンドではスタンディングオベーションが起こり、海はその声援に片手を上げて応えた。

 ジョンジョンも海に近づくと、とってもいいライディングだったと褒めて熱烈なハグをしてくれた。


 ピロも海のライディングに刺激されたのか、元々緊張には程遠く、大舞台で実力以上の力を見せるタイプなので、第二シードのフェレイラとのヒートを楽しみにしていた。第八ヒート序盤に、フェレイラはそれほど好調には見えなかったが1本目に7ポイント台のエアロを決めて、早々にラウンド8への進出を決めた。

 もう一つの枠を地元アメリカのマトソンとブラジル人のシルバと争うことになったが、ピロが1本目にバレルからのエアリバースを確実に決めて5.5ポイント、そして終了間際にもオフザリップを2発決めるライディングでスコアメイクに成功して二人を突き放して2位通過を決めた。

 ワイルドカード(主催者推薦)の2人が一次予選、しかもシードの入ったヒートを勝ち上がったことで、アレックスとトムは上機嫌だったが、内心はホッとした気持ちの方が大きかった。

 午後からのラウンド8は午前中よりも波のスケールが大きくなり、好勝負が続いた。

ジョンジョンは第二ヒートを2位で勝ち上がったオーストラリア人のロブソンとのマッチアップだったが、大きな波に水を得た魚のようなライディングで3ポイント差をつけて、明日のラウンド4(準々決勝)へ進んだ。

ピロは第四ヒートをトップで通過したブラジル人のシルバとのマッチアップ。ピロは終始優勢に試合を進めた、2度目に乗った波でターンを数回繰り返し、フロントサイド・オフザリップを成功させてボトムへ難なく着水した。シルバは必死に逆転を図ろうとエアを試みるが、成功することはなくタイムアップ。ピロは見事に明日のラウンド4に駒を進めた。

 海の相手はCS(チャレンジャーシリーズ: 好成績を収めた上位はCTへの参加資格を得ることができる)でも好調なイタリア人のフィッツパルディだったが、直前のピロのライディングを見たことで、やる気のアドレナリンが出てきて相手が誰であろうと関係がないほど集中していた。ただ、フィッツパルディはサッカーイタリア代表のカテナチオを思い起こさせるような堅実なライディングでスコアを小刻みに伸ばしていた。対照的に海はのびのびと自分のライディングを楽しんでいた。

優先権を持つ海はじっくりといい波を待っていた。残り時間が5分に差し掛かり、勝利の女神はどちらに微笑むかわからない状態だった。板の上から水平線をジッと見つめていた海は、近づいてくる一際大きな海面の隆起の上が7色の光に煌いたように感じた。

海は両手で大きく水をかいてテイクオフの体勢に入り、リップからボトムへ滑り降りて大きなボトムターン、大きな波が巻いてきて片手でバレルの内側に触れてスビードダウンしながら、チューブに入る。巻いてくる波にスピードを合わせて、青い真空のチューブの穴を覗いているような感覚の中、先に輝いている光を追いかけてボードを滑らせる。カールの波が出口を徐々に塞ぐように迫ってくる。

 海はほんの一瞬だが、自分がサッカーをやっていた時に、自分の味方の選手へのパスコースが一筋の光る線に見えることがあった。その現象と似たように、チューブの出口までの一条の道が瞬くのが見えた。

 

 チューブを抜けたのがわかったのは、太陽の陽射しとどこまでも青い空が見えたからだった。海がマリブに着いて、見上げた、まさにカリフォルニアの青空だった。

 海の耳にはギャラリーの歓声も、ましてや波や風の音さえも聞こえなかった。オカに上り、ボードを脇に抱えて砂の上を歩いた。今まで経験したことのない恍惚感が海を包んでいた。

 ピロとトムが駆け寄ってきて祝福してくれたが、海には現実感がなく、ただ呆然としていた。

 そして、興奮したギャラリーの喧騒の中で、自分の名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。いや、聞こえたような気がした。咄嗟に振り向いて、砂の中に埋もれた小さな貝殻を探すようにギャラリーを見渡した。


 そこにいるはずのない人を見つけた。一度は目を疑ったが、それは紛れもなく、凪沙本人だった。

 いつものような優しい微笑みをたたえて、凛と立っていた。確かに、凪沙がそこにいた。

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