第4話 Girls a Go Go(ガールズ・ア・ゴー・ゴー)

  雨季の終わりとはいえ、バリの湿気が肌につく暑さから比べると、5月の湘南の風は爽やかだった。

 海は1ヶ月ぶりに逗子の自宅に戻った。

「なんか痩せたんじゃない?ちゃんと食べてたの?いいから、洗濯物出して!」雪乃の相変わらずのマシンガントークの洗礼を受け、海は荷物を放り投げリビングのソファに倒れ込んだ。 

 海が目醒めるとグレーのブランケットがかけてあった。リビングの照明は落としてあったが、続きのダイニングの方には明かりがついていた。旅の疲れから、帰宅後ソファでそのまま眠り込んだらしい。

 海が起き上がるのを見て、雪乃が声をかけた。「やっとお目覚めかしら?今日は珍しく、翔ちゃん帰って来てるわよ。」

翔ちゃんとは親父のことで、母は昔からこの呼び方で親父のことを呼んでんいた。他の家へ遊びに行って、その家で両親が『パパ』とか『ママ』とか母さん、父さんと呼び合っているのを見ると、海や陸にとっては不思議な感じがした。

「カイ、おかえり。バリの大会惜しかったな?Youtubeで見たよ、相手がオリンピック候補の小原じゃ仕方ないか?」サーフィンに関心ない翔太がバリの大会を見ていてくれたことに少し驚き、そして少し嬉しかった。

「ありがと、シャワー浴びてくるわ。」海は照れを隠しながら、浴室へ消えた。


 シャワーを浴びて、髪をタオルで拭きながらダイニングに戻ると、夕食のいい匂いがしてきた。メニューは陸も大好物のコロッケだった。

 葉月家のコロッケは、スーパーや肉屋で売ってるようなコバン型ではなくタワラ型で、茹でたジャガイモを粗めに潰して、あらかじめ炒めた挽肉とタマネギ、ニンジン、ピーマンなどを合わせて、小麦粉、卵、パン粉の順につけて油で揚げてあった。

海と陸はこのコロッケが大好きで、2人でそれぞれ10個以上も平らげ、最後の1個を取り合ってケンカになることもしばしばだった。

 翔太は珍しくウィスキーのロックを飲んでいた。ロックグラスは結婚20周年のお祝いに雪乃からプレゼントされた表面に細かな彫りが入ったバカラのグラスだった。

「何飲んでんの?ウィスキーなんて珍しくない?」

「ああ、『グレンリベット』、スコッチだよ。カイも飲んでみるか?」

「うん、スコッチ(少し)。」

「ユキ、息子にオヤジギャグで返されたよ!」翔太は笑いながら立ち上がり、食器棚の扉を開けグラスを取り出した。グラスに氷を入れ、緑色のキャップを開けて琥珀色の液体を注ぎ込むとコクコクコクという心地良い音がした。

海の喉が鳴って、さっそく飲もうと手を出したその手を翔太は遮り、ゆっくりとマドラー代わりのお箸の頭で円を描くようにかき回して、海の前に置いた。

「さあ、召し上がれ。」

口当たりは軽く、ウィスキー特有のキツイ香りもせず、スムーズに喉を通り抜ける。そして、最後にモルトの余韻が立ち上る。

「ウィスキーって、こんなに美味しいの!知らなかった。」

 日本でも海外でももっぱらビールを頼んできたし、オジサンの飲物でウンチクがウザいし、素人を寄せつけないようなイメージを持っていたが、完全にノックアウトさせられた。

「たまにはイイだろう、ウィスキーも。」そう言って、翔太はグラスの氷をカランと鳴らした。 




 バリの大会で海は準々決勝のヒートまで進んだが、オリンピック候補にも上がった小原悠斗に大差をつけられて負けた。

 ピロはその小原と決勝でぶつかることになった。

しだいに波が小さくなってきたこともあり、どちらも決定的なライドを決められず、一進一退の攻防が続いたが、ピロの方が僅差でリードしていた。

 制限時間が近づき、そこにいた観客を含めた皆んながピロの優勝を確信していた。

 しかし、小原はあきらめていなかった。最後の最後にさほど大きくない波をつかまえると、強引にリップアウトしてエアロに繋げて空をを飛んだ。

ほんの一瞬の出来事だったが、スローモーションのように大きく回転した小原のエアロが決まったのが、崩れた波を割って出てきたボードによってわかった。

ギャラリーの歓声が海面を揺らしながら、水平線へ渡って行った。

 オカに戻ったピロは素直に負けを認めて、海水に濡れた冷たい小原の肩を抱いて祝福した。小原もピロを抱きしめ、互いの健闘を讃えあった。


 優勝を逃してしまったが、大会後ピロはイリウにプロポーズした。

指輪も花束も何もない気持ちだけのピロらしいストレートなプロポーズだった。イリウはピロからの思いがけないプロポーズにその場にへたり込み、やがて大粒の涙を流しながら、「Yes.」と小さくつぶやいた。

 ワヤンはその様子を覗き見ていて、「ピロがカデックの本当のパパになるって!」と弟の耳にささやいた。

カデックは嬉しくなって、部屋から飛び出してピロの足に抱きついた。後からワヤンも少し恥ずかしげに同じように抱きついた。

ピロは3人を包むようにして、力を入れて抱きしめた。何か温かいモノが4人を包み込んでいるようだった。



 海には高校2年生の時からつきあっている女の子がいた。名前を芦澤凪沙(あしざわ なぎさ)といって、海のひとつ年下、陸と同じ年だった。

 海が「バックヤーズ」に入り浸るようになって、時々夏美さんのカフェと雑貨店”Anuenue (アヌエヌエ:ハワイ語で虹)”を手伝うことがあった。

なんせバックヤーズに来るのは、モリケンの友達か金持ちのサーファー(モリケンが作るボードは高額で品質が良いことは有名だった)か変わり者、あと借金取りくらいだったから。

それに比べ夏美さんのお店は、パンケーキをはじめとするハワイ料理が現地より美味しいと評判だった。だから地元の人はもちろん、ここを目当てに来る観光客も絶えなかった。

あまり忙しくて、手が足りない時に海に声がかかるのだった。海はもともと愛想が良く人好きするタイプだったので、夏美さんも手伝いを頼みやすかった。


 高校の夏休みが近づいた土曜日、「アヌアヌエヌエ」は開店と同時にお客さんでいっぱいになった。夏美さんは、朝の海から上がってシャワーを浴びたばっかりの海に、いつものようにカフェの手伝いをお願いした。モリケンが、俺も手伝おうか?というと、夏美さんは真顔で邪魔だし、その熊みたいな図体で店内を歩き回られると逆に迷惑だからと即座に断った。

 まだ濡れた髪のまま短いエプロンを巻いて手伝いに行くと、見たことのない女の子が1人立っていた。それが凪沙と最初の出会いだった。

「今日からバイト入る、ナギサちゃん。海くん、よろしくね!」そう夏美さんが紹介すると、「アシザワナギサです。よろしくお願いします。」見た目の大人しい容姿とは違和感のあるキッパリとした透き通るような声だった。

 凪沙は高台の披露山から通って来ていた。大船寄りにある私立高校の1年生で、アルバイトするのは初めてだった。小柄で黒いストレートの髪を肩まで伸ばして、聡明そうな切れ長の目が年齢より大人びた印象を与えていた。

 海は自分が習ったように、テーブルの配置とその番号、塩・コショウ、ケチャップとマスタードなどの置き方、フォーク・ナイフ・スプーン・紙ナプキンのカトラリーへの入れ方、注文の取り方とキッチンへの通し方などなどを教えてあげた。

凪沙はその度に小さなメモ帳に几帳面な字でメモを取り、時にはイラストやスマホで写真を撮って、素直に話を聞いた。

今どきの女の子には少ないその真面目さや真剣な姿勢に海は好感を持った。

 1週間も経つと凪沙に海が教えることは何もなくなった。

凪沙は物覚えが早く、まるでバレリーナのようにテーブルの間をスルリと移動して、笑顔で注文を取り飲み物や料理を運んだ。夏美さんはそんな凪沙のことを目を細めて見て、海の脇を人差し指でつついて、「ナギちゃん、いい子でしょ?」と言った。

 

 海はもともと陽気な性格で、母親に似て端正な顔立ちをしていた。スポーツも常に中心選手だったので、否が応でも目立つ存在だった。だから校内は元より他校の女子高生からも、何度か手紙をもらったり、告白されたことがあった。でも海にとってサーフィン以上に夢中になるような女の子は今まで現れなかった。


 夏休みも後2週間を切った、サラッとした海風が暑かった空気を山側へと運ぶ夏の夜、海はモリケンから留守番を頼まれた「バックヤーズ」の戸締まりを終え帰ろうとしているときだった。

夏美さんがカフェから出てきて、「海くん、悪いけどナギサちゃんを家まで送ってってくれないかな?今日お客さんが後半立て込んじゃって、残業お願いしたらこんな時間になっちゃって。」

「別にイイっすよ。」海は答えた。

「ホントごめんね、披露山下の坂さア暗いでしょ。なんかあったらって思ってね。じゃあ、お願いね!」

凪沙はスノーウィ(『TinTin』のイヌのキャラクター)の白いTシャツにベージュのスカート、黒いポシェットを肩から斜めにかけて、ポツンと立っていた。

 2人は無言のまま自転車で国道から枝道に折れて、小坪方面へ向かった。途中から緩やかな登り坂が長く続くので、2人は自転車を降りヘッドライトをつけたまま、押して歩いた。

 今夜は明日が満月になる14番目の月で、ほぼまん丸の月が群青色の空に浮かび、辺りを明るく照らしていた。

東京などの都会と比べると、この鎌倉・逗子地区の街灯の数は少なく、夜は男でも少し不安な気持ちになることがあるので、凪沙にとっては明るい月明かりの下とはいえ海が心強かった。


 凪沙の父親は今では世界的に有名なアニメや映画音楽の作曲家・音楽プロデューサー『芦澤冬彦』で、まだ冬彦が作曲家として駆け出しの若い頃、アイドルグループの作曲を手掛けていた時に、そのアイドルグループのセンターだった凪沙の母親『東山真弓(当時)』と電撃的に結婚した。

当時は真弓の引退を惜しむ声と、ほんの駆け出しの作曲家と結婚して大丈夫かという、将来を心配する声がほとんどだった。

しかし、冬彦はそんな世間からの風評も全く気にせずに、月に一件あるかないかの依頼に自らの才能の全てをぶつけ、作曲に没頭した。また、真弓も冬彦の才能を愛し、その一途な思いを眩しく感じていた。

 やがて、冬彦が依頼を受けた、これも新進のアニメーターが手掛けるSFアニメの主題歌・挿入歌・エンディング曲の作曲が、その世界観とエキセントリックな手法によってまず海外で評判になり、その後日本でも大ヒットして冬彦は一躍「時の人」となった。

 今では東京の他に、ロスアンゼルスとパリに事務所を構えるまでになり、ここ関東でも有数の高級住宅街に自宅を建てた。

 真弓は結婚と同時に妊娠して、1年後に凪沙を出産した。当時暮らしていた富ヶ谷の1LDKマンションで、仕事に打ち込む冬彦を献身的に支えながら、凪沙の育児を一人懸命に続けた。

 冬彦の仕事が軌道に乗り、披露山に家を建て、凪沙の中学受験が終わると真弓の心に変化が現れはじめた。


 凪沙は小さな時は病弱で感受性が強く、真弓が少しでも離れると泣き出してしまうような過敏なところがあった。だが、小学校に入ると親からの遺伝なのか、音楽と絵を描くことに才能を発揮し始め、3年生になる頃には自分で作曲をはじめ、絵のコンクールでも全国で賞をもらうようになった。

それからは、真弓は子供というより、凪沙をひとりの人格として姉妹のように接するようになった。

 そして真弓自身も昔憧れていた女優という道を目指してみたいと思うようになった。冬彦には内緒で、アイドル当時マネージャーをやっていた女性が恵比寿で芸能事務所をやっていたので、アポイントを取って恵比寿まで足を運んだ。

 そして、事情を話し、恐る恐る自分に女優の仕事があるか聞いてみた。

「そうねえ、20年前アイドルだったあなたのことを覚えているのは40代以上の人だけだし、女優を舞台から叩き上げでやってきた人たちと役を競っていかなきゃいけない。傍目です見てるよりずっと厳しいかもしれないよ。」

「それは十分分かっています。でも、私の残りの人生をかけて、挑戦してみたいの!」

「わかった。真弓ちゃんの決意がそこまでなら、協力しましょう。」そう言って、MacBook のキーボードを叩いた。

「え〜と、今2つ候補があるんだけど、どちらも2週間後の土曜日にオーディションの予定。一つはNテレビのゴールデンでヒロインの母親役、でもう一つはネットドラマで主人公の上司、ミステリアスな悪女。まあ、無難なのはNテレビの方だけど。」

真弓は少し考えて、「ネットドラマの方でお願いできますか?」

「真弓ちゃん、よく考えてね! そりゃ元アイドルが20年ぶりに芸能界復帰、しかも悪女役でなんて、話題性はあるわよ。でもその悪女のイメージが、それ以降あなたを縛ってしまうかもしれない、私はそれが怖いの。」

「心配してくれてありがとう。でも、そのイメージを払拭する前に、元アイドルのイメージを完全に払拭させたいの。」真弓は真剣だった。凪沙に対しても、冬彦に対しても、母でもなく妻でもなく1人の人間として対峙したかった。



 披露山住宅の入口に差しかかった時、何か考えごとをしているようだった凪沙が前を行く海に突然話しかけた。

「海くん、大崎公園まで廻り道していいかな?」

「えっ、別にいいけど。お家は大丈夫?」

「うん、大丈夫。父さんは出張中だし、ママはおばあちゃん家に行ってるってメール来てたから。」


 2人は大崎公園の入口で自転車を降り、七里ヶ浜と江ノ島が見渡せるベンチの近くに自転車を停めた。

 星空のスクリーンの中、月明かりに波が煌めいて、江ノ島の灯台や国道を走る車のテールランプとヘッドライト、海岸沿いのお店や住宅の灯りが瞬いていた。

 2人はベンチに並んで腰掛け、その風景をしばらく眺めた。

すると、凪沙が囁くような声でメロディを口ずさんだ。

それは、不思議なメロディだった。

それは、この今見ている景色から聴こえてくると錯覚してしまうような、そんなメロディだった。

母親が音大を出ていたので、子供の頃から自然と音楽に親しんできた海だったが、それは今までに聞いたことのない旋律だった。

 遠い宇宙から響く緩やかな波動のようでもあり、砂漠や極寒の針葉樹林を吹く人を拒む風のようでもあり、南国の包み込むような暖かい波のうねりのようでもあった。

ドビュッシーが現在生きていたら、もしかしてこんな曲を書いたかもしれないが、繊細な中にどこか力強さを秘めたような曲だった。

「この曲はねっ、お店からね、海くんが波に乗ってるのを見ていた時、思いついたの。だから、海くんの曲。」

そして、凪沙は海の頬に軽いキスをした。

「ありがとう、おやすみなさい。」そう言い残して振り向きもせず、凪沙は自転車に乗って行ってしまった。


 海は月明かりの中、1人取り残され、時間が止まってしまったような遠くの海をただボーっと見ていた。

 何が起こったのか?

また『ありがとう』と『キス』の意味を考えながら、ジャンヌダルクに鋼の鎧の上から胸に剣を突き立てられた戦士のように、海は初めて女の子に恋をした。

 

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